師父・河合さん
小笠原公衛(JICA シニアボランティア)
terça-feira, 15 de janeiro de 2008

 「戻らなかったら戻らなかったで、しょうないじゃないか」
 河合さんのこの一言で、私の日本への帰国が決まった。
 ことの背景はこうである。

 1979年、人文研が研究生を募集していた。私は旅行者の身で応募した。滞伯が、ビザ延長や出入国で1年に及んでいたが、そんな不安定な身分を承知で、人文研は「入門」を許可してくれた。それからさらに再出入国し、いよいよ滞在延長が難しくなったときである。生来の放浪癖からチリあたりへ移動、投錨を考えていた。ナニ、行けばなんとかなるだろうと。

 能天気な私をとらえて、河合さんは聞いてきた。

 「キミ、本格的にブラジルに腰を落ち着けんかね」 一度日本に帰って永住権を申請、再渡伯して移民の研究をしないかとの意味である。帰国費用もまかなうという。

 この申し出に私はグッときた。「渡りに船」というのではない。住所不定、身分不確かな若造を信じようという心根に惹かれたのである。帰国したからといって舞い戻ってくる保証はない。当時の飛行機代は安くはなかった。無駄金になる恐れは充分にあった。そのリスクを負おうというのである。

厳格さと度量の大きさが同居した大人格
 河合武夫さん(どうしても“ さん”付けでなければ呼べない)とは、さきの研究生募集の面接で会ったのが最初である。1906年生まれだから、73歳とすでに老境に入っていた。渡伯半世紀を超えた老移民のなかに、これまでにない強烈な個性を感じた。一個の人格の中に、相反する要素が同居していた。それも高い濃度、密度で。

 厳格さはつとに知られていた。義務を全うする。中途半端を嫌う。はじめたら結果を出す。合理性を重んじる。客観的な理由をもとめる。権威・権力におもねらず、人にも自分にもひとしく厳しい。こうした苛烈さと一徹さは、ときに煙たがられ敬遠もされるが、コチア産業組合時代、土木技師として縦横に手腕を発揮できたのは、河合さんを使いきったかの下元健吉の存在があったことは自他共に認めるところである。

 ものした論文にもそうした性癖があらわれている。

 『コロニアと農産加工』『諸家の言説:—ブラジルの同化問題をめぐって—』『サンタ・カタリーナ州におけるドイツ人植民地・その発足と、初期工業化の経緯』など、いずれも出典の引用と論の進め方は実に手堅い。

 そうかといって、何がなんでも黒白をつけるというのではない。曖昧が妥当と判断すれば目をつぶることもあり、自説に非ありとみれば、執着しない懐の深さがある。頑迷固陋ではもちろんない。一本筋が通ったうえでの度量の大きさなのである。

 愛国者にして国際人であることの両立は、河合さんの真骨頂である。これもよく知られたエピソードだが、太平洋戦争がはじまって故国に馳せ参じようとさいごの交換船に乗ろうとした河合さんは、家族(ブラジル国籍)を置いていくとは何事ぞと、係官から制止を食らって断念せざるを得なかったほどの愛国者。また戦後、葡語、英語、仏語を解し、国際情勢、伯国情勢に通じていたからこそ、敗戦を受け入れないコロニアの不都合・不利益を慨嘆、認識運動に東奔西走した河合さんである。

 正当性や公平性において、言うべきことは言うという姿勢は、権威を前にしてもたじろぐことはない。高名なジャーナリスト大宅壮一がアマゾンのトメアスーを視察したときの発言がある。「〜新米移民は肉体労働をさせれば、現地カボクロに比較しても半分くらいしか出来ないことははじめから判っているのだから、日本移民を呼ぶ理由は別にあるわけだ。だからカボクロ以下の賃銀でも構わないから、民族手当とでもいうものを出したらよいのではないか…」(1954年10月13日付パウリスタ新聞、—大宅氏の放言にこたえて—)。

 河合さんはこれに噛み付いた。「まことに不用意且つ危険極まりない一言である」と剣突を食わせ、返す刀で、「こんなデリケートな言葉をデカデカと載せる記者側の非常識さをもなじりたい」と切り捨てている

