石射猪太郎
石射猪太郎(いしい・いたろう)
quinta-feira, 06 de maio de 2010

 石射猪太郎氏が六代目の駐伯特命全権大使としてリオ駐在を仰せつかったのは、日華事変も進捗した昭和15年(1940)9月14日のことであった。同10月4日に東京を出発して、同11月13日にリオに着任した。

 着任するや否や、一週間目の同19日に、第十三回連邦府国際見本市の日本館開館式を挙行し、また同年12月に天皇陛下からゼツリオ・ヴァルガス大統領に贈呈の御沙汰があった大勲位菊花大綬章を翌16年(1941)の4月8日に、御親書と共に大統領に捧呈した。

 元来石射氏は、中華民国に縁故が深かった。原籍は福島県西白河郡川崎村大宇太田川で、生まれは明治20年(1887)2月6日であった。

 明治41年(1908)6月に、上海の東亜同文書院商務科を卒業し、同年9月から同44年(1911)まで満鉄に奉職したが、官吏への転身を企てて、大正2年(1913)11月に文官高等試験に合格、続いて同4年(1915)10月に、外交官及び領事官試験に合格して外務官僚となり、同11月領事官補に任ぜられて、上海在勤となった。続いて広東、天津等にも勤務し、大正7年(1918)9月、初めて中国を離れて、サンフランシスコに移り、ワシントン、メキシコ等に勤務して、大正13年(1924)1月賜暇帰朝して、当時いわゆる移民課長と称された、通商局第三課長に就任した。


 そして石射氏の移民課長は6ヵ年に亘り、その間に海興を通じて、約5万人の移民をブラジルに送っている。

 昭和4年(1929)9月、総領事に任じられて、再び支那関係に戻り、吉林在勤、同7年(1932)7月上海在勤となつて、昭和11年(1936)7月まで、7ヵ年を中国に暮した。そして特命全権公使に任じられ、シヤム国駐在を命じられたのが、昭和11年(1936)7月で、特命全権大使に昇格し、ブラジル着任となったのが、前記のように昭和15年(1940)11月であった。

 日華事変が激しくなるにつれ、移民の渡航も殆んどなくなり、駐伯大使としての仕事はなく、手も足も出ないという状態に追い込まれた。ただ日本から戦略物資として、ブラジル産の工業用ダイヤや、水晶をはじめ、皮革、棉花などを買付けに来たので、そうした人達の援助をするのが精々の務めであつた。

 石射氏は、青泥と号して俳句を作り、また東亜同文書院の出身だけあって、漢詩をよくしたので、俳句を作ったり、漢詩を詠じたりして無聊をなぐさめ、 鬱(うつ)を散じていた。

 リオのラランジェーラ街の大使官邸には、泰山木があつて、季節には、美しく白い花を咲かせていたが、これも石射氏の詩嚢を肥やすたねであつた。

 日華事変が大東亜戦争に移行した。石射氏は日本大使がサンパウロを訪問して、万一在留邦人に迷惑を及ぼしてはという心遣いもあって、その在任中に一回も、サンパウロを訪問しなかった。日本が第二次大戦に突入してからは、いよいよ窮屈になった。昭和17年(1942)になると、リオやサンパウロの、在留邦人で監禁されるものが段々出てきた。朝日新聞特派員の荒垣秀雄氏や、同盟通信社通信員の椎野豊氏、いま日伯中央協会の常務理事をしている小林進氏、東京銀行サンパウロ支店の秋山排水氏なども、この頃リオにいて、リオ湾の孤島に監禁された仲間であった。アメリカを出た交換船のグリプス・ホルムス号がリオに寄港して、石射大使初め、大使館員、宇都宮陸軍武官、重広海軍武官並びに補佐官、また前記の被監禁者等を収容して出港したのが、昭和17年(1942)7月3日のことであった。交換船は、20日、アフリカのポルトガル領ロレンソ・マルケスに寄港して、日本からの浅間丸及びコンデ・ベルデ号と出会い、乗船者を交換して、同26日同港を出発した。石射大使は浅間丸に乗船して、8月20日に東京に帰着した。

 同年9月18日付で、ブラジル国駐在を免じられ、昭和18年(1943)9月6日、ビルマ国駐在を仰せつけられたが、終戦と共に外務省を引退した。

 その後、経済外交研究会々長、東邦研究会理事長等をつとめ、また昭和28年(1953)11月、財団法人日本海外協会連合会が創立せられて、村田省蔵氏が会長となるや、乞われて副会長に就任し、大いになすところあらんとしたが、就任後間もなくの昭和29年(1954)2月9日、逝去した。


サンパウロ人文科学研究所 Centro de Estudos Nipo-Brasileiros