去る11月13日、本年度2回目の研究例会が開催されました。講演者は、立教大学文学部丸山浩明教授。丸山教授はすでに30年近くブラジル研究を続けてこられ、2008年にも当研究所の研究例会にてパンタナールについての講演をしてくださっており、今回が2回目の講演でした。今回のテーマは「アマゾン奥地の日系人-おもにマウエスの事例-」で、アマゾン地方に入った日本人移民とその子孫たちを扱ったものでした。
戦前から戦後にかけてアマゾン開拓に入った日本人は、多大の困難に直面し、移住地による差はあるものの、全体の約6割以上がサンパウロなど既に多くの日本移民が定着していた地域へ転出したり、日本へ帰国したりしています。そのままアマゾンに留まったのは残りの3分の1程度でした。さらに、その内の一部の人たちが、ジュートや胡椒の栽培などに活路を見出し、それがアマゾン移住の典型として語られることが多くなりました。しかし、実際にはアマゾンに残留した多くの移住者とその子孫たちは、農業以外に活路を見出し現地社会に同化して、「日系社会」に集住していません。
その一例として、丸山教授はアマゾナス州のマウエスを取り上げられました。アマゾナス州の州都マナウスから船で約20時間、356キロも離れているこの地域には、1920年代後半から1930年代前半にかけて、アマゾン興業株式会社と海外植民学校という2つの民間組織が関係する移住地の建設が試みられました。しかし、植民事業は成功せず、現在その子孫たちがわずかに残っているのみです。彼らは、マウエスの市内で商店や工場を営んだり、奥地の農場で焼畑農業や放牧を営み、現地の社会に完全に同化して生活しています。
アマゾンにおいて移民が出自国の文化を保つということがいかに困難であったか、そこで生きていくための方法を身に着けること自体がいかに大変であったか、丸山教授はこれまでの調査結果をもとにそう印象を語られました。1世の世代から混血が急速に進み、日本語や日本文化を失った移民の子孫たちにとって「日系」とは、父や祖父、あるいは曽祖父が日本人であったという遠い記憶にあるだけで、彼らの生活にその実態を見出すことは既に困難です。そういう姿を多く見るにつけ、「日系」「日系社会」という言葉の意義について考え直すようになったとも述べられました。普段、あまり語られることのない移民史の一面が、現地の写真などを通して鮮やかに示されました。