上塚周平
上塚周平(うえつか・しゅうへい)
quinta-feira, 27 de junho de 2013

 ブラジル移民の道を開いたのは、水野龍氏であるが、移民のあと始末に生涯の精根を尽したのは上塚周平氏である。

 上塚周平氏は、明治9年(1876)7月19日、熊本県下益城郡杉上村に生れた。明治40年(1907)東京帝国大学法科を卒え、翌41年(1908)4月、ブラジル移民の開祖水野龍氏の女房役とし皇国殖民会社代理人として、第一回笠戸丸移民と共に渡伯した。

 本拠をサンパウロ市に定め、耕地移民と共にひたすら苦渋を嘗め、ある時は事務所の維持にさえ窮乏を告げ、紙製の玩具を案出しこれを販売して漸く支えた等の話は、余りに有名な昔物語である。大正3年(1914)初頭一旦帰朝し、新たに移植民計画を樹てて奔走したが、志遂に成らず、大正6年(1917)再渡伯し、旧知と計って翌7年(1908)現在のプロミッソンに植民地を創始した。上塚氏は、単にこの植民地の経営者たるに止まらず、広く在伯同胞全般の休戚(サイト注:きゅうせき、喜びと悲しみ)に意を致し、往年財界の不況に遭遇しては、自作農救援のため星名謙一郎氏と共に蹶起して、世にいう八五低資の運動を展開、ついにこれに成功して、ともかく数多き同胞の転落を防いだ。ノロエステ日本人会の創立、さらに在伯日本人同仁会に対する運動等、公人としても、邦人コロニアのために挺身した。昭和8年(1933)、たまたま日本移民渡伯25周年に当たっては、畏きあたりより、水野龍氏と共に叙勲の御沙汰を賜っている。一生娶らず、清貧に甘んじ、昭和11年(1935)7月6日、其の病没に至るまで、在伯同胞のため全霊を傾注した。

 明治41年(1908)6月26日より7月6日に亘り、第一回笠戸丸移民は、ヅモント、カナーン、サン・マルチーニョ、グァタパラ、フロレスタ、ソブラードの六耕地に配耕された。7月6日、公使館の三浦通訳官は、移民収容所出発の最終移民と共に、サンパウロ市出発、上塚氏及び州農事監督一名を伴って、関係六耕地を見て歩いた。ヅモント耕地では配耕早々から不満があった。移民の住居としてあてられた長屋は、土間に枯草が薄く敷いてあるだけで「俺達は馬じゃない」と怒り出した。ここに配耕された移民は6月29日に入耕し、7月5日まで家屋の振分け、寝台作り等に費し、翌6日からいよいよ珈琲の採取を始めたのだが、一家3人して4、5キロ位しか収穫出来なかった。その年は非常な不作であったからである。一人で一日4、5俵も採集できる勘定であったが、3人かかって1俵にもならなくては困るのである。だからそんな日が3日も続くと、流石に移民達は、不平を訴えはじめた。

 上塚氏の一行は、全耕地を見て廻った訳であるが、移民の不満は何処へ行っても蔽い難いものがあった。上塚氏はサンパウロ市に帰って来て、その事務所の椅子に腰かけてガッカリしていた。書記の香山氏に「耕地の模様はどうでした」と尋ねられ、「皆んな食えぬと云って騒いでいる。珈琲があまりなっていないので、1日3人家族が一生懸命働いて1俵半か2俵しかちぎれぬ。全くあれでは食って行けん」と上塚氏は心中不安でならなかった。

 果せるかな、ヅモント耕地に於ける移民の不満は、その後いよいよ激しくなるばかりであった。上塚氏は8月1日耕地側からの通知に接して、同地に急行した。この時は、内田公使について渡伯した宮崎信造氏を通訳として連れて行った。留まること7日、極力移民の慰撫に努めたが効果はなかった。

 8月23日、再び同耕地より急報あり、移民が騒いで収まらずと。三浦通訳官が公使館よりサンパウロにかけつけ、水野、上塚、宮崎諸氏が同道して現場に急行した。

  彼等は移民会社とその一党を恨んだ。水野、上塚氏等が来ると竹槍、鍬、鎌をとってこれを迎えるという騒ぎであった。

 「石のようなパンを噛り、塩をおかずに粥すすり、文字通り晨(あした)に星を戴き夕(ゆうべ)に月を踏んで帰る終日の労働が、僅か5百レースか1ミルの収入にしか当らぬ。移民会社はおれ達を喰いものにした。腹たちまぎれの夫婦喧嘩で、何故こんな所へ連れて来た。明日にも日本へ帰しておくれ。隣りでも家族会議が始まって、明日から畑の仕事を止そう。食う米がなくなった。耕地の牛を殺して食ってやれ、移民会社の野郎共、竹槍に串ざしにしてやれ」(農業のブラジル第3巻8号より転載)
 
などと、移民達の激昂の有様が目に見えるようである。水野氏の一行が乗込むと、丘に立って演説をするものがある。言々火を吐く魂の叫びである。一行もその窮状には胸を打たれる思いがした。馬から降りた上塚周平氏は
 
「諸君を今日の窮状に陥れた責任は、私共にある。申訳の言葉もないが、しかし私共は今日まで諸君が幸福であるようにとばかり努めて来た。不幸にして不景気の絶頂、あまつさえ珈琲の凶作である。私どもの希望はこれがために果されず、諸君が苦しまなければならぬ破目となった。私の生命を捨てよといわれるなら、もとより生命は惜しまないが、願わくはもう少し生かしておいて、諸君のために尽さして貰いたい。私は生命に替えて諸君のために尽すことを誓約する」(同上)

 かくて一行は州政府当局と協議の上、移民一同210人をサンパウロ市移民収容所まで引揚げさせた。

 上塚周平のその後の生涯は、前記の一節たる「願わくはもう少し生かしておいて、諸君のために尽させて貰いたい」の一語を証明することにつきたのであった。
 
 上塚氏は瓢骨と号して俳句を趣味とした。

   ブラジルの初夜なる焚火祭かな
   夕ざれば樹かげに泣いて珈琲もぎ 
   夜逃せし移民思うや枯野星
   大勢で下りてバス押す出水かな


サンパウロ人文科学研究所 Centro de Estudos Nipo-Brasileiros