ウジミナス学校
長谷川 伸(関西大学商学部准教授)
sexta-feira, 12 de agosto de 2011

(1)はじめに

 私はここ10年ほど,日本とブラジルの合弁企業として1958年に設立されたウジミナスを主たる研究対象としている。ミナスジェライス州のベロ・オリゾンテ市に本社を,イパチンガ市に製鉄所を持つウジミナスは,ブラジルで最も国際競争力のある鉄鋼メーカーであり,その国際競争力の有力な源泉の一つが日本からの技術移転であった。一方で,ウジミナスは戦後日本における海外技術移転・技術協力の原型の一つとなっている。

 こうした位置づけを与えられるにも関わらず,ウジミナスは意外に研究されていない。研究されてこなかった理由はいくつか考えられる。思いつくままに挙げよう。一つはそのプロジェクトの規模が大き過ぎて調査が困難であったことである。ウジミナス・プロジェクトは,かつてのNHKのドキュメンタリー番組『プロジェクトX』で真っ先にとりあげられるべきものなのに,なぜとりあげられなかったのか。私が常々抱いていた疑問を,当時日本からブラジルへ派遣された方にぶつけてみたことがある。答えは「それは関係者が多すぎるから」とのことだった。

 また,設立当初から長らくウジミナスがブラジルのマクロ経済の不調(インフレ)に苛まれ,政府系企業として産業政策に振り回されて来たことで,研究対象としては扱いにくかったことが挙げられよう。加えて,1980年代のブラジル経済の「失われた10年」がその扱いにくさに拍車をかけてしまった。

 さらには,日本に暮らす研究者としては,研究活動のコストパフォーマンスを考えれば,日本からのフライトで1日以上かかり,使用言語がポルトガル語であるブラジルを選ぶのは得策ではない。余程の理由がなければ,ウジミナスを研究の対象とすることはできないだろう。しかし私には余程の理由がある。

(2)「ウジミナス学校」

 私は,ウジミナスの建設・操業期(1950年代末から1960年代前半)に,日本鉄鋼業による技術移転,技能形成がどのように行われたのかについて調査してきた。そのプロセスこそが,今のウジミナスの基礎を築いたと考えられるし,日本の技術移転のスタイルを特徴づけたと考えるからである。なお,技術移転のスタイルとは,技術移転をするにあたってどのような立場で臨み,どのような方法・手段を重視し,他の方法・手段とどのように組み合わせるのか,の全体を指している。では,日本の技術移転のスタイルはどのようものなのだろうか。そのスタイルは,ウジミナス建設プロジェクトによってどのように特徴づけられたのだろうか。

 これらの問いに対する答えを象徴するキーワードがある。それは,このエッセイの表題にもなっている「ウジミナス学校」 (Escola da Usiminas) である。私はこの言葉を,当時八幡製鉄からウジミナスに派遣された方から2002年に初めて聞いた。ウジミナスをわずか数年で退職する者にとっては,ウジミナスは産業界で仕事するための基本(いわゆる5S)を学ぶ職業訓練学校であったという。入社して数年で転職する例はかなり頻繁に見られ,1960年代前半に全従業員12,000-13,000名のうち作業員を中心に1,000名規模で離職していったとされる。ジョブホッピング(転職によるキャリア形成)が当然とされる社会で企業内研修・訓練を重視する企業は,長期的に見てその国や地域の発展に寄与するものの,企業としてはなかなか報われない。

 次にウジミナスが「学校」だったと耳にしたのは,2005年のサンパウロでのウジミナス退職者(元日系社員)による懇談会の席上であった。数年で退職した日系社員にとってウジミナスは「学校」だったと参加された方々は一様に語られた。これまで鉄鋼業で働いた経験のない方々が,必要な専門知識,計画的な仕事の進め方,組織として動き方を学んだという。派遣者を講師とする勉強会も,勤務時間外(夜間)に行われていたという。

(3)「ウジミナス学校」の卒業生

 ウジミナス建設・操業開始期においては最盛期で現地採用の日本人・日系人が300-400名働いていたとされている。しかし,1962年10月の高炉の火入れを機にウジミナスが本格的に操業開始となり,日本からの派遣者が1960年代中頃から後半にかけてほとんどが日本に引き揚げていった。これに軌を合わせるかのように,現地で採用された日系社員たちもその多くが1960年代末にかけて退職していく。年金受給資格が得られる「満年」までウジミナスで働き続けたのは,わずか100家族と言われているので,3分の2がウジミナスを中途退職したと見て良いだろう。

