水野龍
水野龍(みずの・りょう)
quinta-feira, 17 de janeiro de 2008

 水野龍氏は、ブラジルの日本移民史を語るにあたり、その第一人者として後世に伝えられるべき人で、サンタ・カタリーナ州のドイツ植民地の先駆者ヘルマン・ブルメナウ氏に比すべき人物である。

 ブルメナウ氏一行の着伯は、第一回日本移民渡伯に先立つこと58年で、1950年ブルメナウ百周年祭が行われている。

 なるほど、水野氏の移民契約なるものは、時の杉村、内田の両公使や三浦通訳官のなどの力強い援助があってこそ、可能であったかも知れないが、さりとて水野氏が、この契約の当事者であり、主役であり、同時に全責任者であったことに間違いはない。しかも彼は、終始ブラジル移民にその精根を費やし、大正13年(1924)海興の重役陣を引いてから、家族を挙げて渡伯、クリチーバに居を定めて「パラナ州もやがて日本人の発展地たらねばならぬ、自分はこの地に一本の旗を立てる考えで移って来た」と人に語っていた。後年、当時のパラナ州知事マノエル・リバスよりクリチーバ高原の官有地を求め、昭和12年(1937)、そこに土佐村の建設に乗り出した。気候は良し交通もまた申分なき土地柄であったが、何分草原の痩地であったため、好んで村造りに入る植民はなく、これを完成するには多大の資本を必要とする所から、1941年(昭16)、単身83歳の老躯を提げてこれが金策に帰国した。 

 然るに同年末、不幸日米戦の勃発となり、彼は苦しい歳月を、永く祖国ですごさねばならなかった。終戦後の1950年(昭25)5月19日、呼び寄せられて懐かしい妻子の許に戻ったが、過度の栄養失調により心身いたく衰え、最早昔日の彼ではなく、翌年8月14日、このブラジル日本移民の祖人は、サンパウロ市に於いて永眠した。享年92才。(サンパウロ墓地第26区第121号に埋葬さる)

 水野龍氏に関しては、かつて伝記も世に出ており、今更贅言(ぜいげん)蛇足も要しないが、せめてパラナ高原におけける晩年の生活の断片を描いて、彼の面影を偲ぶことにしたい。筆者が彼を最後に訪れたのは、確か昭和15年(1940)6月であった。ポンタ・グロッサよりクリチーバ市に向って、ふた停留所目のデスビオ・リーバスから2,3キロの所に、水野老夫妻は住んでいた。このあたりは殆んど平坦で、草原が見渡すかぎりつづき、所々の低みにはパラナ松が空高く枝を張り、いかにもこの地帯特有の、軽快な高原風景を構成している。十分ほど歩くと水野家らしいのが見え出した。草原がつきて、パラナ松のまばらな間に立つ白壁の平屋造りである。近づくと、誰か庭先きで薪を割っていた。若しやと思ってよく見ると、正しくポライナを着けた水野老人であった。「やあ、輪湖君ですか」と斧をおさめて元気よく、家の中へ案内した。この家に住むのは水野老夫妻のみで、周囲には数家族の植民がいるばかり、すこぶる閑静な所であった。

 ある日、勝手場に隣する物置きの戸を開けて「輪湖君、あれを何んだと思う」という。よく見ると、鈴蛇を乾したのが、幾本もさがっていた。「あれを粉にして持薬にしているが、グワラナより良く利くよ。これ、こんなに頭の毛が黒くなった」と頭を傾けた。全部真白かった頭髪の裾の方が黒くなっていた。この分だと、いづれ天辺の禿にも木が茂るだろうと笑った。80を越してなお、精力を楽しむあたり、まことに愉快な老人である。また、こんな話もした。幕末の頃、とある娘を連れてひそかに落ちのびねばならぬ武士があった。野越え山越えして娘は疲れ果て、最早一歩も動けなくなった。万策つきた武士が思い出したかの様に、娘をひしと抱きしめて一活入れた所、不思議と娘は元気を取り戻したそうな、などと、黙って聞いて居ると若い者顔まけの水野氏であった。