 大宅が言った「旧移民の下士官根性」にしても、つぎのようにたしなめた。「〜元来旧移民が日本から新米移民を呼ぶそもそもの動機なるものは、先ずその殆んどが〜同胞愛とでも呼べる一かけらの郷愁に起因するところの善意なのである」(同上)と一蹴。昨日今日来て、軽率に物を言ってもらっては困るといった物言いで、著名なジャーナリストといえども容赦はしなかった。著名だからこそ、余計に発言の重大性をみてとったのであろう。

 エピソードはほかにもある。家人に施した手術が明らかにミスとわかっても、認めようとしなかった医師(日系)がいた。同胞の痛みを感じつつも、このような倫理を欠いた医師を社会に放置してはならないという義憤から、自ら手続きを踏んで告発、法廷にも立って勝訴したという胆力と行動力と正義感は、余人にまねのできることではない。いってみれば、日本的情緒・感性と西洋的合理主義の両方を兼ね備えた、かつての明治の新生時代、国際感覚を身につけ愛国心と祖国発展に燃えて海外雄飛した内村鑑三、新渡戸稲造らを髣髴とさせる。ブラジルでも河合さんのような独特の人格を熟成させたといえよう。

『古猿録』の洞察力と表現力
 そのような個性あふれる人間の複眼をもって描く人物観察が、面白くないはずがない。河合さんは、論文のほか多くの紀行文、随筆などをのこしたが、とくに「人物論」は他の追随をゆるさないだけの洞察力と表現力がある。移民史上の人物の一面をとらえて、貴重な史料ともなり得るもので、その集大成が『古猿録』である。

 心服した「人間下元健吉」は別格としても、「名優 弓場勇の死」「釣師 高野富継君」「本山善徳氏について」は秀逸、「久万氏のことども」や「消えゆく“ 古猿”マリオ佐光さん」「清爽の人 石川文夫氏の死を悼む」など、会ったこともない先人たちが、河合さんの筆にかかると、短文ながら生き生きした魅力的な人物として甦ってくるから不思議である。いま読み返してもワクワクする。だが人物評は畢竟、自分を語る以外の何物でもない。当然といえば当然である。

 なかでも出色は「三浦鑿さんのこと」であろう。ありあまる才能に恵まれながら、奇矯ともみえる言動をとり続けた鬼才のつかみどころのない実像を、ヴェールにつつまれた出生と過去を剥がしつつ、当事者にしか知りえないエピソードなどをつなぎ合わせて、みごと白日の下にさらしてくれる。

 古武士・河合武夫さんの落涙をみたことがある。ご当人はなおのこと、周囲にとってももっとも似つかわしくない光景であろう。1988年、幾多の教えや導きを受けたにもかかわらず、やむなくブラジル生活を切り上げ離伯しようと挨拶にいった筆者に、車椅子の河合さんは、もどかしそうに口を動かすだけだった。頬に伝わる涙がはっきりみえた。不肖の弟子を悔いたのかもしれない。大病のあとの気弱さとはいえ、みてはならぬものをみた思いにとらわれた。後ろ足で砂をかける背徳行為同然の、おのれの愚行をただただ恥じ入るばかりであった。

 写真:『顔』(一百野勇吉・大沢道生著、1984年)より


 《河合武夫氏略歴》
 1906 年、三重県多気郡生まれ。山田中学卒業。1925年8月、「しかご丸」にて着伯。マッケーンジー大学工科大学を卒業し、土木技師になる。コチア産業組合勤務。工事責任技師を経て、施設区画室長などを歴任。サンパウロ人文科学研究所創立メンバー。『他国移民との比較』、『緒家の言説・ブラジルの同化問題をめぐって』、『戦前移住の一世とその二代目たち』などの論文がある。2005年9月、老衰のため死去。享年99歳。(日本ブラジル交流人名事典より)


サンパウロ人文科学研究所 Centro de Estudos Nipo-Brasileiros