カンポ・グランデの沖縄そばについて
安井大輔(京都大学大学院文学研究科)
sexta-feira, 21 de setembro de 2012

 大学で社会学を学ぶわたしは、移民の食文化に関心を持って各地で調査を続けている。世界最大の日系コミュニティを有するブラジルでは、移民の出身地域から持ち込まれたり、入植先の文化とまじりあったりして作り上げられたさまざまな「日本食」が展開されている。全国的には寿司や刺身は有名だが、一方で地域特有のローカルフードとして根付いているものもある。そのような地元の味として特産品となっているカンポ・グランデの沖縄そば(以下、そばと表記)がある。いまだ研究途上ではあるが、今回の調査からわかったカンポ・グランデにおける移民とそばの歴史について、簡略ながら述べてみたい。

 カンポ・グランデへの日本人の入植はノロエステ鉄道建設による。当時鉄道工夫として現地で働いた日本人の多くが沖縄県出身者であり、現在もなお日系人人口の60%が県出身者で占められるという。鉄道が開通した後、彼らの一部はコーヒーや野菜栽培をはじめ定住するようになった。悪天候で農作業不能な日や、誕生日の祝いの席などで主婦たちは手打ちのそばを作った。庭で放し飼いにしている鶏のスープで好みの味を作り、隣近所を招待して故郷の味を楽しんでいたという。

 ここで沖縄そばについて紹介しておくと、沖縄における沖縄そばは、日本の他地域でそばと呼ばれるものとは異なる。蕎麦粉ではなく小麦粉を使用し、麺はかんすい(アルカリ塩水溶液)または灰汁を加えて打たれる。製法的には中華麺と似ているが、中華麺よりやや太めの麺や薄い出汁の味などうどんに近いところもある。

 沖縄出身者たちは故郷で覚えたそばの味を再現していたが、戦前のそれはあくまで家庭内の食として消費されていた。外食としてそばが売り出されるのは戦後である。1954年、沖縄県人会の書記でもあった友寄英芳氏によりアントニオ・マリア・コエリョ街に開かれたバールではそばを提供していたという。その後、1960年に勝連ひろし氏が産業組合の一部にそば専門の店を開店した。当時、これらの店は人々の寄合どころとして親しまれたという。1965年、勝連氏はフェイラ(露天市場)に出店する。当時、戦後移住者の多くは経済的に困窮し生活は不安定だった。フェイラはそのような人々にとって情報交換の場所として機能した。人々は野菜を売りさばいた後、そば屋で故郷の料理を味わいながら、仕事の情報などを交換し合ったのである。

市内老舗のそば屋「東京」創業者の源河隆子氏は、1958年に一五歳で家族で沖縄からボリビアに移住した「カッペン移民」の第一次入植者だった。しかし父はカッペン到着後、三週間の調査の末引き上げ、カンポ・グランデとの中間地点にあるカッセル耕地に居を構えた。親戚の家を転々とした彼女は1962年、19歳で結婚後、市郊外で夫の野菜作りを手伝い、両親もカッセル耕地を後にカンポ・グランデへ引越ししてきた。1966年に叔父がそば屋を始めたのに倣い、1967年に両親もソバ屋を始める。麺の作り方は父親が中国で働いていた時に覚えたという。そして彼女も1975年から父のソバ屋を手伝うようになった。最初は週二回だったが、三人の子どもの教育のために街に出ることを決意。1980年、友人の勧めでフェイラに現在の場所を購入、自身のソバ屋を始めた。レシピは父、叔父から譲り受けたものだが、自分でもブラジル人客の好みに合わせる工夫を重ねた。かんすいではなく灰汁を用い、出汁に豚だけでなく牛、鶏ガラ、野菜も用いる独自の味になっている。またイスラム教徒の客も多く、豚肉を食べない彼らのために牛と鶏だけで作ったスープのそばもメニューに挙げている。

