田崎慎治
田崎慎治(たざき・しんじ)
segunda-feira, 10 de dezembro de 2012

 明治41年(1908)4月28日、折からの春雨をついて、ブラジル向け第1回の移民船笠戸丸は、雄図に燃える781名の移民を乗せて神戸港を出帆した。多くの見送り人の中に交って、その壮観に眼をみはり、長く岸壁に佇立していた紳士があった。後年、民族の発展は海外移住をおいてはないとの固い信念を抱き、南米移民、ことにブラジルもアマゾン移民を唱道し、その指導奨励に熱情を傾けた、田崎慎治氏がそれであった。

 明治5年(1872)3月29日、長崎港から北西約4里(16km)の、西彼杵郡三重村の、代々庄屋をつとめていた旧家に生れた。長崎商業時代は、ずばぬけた秀才でもなかったが、英語が大変得意で、英語の先生を困らせるほどの学力があったといわれている。

 明治25年(1892)、フランス政府は属領のニュー・カレドニア島の、ニッケル鉱採取夫を日本人に求めて、送出事業所を長崎に置いた。事務補助員として、語学に堪能な学生の斡旋を、長崎商業学校に依頼したので、白羽の矢が田崎青年に立てられた。日給は1円20銭。当時、東京で米が1升7、8銭、女中一カ月の給料が1円だったから、その日給は破格のものであった。このニュー・カレドニア島行き労働者の送出事務に関係したことが、田崎氏後年の、海外移住に対する情熱、理解、研究、指導等の温床として、培われたものであろう。

 長崎商業学校を卒業後、青雲の雄図やみ難く、無断で長崎を出奔して東京に出、東京高商に入学した。郷里の実家から潤沢な学資の送金を受けられる境遇でなかったので神田乃武教授の世話で、東京商工会議所の翻訳の仕事をして、学資を稼いだ。その傑出した語学力を神田教授に認められ、真面目な性格を愛されていたからである。

 明治34年(1901)夏、優秀な成績で、東京高商専攻部保険科を卒業し、講師となって学校に残ったが、翌35年(1902)8月、文部省留学生として渡英、バーミンガム大学で保険学を専攻、日露戦争中英国で勉強した。文部省留学3年に加えて、長兄の援助でその期間を1ヵ年延長し、明治39年(1906)5月、バチェラー・オブ・コマースの称号を受けて帰朝した。同時に長崎高商教授に任じられ、15年振りに故郷に錦をかざった。

 少壮気鋭で、英国仕込みのゼントルマン・マナー十分の田崎氏は、学生の人気もあって、教授としては申分のない存在だったが、隈本校長とは性格的に合わなかったとみえ、よく意見の対立をきたし、しかも相手が校長だったために、田崎氏持ち前の反発心が、猛然とたぎりたって、爆発寸前の様相を呈した。これを心配したのが水島神戸高商校長で、神戸へ来てはどうかと勧めたので、田崎氏は長崎高商から神戸高商に移った。その折合せかたがた、神戸に出て来た時、たまたま第一回移民船笠戸丸の出帆を目にしたのであった。

 明治41年(1908)9月末、神戸高商教授として着任したが、昭和17年(1942)1月、神戸商科大学々長を挂冠するまで、実に33年4カ月の長きに亘って、神戸商科大学のために心血を注いだ。しかもその17年間は、水島初代学長の後を継ぎ校長としての重責を果たしたのであった。
 
 昭和8年(1933)5月、ブラジルはその憲法に移民の入国を在留民現在数の2%に制限する条項を挿入したが、当時、日伯協会理事として、対伯移住の側面指導にあたっていた田崎氏は、自ら委員長を引受けて、移植民対策実行委員会を結成し、経済使節団のブラジル派遣、伯国産棉花の大量買付の勧告など、適切な手を打って、大きな成果を挙げた。これよりさき、昭和4年(1929)に、上塚司氏等を援けて成立された、アマゾニア産業研究所の黄麻(ジュート)が現地支配人辻小太郎氏(田崎氏の教え子)等の努力によって実を結び、はじめてアマゾンの適種が育成されたと報ぜられて田崎氏を喜ばせたのは、試植開始後7年目の昭和10年(1935)のことだった。この朗報にいても立ってもいられなくなった田崎氏は、翌11年4月大学長の繁務をさいて約6ヶ月に亘り、ブラジルに旅し、親しくアマゾン大江をさかのぼって、パリンチンスの研究所に足をとどめ、現地の移住者達を鼓舞したのであった。

 田崎氏は心からアマゾンを愛していた。またアマゾンを非常に嘱望してもいた。自分が絶対に生活に堪えられないアマゾンこそ、日本人に与えられた天賦の楽土である、アマゾンを開拓して、人の住みやすい土地とすることこそ、人類の幸福のために、われわれ日本人に課せられた使命であるというのが、田崎氏の持論であった。

 田崎氏は、教え子に対する愛情が深く、常に多くの教え子のためにその背景となり、力となっていたが、特に信頼した人が2、3あった。その人々のことを、自慢と信頼のうちに、父が子を案ずるような思いやりをもって、よく他の人々に語っていたが、その一人にアマゾンの辻小太郎があった。日伯協会理事の福田美実氏が、田崎慎治先生の思い出の中で、次のように述べている。

 「戦時中、一時崩壊の憂き目を見たアマゾニア産業会社の再建について、ともすれば埋れがちになる辻氏のことをいつも田崎先生は心配されていた。対伯関係の民間側の最高地位につくべく予定されていた村田省蔵氏(注=日本海外協会連合会々長)が、たまたま先生の親しい友人の一人であったので、先生は村田氏に辻氏の地位および将来辻氏がつとめるべき役柄について、あの独特の激越な論調で種々説明されたことがあった。惻々としてにじみでる先生の愛情の発露に、自分は魂をゆすられるような想いがした。先生の辻氏に対する師としての愛情は、同時に先生のアマゾンに対する愛情であり、もっと掘り下げるなら、日本民族の行末を案じる先生の憂伯の至情につらなるものでもあったろうと私は思う。」

 神戸大学名誉教授、正三位勲一等、田崎慎治氏は昭和29年(1954)4月3日の払暁、享年82才でその生涯の幕を閉じた。


サンパウロ人文科学研究所 Centro de Estudos Nipo-Brasileiros