崎山比佐衛
崎山比佐衛(さきやま・ひさえ)
quinta-feira, 13 de setembro de 2012

 なんぢの目の前には千年もすでにすぐる昨日の如くまた夜の間のひとときにおなじ、なんぢこれらを大水のごとく流れ去らしめ給う、かれ等は一夜の寝の如く朝に生え出でる青草の如し、朝に生え出でてさかえ夕には刈られて枯るなり         詩篇九十篇

 崎山比佐衛氏は、明治8年(1875)土佐国長岡郡本山町の生れ、若くして北海道に移住したが感じる所あり、力行苦学しつつ、青山学院に学び、神学部及び英語専門部を卒えた。大正3年(1914)より5年(1916)にかけ、南北両米を踏破し、帰国後、我が国に植民思想と智識の普及を図るため、天下の名士を網羅して海外植民教育会を起し、続いて植民を目的とする人材養成のため、大正7年(1918)4月、東京の西郊世田ヶ谷に海外植民学校を創立した。

 同校は、昭和4年(1929)までに、11回の卒業式を挙げ、その間、3百有余名の出身者と、1千余名の関係者を海外に送った。校長崎山比佐衛氏は、1927年(昭2)11月29日、54才の時、再び南米大陸踏査の旅に上り、ペルー国よりアンデスの峻嶮を超え、南米を巡歴し、つぶさに卒業生の活動状態を視察慰問した。

 海外植民学校は、将来これを目的地たる南米に移すべく、その第一歩として分校設立を計画していた氏は、翌年7月、アマゾナス州マウエス町に来るや、白砂青林、アマゾンの舞子の浜と謂わるるも理かな河水清澄にして、風光明眉の健康地なるを見て分校設立の好適地と定めた。マウエス港対岸に土地を選定し、伊藤松之助、山内登両氏を同地に派遣し、1929年(昭4)9月より開墾耕作に着手せしめた。この土地はアマゾン興業株式会社の事業本部サレシの対岸(マウエス河左岸)に所在し、間口2キロ半、奥行2キロ、面積500ヘクタールあり。1930年、今井修一主事が、卒業生宇野円治氏を伴って来植し7月19日附を以て売買登記を完了した。1932年(昭7)9月、崎山校長は58才の老躯を提げ一行10名と共に現地に到着した。

 昭和14年(1939)4月、崎山氏は妻同伴で、南伯並に亜国を歴訪、満1ヶ年後の昭和15年(1940)4月、マウエスに帰ったのであるが、帰って見ると、あれほど健康地であることに安心していたマウエスには、マラリアが発生し、その勢い猛烈を極めており、崎山夫妻も、やがてこれに罹った。氏の門下生であり、女婿である神園敞氏の手記「崎山先生の晩年とアマゾン」と題する次の一文に、その当時の模様がよく書かれている。

 「先生がこの旅行に上られて、間もなく、アマゾン一帯はマラリアの猖獗する所となり、マウエスに於いても数人の死者を出すに至った。留守を守っていた吾々も、殆どマラリアに罹り、崎山先生の帰られた頃が一番ひどい時期であった。先生は帰って来られるや、教会堂の建設と小学校の建設に就いて語られ、グワラナの1万5千本増植、5ヶ年計画等につき、皆と協議された。先づ教会堂建設に着手すべく、位置を選定され、一同跪いて熱き祈祷をされたのであった。然るに先生も亦帰られてから二ヶ月目に、マラリアに罹られ、奥様もこれに続き、吾等一同枕を並べて倒れる有様となり、凡ての計画は一頓挫を来した。

 先生も凡てを一時断念されるに至り、教会堂及び小学校の建設に援助された校友諸兄姉に対し、先生は祈りと勤労を以て報いられんとし、ひたすらそうした生活に入られた。祈りと勤労の生活は、やがて難行苦行となり、衆生済度の聖者を偲ばせる程であった。先生の健康を心配された戸田医師始め多くの人々が、しきりに転地を願ったが、先生はこれに耳を藉そうとしなかった。

 「おばあさんや(奥様のこと)俺の生命も余り長くないぜや、一鍬でも打って来るからの」と云はれ乍ら、39度の熱位では休まれることもなく、エンシャーダ(鍬)を擔いでグアラナ畑に行かれ、先づ跪いて祈りを捧げ、大地に鍬を打ち込まれたのであった。何人も真似ることの出来ない、祈りと精神力による労働であった。黄昏が迫りアマゾン特有のオウムの群れが鳴きながらねぐらに急ぐ頃、先生は鍬を地に置いて静かに跪き、感謝の祈りを捧げられるのであった。

 身にはツギハギだらけの労働着をまとい、サンパウロから持って来られた地下足袋には穴があき、身にまとうものは凡て粗末なものであったが、その祈りの敬虔なる事は、かのアフリカの聖者リヴィングストンも斯くありしかと偲ばせるものがあった。先生が亡くなられる四日前、恐らく四十度以上の熱があられたらしいが、先生は最後の力を振って大地に鍬を打ち込み、力尽きてグアラナ畑に倒れられたのであった。ここから、先生の家まで2百メートルだが、最早歩む力もなくなり、這いながら涙と共に感謝の祈りを捧げ、一時間余りかかって我家近く迄来られたのであった。先生の帰りを案じて病床から起きて外に出た奥様が、走り寄って抱きかかえられると、「おばあさんや、今日は疲れたぜや、歩く力がないもんじゃけに這って来た」と云われ、床につかれて4日目、寂として眠れる未明、静かに息を引きとられたのであった。時に1941年(昭16)7月24日。享年67歳。先生の亡骸は、奥さま、慰与子姉の涙の手に依って清められ、有り合せの板切れで、山内登兄、大川伝兄、忍兄等が造った、先生にふさわしい粗末な棺に安置され、マウエス湖畔を下りマウエス市墓地に埋葬された」云々。

 その墓碑には「アマゾン植民の父崎山先生の墓」と、墨痕淋漓と銘されている。1954年(昭29)2月、海外植民学校校友会の建立になりしものである。

付記―(詩篇90は崎山老愛誦の聖句である)


サンパウロ人文科学研究所 Centro de Estudos Nipo-Brasileiros