 露天市場に登場したそばの店では、カーテンで覆って、みな隠れるようにしてそばを食べていたという。フォークで静かに食べるのが普通の場所で、箸を使って音を立ててすするのが恥ずかしがられたからだといわれている。ところが、「日本人がおいしいものを隠れて食べている」という噂が広がり、逆に地元の人の好奇心をかきたてたという。結果、それまで沖縄系・日系に限られていたそばは非日系の住民にも急速に広がり、1980年代にはほとんどの顧客は非日系のブラジル人になった。

 現在、市内でそばを出す店は100軒近くになる。2012年現在、フェイラは水・土の週二回、夕方から明け方まで開かれている。照明のついたアーケードの元に、組立式の陳列台に野菜・果物、菓子、土産物を並べた店が立ち並び、大勢の市民や観光客でにぎわう。その中でひときわ目立っているのがそばの店であり30軒を超す屋台がずらりと並ぶ。ほとんどの店の名前にBarraca(屋台)という言葉が含まれ、元々屋台で販売していた名残りがあるが、フェイラの敷地を各店で区切って使用しているため、店の外観だけ見ると屋台というよりもフードコートの店舗のようになっている。



 中央フェイラを運営するカンポ・グランデ観光中央フェイラ協会は2006年5月から、“sobá de campo grande”の商標でフランチャイズ店を同地以外で開店するプロジェクトを開始している。プロジェクトを指揮するのは、同協会の歴史で初めて女性会長になったアルビーラ・アッペル・ソアレス・デ・メロス氏。メロス会長が就任した同年7月にはそばが市の文化遺産に指定され、以降毎年8月に同協会主催でそばの食べ比べなどを含む「そば祭り」が開催されている。フェイラの入り口にはそばを模した巨大なモニュメントが備え付けられており、そばを中心とした地域振興がはかられているのがわかる。

 ただこれらのそばは日本で食べられる沖縄そばとは異なる。そばの上に載せられるのは三枚肉やソーキではなく少し硬めの牛肉である。切り刻んだ卵とネギがたっぷり添えられたものが販売されている。スープはカツオや昆布を用いた和風の出汁ではなくて、豚や牛の肉を煮込んでとった出汁が用いられる。麺についてはかんすい・灰汁付加の有無など店や製造業者によって違いがみられるものの、どちらかというと軟らかいパスタのような印象を受ける。実際にそば屋経営者へ尋ねたところ、麺類を食べる習慣のない非日系ブラジル人たちに「スープの多いマカロン(パスタ)」として宣伝してきたという。



 移民たちが故郷を思い作り食してきた「沖縄そば」は、今ではカンポ・グランデの名物として多くの人々に楽しまれている。また、市内のある麺製造業メーカーは最近ロンドリーナの店にも毎週麺を卸しており、そばの味は各地に広まりつつある。さらに二世三世たちは自分たちの食べているSobáが沖縄由来のものであることを知らず地元の味として食している場合もある。もともと沖縄のシンボルであったそばが今ではカンポ・グランデのシンボルへと変化している。一方で同市観光協会では、本場のそばを学ぶために沖縄に研修生を派遣することが計画されており、混淆するだけでなく正統的なそばを求める動きもみられる。

 このようにカンポ・グランデのそばに注目することで、文化の広がりとその混淆する様子がみえてくる。今後、研究をさらに深め、ブラジルにおける日系・沖縄系移民の食を通して移民の文化を考えていきたい。

参考文献
移民史刊行委員会編『ブラジル沖縄県人移民史―笠戸丸から90年』ブラジル沖縄県人会、2000年
「カンポ・グランデ日系コロニアの歩み」刊行委員会編『カンポ・グランデ日系コロニアの歩み』カンポ・グランデ日伯体育文化協会、2005年
サンパウロ新聞社編『100年 ブラジルへ渡った100人の女性の物語』サンパウロ新聞社、2009年

著者プロフィール:
京都大学大学院文学研究科 博士後期課程
主な研究テーマはエスニシティと食文化
この8月6日より23日まで人文研を拠点として、ブラジルでの研究活動をされました。


サンパウロ人文科学研究所 Centro de Estudos Nipo-Brasileiros