 この大量退職の背景には,独立心旺盛でサラリーマンに留まりたくないと考える日系社員が少なくなかったこと,ほとんどの日系社員の出身がサンパウロ州であったこと,ブラジルの大学を卒業した者やミナス州出身者でなければ出世(昇進)は望めなかったこと,1971年の労働法改正にあたりウジミナスが有利な条件での早期退職を募集したこと,などがある。

 いずれにしろ,現地採用の日系社員は数年で多数が退職した。ウジミナスという「学校」を数年で「卒業」したわけである。入社して数年で転職する例はかなり頻繁に見られ,1960年代前半に全従業員12,000-13,000名のうち作業員を中心に1,000名規模で離職していったといわれているが,この離職者の中に日系社員も含まれていたのである。

 こうして数年でウジミナスを退職した日系の方々はその後どうなったか。その全体像を掴むことは非常に困難である。なぜなら,成功しなかった事例は表に出てくることはまれだからだ。「ウジミナス学校」卒業生のその後の全体像はわからない。しかし,成功した事例を挙げることは容易だ。ブラジル東京銀行取締役,南米銀行役員,医師,薬品メーカー創業者などだ。

(4)日本からの派遣者と非日系社員との間の壁

 日系を含むウジミナス早期退職者にとってウジミナスは「学校」であった。では,ウジミナスを辞めなかった日系社員たちにとってウジミナスは「学校」であったか。結論から言えば彼らにとっても同様に「学校」であった。彼らはただ「卒業」しなかっただけだ。

 そうした彼らは「ウジミナス学校」で誰から学んだのか。ウジミナスが「学校」であったという場合,彼らが学習者(学ぶ側)であったことを意味する。その学習者を教える学習支援者は,主として日本からの派遣者である。彼らは日本からの派遣者から学んだのである。ただし,日本からの派遣者と非日系社員との間には,言語と文化の壁が存在した。派遣者はポルトガル語に,非日系社員は日本語に通じていないからだ。なお,英語で意思疎通できたのは幹部(エンジニア)以上の一部にすぎない。

 ではどうやって,日本からの派遣者と非日系社員との間の壁は乗り越えられたか。乗り越えた方法は主として2つあった。一つは「やってみせる」(show how)「やらせてみる」ことである。モノをつくり出す製造業においては,その現場から近ければ近いほど作業内容とその結果が目に見えやすくなるので「やってみせる」「やらせてみる」ことによって教え学ぶことは容易になる。

 ウジミナスにおいても,日本から派遣された技師補佐(作業長)は,現場でブラジルの作業員の後ろから手を回して,一緒に機械設備のハンドルを握って作業を教えた。あるいは掛長(エンジニア)クラスにおいては2年間,仕事中はずっと特定の日本人派遣者と行動を共にした。こうした「やってみせる」「やらせてみる」ことによってしか,教えられないもの・学ぶことができないもの(暗黙知や実践知といわれるもの)は確かにある。

 ただし,「やってみせる」「やらせてみる」ことによって教えることができるのは,主として「どのように作業をすればうまくいくか」(how)であり,それだけでは「なぜその作業をその状況でその順番で行うのか」については教えることは困難である。もちろん,学習者は教えられないことであっても,学ぶことができる存在である。ただ,当時のウジミナスの場合,鉄鋼業で働いた経験のある技術員や作業員はほとんどいなかったといわれており,教えられた作業内容の理由を教えられずに気づくことは困難だったはずである。

 そこで必要とされたのは,日系社員を媒介する方法である。もう一つの日本からの派遣者と非日系社員との間の壁を乗り越えた方法である。

(5)日系社員の通訳としての苦労

 日本からの派遣者と非日系社員との間の壁を乗り越えたもう一つの方法は,日系社員(現地で採用された日本人)を媒介する方法である。日系社員が通訳の役割を果たしたのだ。確かにプロの通訳もいたがごく少数であり,圧倒的多数の日系社員は,非日系ブラジル人と同様に,学歴や経験などに応じて職場に配属されたのであって,通訳として配属されたわけではなかった。