 水野氏はポツラポツラと永い一生の出来ごとを夢見る如く語った。その中で、興味深く聞いたのは、大隈の暗殺計画と、第一回移民輸送時の金策であった。水野氏は、明治の中葉天下の志士を以て任じ、東奔西走していたが、大隈重信氏を危険人物と認識し同志と暗殺を計った。その方法は、火薬を小箱につめて、小包郵便で送り届け、これを大隈氏が開くと爆発するという仕掛けであった。水野氏が苦笑していうのに、「ところがね、知識のないものは仕方のないもので、君の国信州へ行って、ひそかにこれを試験した時は上成績だったのだが、新しく作らせた箱の板が、よく乾燥していなかったため、火薬が湿気をくい大隈伯が開いては見たものの、なんのことはなく、不思議なものよとこれを警視庁に調べさせたところ、危険な爆薬だとわかり、大騒ぎとなった」

 後年、水野氏は、前非を悔いて、幾度びか大隈侯に詫びようとしたが、会うたびに滔々と吹きまくられて、つい言いそびれ引きさがるのを常とした。「今は大隈侯も死んでしまい、もう詫びようもない。こればかりは私の心に残る」と述懐していた。

 次に笠戸丸移民を神戸から送り出すに先きだって、皇国殖民会社は日本政府に保証金10万円を積み立てねばならなかった。5万円は出来たが、残りの5万円の工夫がどうしてもつかず、四苦八苦の末、ようやく3万を作り得て、これで勘弁して貰ったのであった。この経緯を知る人は多いが、最初の5万円については、その出所を他言していないようである。移民契約は出来たものゝ必要とする資金は八方塞りであった。滋野男爵家とどういう関係にあったか知らないが、水野氏は困じ果てた末、若しやと思い滋野男爵未亡人に相談を持ちかけた。所が未亡人は暫く考え、「手許に現金はありませんが、若しやこの家敷がものを言うならば」と、これを担保として金5万円を調達してくれた。笠戸丸移民は、私よりこの未亡人に負うところ大なりと水野は感慨深く語った。移民史の影には、こうした役割を果したものもあると知るべきであろう。

 パラナ高原に晩年を托した水野氏は、毎朝未明に起床し、折目正しき日本着で、燈明を点じて端座し、朗々と読経をはじめ、これが終ると過去帳を読みあげるのだが、それがすこぶる永い。かつて水野氏の知る人々の殆んど凡てにおよび、上は大臣から下は女中に至るまで、ブラジルに於ける耕地通訳や移植民など、その数5,6百名に達するのだから、たまらない「私が長生きをするものだから、過去帳を読むのに時間がかゝって閉口します」と笑っていたが、これは一日も欠かしたことのない、お勤めだそうである。

 往々水野氏の悪口を耳にすることもあるが、彼には一貫した強い主張があり、その常住坐臥より推断しても、先駆拓人として、傑出した人物であった。

 附記 − 水野氏の略歴

 水野家は、美濃国太郎丸の城主、澤尾氏の家臣、関ヶ原役後、土佐山内藩の家老となった、澤尾氏に随い、池野姓を名乗ったが、明治に入って水野姓に復した。

 父亀子(カメス)の次男として安政6年(1859)11月11日生れ、明教餡に学び、北原村小学校教員となったが、18才の時に上京した。明治21年(1888)、慶応義塾を卒業、後藤象二郎に識られて岡山県庁に勤務中、徳島藩士の女、岩佐規矩与と結婚した。後藤氏の死により、官界進出を断念して政界に入り、板垣退助の自由民権派の闘士たり、明治31年(1898)、奈良県より代議士に立候補せしも、演説過激とあって投獄せらるゝこと40日。

 明治27年(1894)、サンパウロ市のプラード・ジョルドン商会の代理人が来朝し、吉佐移民合資会社に、サンパウロ州に移民誘入の件を申し入れたが、日伯両国間の修好条約締結前とて成立に至らなかった。明治28年(1895)、日伯修好条約成り、30年(1897)1月、吉佐移民会社は、青木忠橘氏をブラジルに派遣し、プラード商会との移民交渉をまとめ、郵船土佐丸で神戸発航の準備をしたが、ブラジルの珈琲の暴落で、引受を断わられ、この移民契約は破棄された。

 明治38年(1905)、杉村氏がブラジルの弁理公使となるや、官民挙げて日本移民を懇請するので「南米伯剌西爾国サンパウロ州移民状況復命書」「南米伯剌西爾国ミナス・ジェライス州視察復命書」等を本省に提出した。北米、布哇、豪州等への進出が封鎖され、日露戦争の民心興揚して海外発展熱漸く熾なる当時とて、この報告書が新聞紙に転載さるるや、意外なる反響を生じた。「南米移民の断行を望む」の標題で外務省に意見書を提出し、南米発展を唱導しつゝあった水野氏も、杉村公使のこの報告書を見て、渡伯熱に拍車をかけられ、1905年(明 38)、ブラジルの実地調査のため、ペルー国経由翌年4月リオに着いた。

