6)ルイザ・マイン
息子が偉くなった話をもうひとつ。ルイス・ガマという著名な詩人がいます。大向こうを唸らせるような名演説をする弁護士で、有名なドレイ解放運動の闘士ですが、この人はルイザ・マインというドレイの息子なのです。ルイザ・マインはジェジェ・ナゴー王国の王女だったそうです。1807年から 1838年にかけてバイアではひんぱんに黒人マホメット教の暴動が起きました。アフリカのスダン地方から来たドレイが多く、アラビア文字が書けたといわれます。マレース暴動とよばれる1835年の事件がありますが、ルイザは参謀本部となった屋敷で、料理人として働いていたので、そこからアラビア語で書いた指示を送っていました。不足した調味料の買い足しを装ったといわれますが、この発想が女ならではです。 もしこの暴動が成功していればルイザは間違いなく「バイア革命の女王」とあがめられたはずだといいます。しかし事前に発覚。市街の焼き討ちを企てていた関係者は捕縛されますが、ルイザは運良くリオに逃亡。ここでもまた、黒人解放運動に身を投じ、そこで捕らえられ、アフリカに送還されます。ドレイを解放したいという止むに止まれぬ思いがあったのです。
ルイザの連れ合いはポルトガル人で、幼少の頃は景気もよく、息子のルイスもかわいがられて育ちます。ところが事業に失敗した父親はルイスを奴隷として売り飛ばしてしまいます。これでは、成長してから奴隷解放運動家にならないほうがおかしい。親は子を思い、子は親を思って奴隷解放運動に打ち込んだような気がします。親子はとうとう再会できませんでした。ペレイラというドレイ商人はルイスを買って儲けるつもりだったのですが、人より体が小さく、しかもバイア生まれ。アフリカ生まれのドレイではなかったので値もつきません。ペレイラが仕方なく自分のうちで使います。アントニオ・プラード・ジュニオルという法学生がペレイラの家に寄宿し、兄弟のように親しくなり、文字の手ほどきを受け、詩を書くようになるわけですが、警察署の書記という職を得て、ポルトガル語に磨きがかかります。が、反体制の思想をもつ人間が体制側で働けるはずもなくクビ。苦労しますが、ルイスの活躍は目覚しく、舌鋒するどく、奴隷制度を糾弾して止まなかったといいます。
『私はアフリカ生まれの黒人ドレイ、ナゴ王国のルイザ・マインの子。母はキリスト教を否みつづけた異教徒。やせて小さく、しかし美しく、その歯は雪のように白かった。気高く、寛容で、苦労人。働き者の母だった・・・』と母を恋う文を認めています。
ルイザは元は八百屋でした。黒人が八百屋というと日本人は奇異に感じます。農業は自分たちの専売特許だと思うわけなんですが、500年前、ブラジルに農業を伝来させたのはアフリカのドレイたちで、キロンボなどは自給自足をやっていました。町に出たドレイは八百屋や駄菓子屋をやるんですね。
20 世紀になって街に出てきた日本移民も八百屋を開きました。今まで奥地で野菜を栽培していたので、移民にはとっつきやすい職業だったのです。野菜のよしあしも分るし、日銭が入ります。現在でも朝市の野菜売りに日本人が多いのはそのあたりに理由があるのでしょう。同胞社会のリーダーたちも、その昔、縫い物をし、野菜を作り、菓子を売った母親たちから教育を受けさせてもらったのです。
アフリカにはもちろん多種類の黒人がいるのですが、ブラジルに送られたのはほとんどがヨルバ系のバンツー族とスーダン族で、彼らはすでに鉄器を使い農業と牧畜を行っていた先進国人でした。もちろん文化的にもブラジルに大きな影響を与えています。パトロンのポルトガル人には読み書きができない者がほとんどでしたが、ドレイ小屋に押し込められていた彼らは識字者だったのです。
官憲によって事前にかぎつけられ、つぶされてしまった黒人の大陰謀があります(1835)が、この反乱を企てた黒人全員がアラビア文字の読み書きができたという記録があります。「1835年ごろのバイアでは、ドレイ小屋の者のほうが地主の階級よりも読み書きができた」というのは例のフレイレ。前記のズンビやアクルツネやルイザが識字者のよい例です。
その後、19 世紀にかけて、ブラジルにはナゴーとよばれるヨルバ系の子孫が多数輸送されてきました。体格もよく、おとなしくてよく働き、利口だったのでバイアで最も歓迎されました。バイアとか黒人と聞くと、私たちの頭にすぐ浮かぶ白いタップリした装束の人たち。バイア名物になっている『カンドンブレー』もナゴーの宗教です。最もこのタックやギャザーの多い白い衣装は商売用。何年か前、リベルダーデの東洋市で、バイアナ衣装で「アカラジェ」という、ブラジル式てんぷらを売っていた女性もいました。最近は見かけないので「てんぷら」に押されてしまったのでしょうか。
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