山縣勇三郎
山縣勇三郎(やまがた・ゆうざぶろう)
quinta-feira, 17 de janeiro de 2008

 一代の風雲児山縣勇三郎氏は、肥前平戸藩の勘定奉行だった名家の出。万延元年(1860)2月、父中村彌八、母寿子の三男に生れた。明治12年(1979)、21才の時、郷関を去つて東京市に出て、北米行きを謀ったが成功せず、翌年、陸軍士官学校を受験したが不合格となる。

 明治14年(1881)、柏木根室小学校長に従い北海道に渡る。根室町長石橋嘉吉氏の紹介で、柳田商店の帳簿係となったが、年余にして、内地よりの移住者相手の古着、古道具商を開業した。次いで海産物商を始め、函館、横浜方面との取引をするに至り、業績ようやくあがつた。日清戦争では、深く蒙古を探るために、軽装に一剣を携え、部下2名をつれて征途(せいと)についたものの、不幸朝鮮で病に罹り、雄図空しく帰国し、兵庫県有馬温泉にて静養の止むなきに至つた。

 北海道に帰り石橋定三郎氏の尽力で、鰊の漁場を買ったところ大漁つづきで3、4ヶ月でたちまち3~4万金を握つたので、これを資本として3百噸の大阪丸を買い、次いで都丸、玄武丸、竹の浦丸、北州丸、雲海丸を購入、石橋直三郎氏を片腕として、海運業を兼ねつつ事業を拡張する。

 郷里平戸を訪ねて綾子夫人を娶り、両親、令兄克二郎、令弟辰五郎、令妹等を北海道に同伴した。夙(つと)に豊臣秀吉、伊達正宗に私淑(ししゅく)した氏は檜舞台を海外に求めるべく雄心勃々たるものがあつたが、その実現を策し、令弟精七郎、石橋直三郎を北米に遊学させ、また後進の養成機関として根室実習学校を創立した。

 根室、釧路に牧場を開設し、英国のヨークシャー種の純血種乳牛を輸入、牛4百頭を放牧する。1頭3千円もする駿馬も購入する等、行くところ可ならざるなく、北海道有数の事業家として知られるに至つた。

 釧路炭山、古武井硫黄山(千島)時登銅山(秋田)等の鉱山事業にもその触手を伸ばし、網走には燐寸工場を経営する等、八面六臂(はちめんろっぴ)の活躍をした。一子操を、東京日本橋の暁星学園中学部に入学させたが(学友として石橋恒四郎氏、現在モジ市在住、も共に上京)、眼疾(がんしつ)のため2年後、退学帰郷の止むなきに至つた。

 日露戦争時代には、大連に在つて商策をめぐらせたが、気候適せず、しかも持病の再発により、支店を設けて店務を一任し、自らは東京に蟠居(ばんきょ)し、北は北海道、東北地方より、西は阪神、大連方面に設置した支店、出張所10数ヵ所に号令して、縦横の活躍をつづけた。

 明治41年(1908)、戦後の財界の反動で深刻な不況時代となり、氏の事業もまた収拾できなくなり、万策尽きて残務整理を令弟に一任し、自らは宿望のブラジル渡航の途に上つた。シベリア鉄道を経てドイツのベルリンについた時、本・支店共支払停止との入電に接した。債務4百6十万円は、清算の結果、不動産その他の私財を以て完済し、多少の余財を残すこととなったので、ブラジルで開店の苦難を嘗めつゝも、胸中はこれ光風霽月(せいげつ)悠々土の生活に精進することができた。

 しばらくリオ市に陣取り、種々尽策するところあったが、事志と違い、結局明治44年(1911)、リオ州マカエ郡に於いて、カショエイラ耕地及びその接続地5千ヘクタールを買収して、米作、甘蔗栽培並びに酒精醸造等を行い、さらに大正7年(1918)に至り、同州カーボ・フリオ郡サン・ペドロ・デ・アルデイアに塩田を購入し、これを経営した。

 大正7年(1918)6月、故国訪問の旅に上り、実弟中村精七郎氏の支援を得て、ブラジルの近海航路、並びにリオ市に大学設立を目論んだが、たまたま第一次欧州大戦終熄の際なので、日本の財界は痛く不況に襲われており、志を得ず翌8年(1919)、再び帰伯したのであつた。帰伯後、新たに漁業などを開始して元気旺盛であつたが、病を得て大正13年(1924)2月25日、波瀾重畳の65年を終えた。体躯頑健まことに風雲児に相応わしい偉丈夫であつた。彼のリオ州に於ける農業道場を出たものに、星名謙一郎、板東喜内、金子保三郎、石橋恒四郎、坂元靖その他、後日サンパウロ州で活躍した数多い人々がいる。何せ時代が時代であり所が所であつただけに、特にこれぞという業績は残さなかつたにせよ、山縣氏の存在は、確かに先駆としての一異彩たるに相違ない。かつて実弟中村精七郎が全盛の頃、兄山縣の経済苦救済のため、自ら所有船雲海丸に乗込んで、ブラジルを訪れるなど日本人なればこそと思われる豪華な美談を残した。