 ペトロポリスの杉村公使を訪問後、サンパウロ州移植民会社社長ベント・ブエノ氏、州知事、農務長官等と会見し、州内主要耕地を視察した。新移植民法制定を考慮中の州政府が、日本移民を目標とする新条項を法令に挿入する旨の内約を得て、7月帰国した。帰朝後、「南米渡航案内」を刊行、大いに南米熱を煽った。1907年に再渡伯し、内田定槌公使の斡旋で、同年11月6日サンパウロ州農務長官カルロス・ボテーリョ氏と、向う3年間に、日本移民3千人輸送に関する正式調印を了するに至った。

 1908年(明41)1月、北米経由で帰国するや、移民1千人募集の許可を外務省より得、同年4月28日、ブラジル行第一回移民781名が、皇国殖民会社の取扱により東洋汽船の笠戸丸で神戸港を抜錨した。輸送監督は水野龍氏、輸送助監督は上塚周平氏。

 配耕地の騒擾事件勃発のため、上塚氏と百方苦労したが、11月14日改定契約の調印を終え、12月、第二回移民送出し準備のため帰国した。

 皇国殖民会社の経済難と、第一回移民の耕地就働不成績のため、第二回移民募集が外務省より不許可となったので、水野氏は移民輸送契約に関するサンパウロ政府との権利義務を、高知県の富豪竹村与右衛門氏に譲渡し、竹村殖民商館の名によって第二回移民247家族909名が、原田汽船の旅順丸で、1910年(明43)5月4日、神戸港を出帆した。この間、外国語学校卒業を前にして、長男龍男氏が病没したことは、精神的に大きな打撃を与えられた。

 第四次渡伯に際し、日本に於けるブラジル珈琲宣伝に関する契約、(1910年10月11日聖州と締結す)に基づき、資本金5万円で、東京にカフェ・パウリスタを設立、その社長となり、東京、名古屋、大阪等に支店を開設し、年々珈琲3千俵を日本に送らせて珈琲の宣伝を兼ねて、日伯関係の増強のよき宣伝をした。

 1915年(大4)、竹村植民商会を譲り受けて、南米植民株式会社を設立、1916年(大 5)、東洋、森岡両移民会社と合流して、ブラジル移民組合を組織した。翌年12月、東洋移民、南米殖民、日本移民、日本殖民の4会社を合体し、海外興業会社を設立し、1919年(大8)ブラジル拓植会社を、1920年(大9)11月、森岡移民合資会社を併合したので、海興の独り舞台となり、水野氏の宿望たる移植民事業の統一が、漸く実現するに至った。

 専務取締役として在任中、第六回目の渡伯をなし、移民の現況を巡察帰朝し、「在ブラジル移植民近況見聞所感並に施設私案」と社長に提出したが、その真剣な献策が入れられず、憤然として辞職した。

 1923年(大12)5月、第七回目の渡伯をなし、加藤順之助氏とパラナ州を巡歴したが、9月、関東地方に大地震の入報あり、急遽帰国した。

 翌年、一家をあげて渡伯(第八回目、当時65才)パラナ州クリチーバ市郊外に居を定め、果樹、茶、蔬菜栽培に従事した。偶々マヌエル・リーバス州知事が「欧州移民よりは農業技術のより優秀な日本人をパラナ州に入れたい。土地は提供する」との言葉に感激し、理想的な移住地建設の意欲をもやして、1935年(昭10)1月訪日し、高知県海外移住組合を組織し、助成金を以て事業に着手することとして帰伯した。パラナ州ポンタ・グロッサ市とパルメーラ市の中間の州有地に「コロニア・アルボラーダ」なる土佐村を建設したが、日支事変による助成金減額のため、窮地に陥り、1941年(昭16)6月、サントス丸で訪日し、資金調達中、12月7日の対米宣戦布告のため帰伯の途を遮断され、爾来10年間、日本滞在を余儀なくされた。1950年(昭25)5月19日、旧友の醵金によって、サンパウロの地を踏んだのが、実に、第十回目の渡伯で、91歳の高齢であった。これより先1933年(昭8)6月、日本移民渡伯25周年記念祭に当り移民功労者として表彰され、翌年紀元節には勳六等単光旭日章を贈られている。

写真:中央が水野氏


サンパウロ人文科学研究所 Centro de Estudos Nipo-Brasileiros