藤田克巳
藤田克巳(ふじた・かつみ)
quinta-feira, 04 de fevereiro de 2010

 郷里は滋賀県。盛岡高等農林学校を出てから、同志3名と語らい、明治43年(1910)1月彼等の恩師伊藤清蔵農学博士と共に、農業経営の目的を以て、アルゼンチンへ渡航したが、来てみると現実は志を入れるべくもなかったので、滞在僅か3ヶ月で、同年7月翻然帰国と決した。すなわちアルゼンチンを辞して途中ブラジルに立ち寄ったのだが、不思議と気が変り、遂にこの国に落ちつき永住する事となった。

 同年9月、鉄道工夫の一隊に加わり、ノロエステ線マトグロッソ州に行ったが、帰聖後、明治44年(1911)11月、たまたま東京シンジケートを代表して来伯の青柳郁太郎と相識り、青柳の懇請により、イグアペ植民地予定地調査に従事、越えて大正2年(1913)3月伯剌西爾(ブラジル)拓殖会社創設と共に同社の技師となり、爾来、大正13年(1924)8月までレジストロ植民地の指導部を担当した。その間隈部三郎氏の長女光子と結婚、琴瑟相和したが、不幸子供には恵まれなかった。辞任後も昭和5年(1930)6月まで同植民地の嘱託として、その発展に努めた。同年同月サントスに移転し、ジュキア線に於ける彼のバナナ園経営と、同線バナナ輸出の世話などをしていた。その間、多年サントス日本人会長、在伯日本人文教普及会役員等を歴任、単なる顔役でなく親身になって在住者の面倒を見た。後サンパウロ市郊外リベロン・ピーレスに隠棲して、イグアペ植民の子弟を預かり、専ら二世教育の事に日を送っていたが、1939年(昭14)健康の故を以って再びサントス市へ下った。大戦勃発するや、1943年(昭18)サントス市を追い立てられ余儀なくサンパウロ市に移り住み、ひたすら静養につとめたが、終戦の翌年。即ち1946年(昭21)9月6日、遂に高血圧症で他界した。享年62歳。

 藤田夫妻は、およそ功名利達とは縁遠い感じのする人々であった。それだけに波乱の少ない生涯であり、親切で世話好きで、頼まれたら否とは云えない人であった。数百家族のイグアペ植民が、彼を敬愛し彼をたよりにしたのは彼の性格が然らしめた所である。拓植会社は人に恵まれていた。即ち創設者の青柳郁太郎を初め、白鳥尭助、北島研三、高野留七、原梅三郎、大野長一、野村秀吉等々いずれも粒選りの人物であるばかりでなく、これらの人々は植民地が必要とする最後の日まで、薄給にあまんじてその全力を仕事に傾倒したのであった。

 良い村造りの条件は、地理的関係と資金と、それにも増して大切なのは指導陣であるが、とかく世人はこの人的要素を左程重要視していないようである。なぜならば土地の肥沃や潤沢な資金は、直ちに形の上に効果をもたらすが、人格的感化による影響は、永い歳月の後でなければ見られないからである。

 たとえば、アリアンサ移住地は、金がなかったから、諸施設は不備貧弱であった。しかし創設以来の理事北原地価造氏は、10年後職を辞してからも、植民地に止り、自ら百姓となって、村人の相談相手となっている。ブラ拓の創設になる3移住地は、多額な資金が投ぜられ、遺憾なき施設を誇りとした。地味から見るとバストスが一番痩せていた。さて30年後の今日、右の4大移住地を経済、人物、気風、村の落ちつき等を総合して批判する時、施設不備のアリアンサと瘠地のバストスを、何人もチエテ、トレス・バラスに比し遥かに高く評価するであろう。一例をあげると、バストス、アリアンサ出身の二世で現在サンパウロ市に遊学する数は、他の2移住地を凌ぐこと萬々であるのみならず、バストス、アリアンサの学徒は各々学生会を旧くより組織し、互に励まし相親しむと共に、移住地を彼等の郷土と考え、生を享けたその郷土のために心を労するなど、ほほえましいものがある。しかるに、同じ年代を経たチエテ並びにトレス・バラスには、こうした村を愛する芽生えを見ない。すなわちチエテ人であり、トレス・バラス人であることに、親も子も何等の親しみと誇りを持たぬ証拠であって、移住地究極の目的からすれば、寧ろ失敗とすべきであろう。どうして、こうした気風に差違を生じたのであろうか。

 ここに一つの事実がある。すなわち北原氏は初めからアリアンサに骨を埋める覚悟である、畑中仙次郎氏も70の老躯を提げて、自分が造った移住地に最後まで責任を取ろうとしている。これに反し、チエテとトレス・バラスは、責任者の代ること十余年に数たび、チエテの如きは6回に及んだ。しかも日本人の悪い癖で、いつも前任者のアラ探しや、責任転嫁を常習とするため、移住者はその信ずべき所に迷い、たよりにする者がいなくなる。こうしたことが、10年或は20年続くと植民は心の結びつく中心を失い、社会性や親しみがなくなって、大切な郷土愛は芽生えて来ない。

 イグアペ植民地は、創設以来40年を閲した。現在は、既に植民地と称するよりは、お茶の里と云い、水郷と呼ぶにふさわしくなって、藤田の如き、気永で真から親切な指導者の下に永くあった往時のイグアペ植民は、誠に幸いなるかなである。

 山河秀麗、風色豊かなレジストロの往時を追懐するとき、この地の一世たちは、さぞや心温まるものがあるであろう。


サンパウロ人文科学研究所 Centro de Estudos Nipo-Brasileiros