 怪傑山縣勇三郎氏が、どんな人間であつたかを知るために、「流転の跡」から、大正7年(1918)帰国した際の、布哇丸船中の挿話を抜き書きしてみよう。

 『・・・・・・・・・山縣は食事のことで、或る日船長に皮肉を浴せかけた。「船長一体これは日本船じゃろか、日本船だったら食事は日本食に変えたらどうじや、わずかばかり毛唐の客があるからとて、洋食はおかしい。外国船に乗つて御覧、日本人の客があつたからとて、日本食は出さん。日本船は日本の延長じやよハヽヽヽヽ」と豪快に呵呵大笑(かかたいしょう)した。「山縣さん、それは困るですよ。本社がそう決めているのですからね」「馬鹿を云いなさい、船長がそんな不見識でどうなさるか。日本食を出して置いて知らん顔をしていなさい。それで毛唐が文句を云うたら、何処ででも下船せよと、少しは強い所を見せぬと国威は揚がらんよ。私も昔は船を何隻も持っていたし、現に弟は外国航路をやつているのじやが、親切にしてやつても決して、毛唐共に威張らせはせん、どうか、船長ウフウフヽヽヽヽ」と、持前の大きな眼球をくるくる上下左右に一回転してから、聲(こえ)を呑んで豪傑笑いをするのであった。

 ・・・・・・・布哇丸が南アフリカへ着くという2、3日前であつた。海が荒れて船の動揺激しく、客の多くは部屋に閉じ籠つた。然し山縣は何と思つたか、上甲板に出て、当時十歳前後の男の子を盛に引き廻していた、六尺ゆたかな山縣が、詰襟服に鳥打帽を被り、怪偉な髯面に底光りする眼をギョロつかせている容姿は、何う見ても波静かな海に相応しくはない。船の動揺に調子を取り損つて、山縣の子供は梯子から下甲板に転び落ちた、折柄通り合せた船員が、慌ててその子供を抱き起こそうとしたら、上甲板から「人の子に手をつけるな」と怒鳴る聲がした。見れば鷲の如き眼光をした山縣であつた、「お子さんは怪我をなされたようです」「有難う、解つております、放つておいて下さい・・・・・・    こら、あがつて来んか」と山縣が一喝したら子供は血の滴る手をふりながら、それでも泣きもせず梯子を登つて行つた。後日、山縣にその時の無慈悲を質した所、山縣は「私はもう六十を越しているのじや、この子の成人を見るは難しかろう。時には可愛想だと思わぬでもないが、強く育てておかぬと私は安心して死ねぬからのう」と、彼も矢張り人の子の親であつた。

 ・・・・・・・いよいよ船は希望峰に入港した。山縣は南阿の偉人セシル・ローズの墓を詣でた。ローズの墓は、テーブル・マウンテンの中腹にあつて、ケープタウン市街を一望に収める位置に立つていた。豪壮な石段を登りつめると、そこに石造りの厚みある建築があり、正面にローズが頬杖をして何事か考えている胸像がある。山縣はマカエの耕地で造つたピンガを、ガラフォン一本ここまで大切に提げて来た。そして盃になみなみとピンガを満たし、これをローズに捧げて後、今度はローズから下げた盃を自ら飲み干して新たに注ぎ、次から次へと同行者に廻して、「今日ここに南阿の偉人ローズを拝して涙あり、いずれの日か、我志を遂げて再び詣でるの日ありやなしや」と、山縣はハラハラと落涙しているのであつた・・・・・・・』

 山縣氏の図南の雄志は、その生涯に於いては達成し得なかつたが、遺孤(いこ、=遺子)長じて俊且つ雄、兄弟相倚り相扶けて経営しつつある山縣工務所は、ニテロイ市の上水道工事20万コントスを完成、現在は、サント・アンドレー市の上水道工場を請負工事中である。長男武男(リオ工科大学卒)次男文男(同上)三男富士男(慶應大学卒)が、信刀自を擁しつつ、内に愛敬至らざるなく、外に発すれば果敢明断、事業に挺身している。かくて、天孫江水流不尽。安定峰雲連万里。とアマゾンを思い、アンデスを仰いで、脾肉(ひにく)の嘆を洩らした山縣老の抱負は、次代に於いて達成しつつあり、地下の老の霊もまた以て瞑すべきであろう。


サンパウロ人文科学研究所 Centro de Estudos Nipo-Brasileiros