 ウジミナス建設・操業開始期において,日本からの派遣者は最高時400名規模に達した。日系社員は職場に1名以上配置され,最高時で合計400名前後いた。日本人派遣者数のピークに数年遅れて日系社員数のピークがやってくるので,時期によって日本からの派遣者と日系社員数の比率は変動するが,ほぼ1対1であった状態だったのだ。

 日本人派遣者は,職場にいる日系社員を媒介として(日系社員の通訳を通じて),非日系ブラジル人に教えた。ただし,媒介者(通訳)としての日系社員は,日伯両国の言葉と文化にある程度は通じてはいても,通訳になるための教育を受けていたわけではなかった。

 しかも,ブラジル現地で採用された日系社員は,ブラジルで生まれ育った二世はポルトガル語に,1950年代に日本からブラジルに渡って来た戦後移民(一世)は日本語に堪能であったが,そのうちで日本語とポルトガル語の両方が堪能である者は一握りに過ぎなかった。こうした不利な条件のもとで,日系社員は本来の職務の傍ら,日本からの派遣者と非日系ブラジル人との間に立って通訳をしなければならなかったのだ。

 実は,日系社員の通訳としての苦労は計り知れないものがあった。その苦労は,日本とブラジルの文化は大きく異なる点から来ている。例えば,人前で大声で叱ることは日本では許容されても,ブラジルでは許容されない。時間や約束を守らないことは,ブラジルでは許容されても,日本では許容されない。習得した知識やノウハウを日本では熱心に周囲に教えようとするが,ブラジルでは必ずしもそうではない。

 職場においては,こうした文化的差異は職務遂行上で表面化し,摩擦を生み出しやすい。日系社員はその間に立ち,意思疎通を促進し,壊れやすい両者の信頼関係を築いて,業務がスムーズに進行させなければならなかった。工期や資金調達の遅れ,良好とはいえない生活環境などの下で,与えられた使命を果たそうとした関係者の間では,口論も生じざるをえなかった。時には,こうした口論の仲裁を日系社員がしなければならないこともあったのである。

(6)「生きたマニュアル」としての日系社員

 興味深いことに,日系社員たちのほとんどは,派遣者から学んだことを惜しげもなく同僚や部下に教えた。それが日本語とポルトガル語の両方に通じる日系社員の役割と理解していたこともあるし,技術革新が進むので学んだことはどんどん古くなるので,片っ端から教えても自分は不利にならず,学び続ければいいと考えていたようでもある。

 こうしたやり方は仕事をよりスムーズにするが,一方でブラジルでは出世に響く。ブラジルで出世しようと考えたら,自分が習得したことを惜しげもなく同僚や部下に教えることは得策ではない。しかし,その自分の出世には得策でないことを日系社員たちのほとんどは実行したのである。自らの出世よりも,自らの役割と仕事を全うすることを選んだのである。

 ところで,彼らが学んだ「ウジミナス学校」では,「学校」における「教科書」にあたるものは何だったか。それはマニュアルを始めとする技術文書であった。ただし,この技術文書は,当時はポルトガル語版がなく,日本語版と英語版だけであった。このことがまた,媒介者としての日系社員を必要としていた。

 彼らは現地で日本語からポルトガル語へマニュアル類を翻訳していたのである。翻訳がある程度進むたびに,翻訳結果を使い,日本からの派遣者を交えての勉強会が開かれた職場もあった。あるいは,職場で一番頼りにされて,何らかの問題が生じると必ず尋ねられる日系社員もあった。日系社員がいわば「生きたマニュアル」として職場に存在していた例も多い。

 こうした働きをする日系社員は「ウジミナスは学校であった」ことと絡めて考えれば,学習者であると同時に,学習支援者であったと言えまいか。非日系よりも少し先に学び,それを惜しげもなく非日系社員に教える。教えることによって学習支援者は学ぶ。こうしたことが生じていたのではないだろうか。そう考えてくると,学び教える日系社員は通訳者や翻訳者に留まらない役割を果たし,日本からの派遣者と非日系社員とをつないで来たと思えてくる。


サンパウロ人文科学研究所 Centro de Estudos Nipo-Brasileiros