渡邊孝
渡邊孝(わたなべ・たかし)
segunda-feira, 09 de dezembro de 2013

 返幅を飾らず、飄々乎として、しかも親しみ深い渡邊孝氏の名を、忘れ得ないであろう。福島県相馬郡中村町の産、明治40年(1907)3月東京外国語学校スペイン語科を卒業、大正2年(1913)東洋移民会社に入り、同年ミナス・ジェライス州サン・ジョン・デル・レイ金鉱行き単独移民18名を率いて若狭丸で渡伯した。金山は予想外の地獄労働で、氏もまた退去しサンパウロ州に転じた。

 1914年(大3)セントラル線ピンダモニャンガーバ駅に入り、初めて水田式米作を試みた。1916年(大5)、ソロカバナ線セルケーラ・セザール駅モンソン植民地に転じ、蔵力哲夫氏等と棉の試作をし、その適作なることを実証して大いに宣伝し、日本から殺虫剤を輸入するなど、棉作栽培の草分けとして活躍した。次いでパラナ州に移り、安元、原、長谷川の諸氏と、カカツ植民地を創設する。40年前に北パラナに着眼した先覚者である。請われて海外興業会社に入社し、勤続8年。

 彼が海興に籍のあった頃、一時同社が移民に貸付けた渡航費の取り立て役に廻ったことがある。彼は、移民個々の経済状態やその他の事情を具(つぶさ)に聞き、中には返済しようという者にさえ、「それは君、払わないでもよいから、その金で豚を買え」などと勧めた。渡邊孝氏はそうした風の男であった。

 退社後セントラル線カサパーバ駅で水田の稲作をしたこともあったが、事業的には失敗だった。1929年(昭4)、モジ市に移り、17ヘクタール借地して、蔬菜園を経営した。

 渡邊氏は、常に新しいことを計画したので、いつも貧乏していた。温帯果樹の将来についても、夙に彼は北米や日本から種々の種苗を取り寄せて試作していた。モジ方面に邦人の蔬菜栽培者が増加するに及び、渡邊氏は昭和8年(1933)3月産業組合を設立した。爾来(じらい)、その育成に懸命の努力を払ってきたのであるが、昭和14年(1939)2月28日、彼の主宰したこの産業組合の総会の席上で、脳溢血のため斃れた。組合は彼の功労に酬いるのに組合葬を以てし、同年11月29日構内に胸像を建立して、永くその徳を偲ぶこととなった。

 昭和15年(1940)1月25日付、邦字紙「聖州新報」に、渡邊孝氏のことについて次の様な感激的記事が掲載された。

 「読者は、昨年2月28日、モジ産組定期総会の席上、あくまで組合の精神的結束を説きつつ、突如として逝った故渡邊孝氏の劇的最後を、よもや忘れはしないであろう。渡邊孝氏がモジ産業組合には勿論のこと、広く全伯同胞から、モジの彦左という愛称を以て親しまれ、また尊敬を受けていた所以は、その物質を超越した、偉大なる愛の具現者たることによるものである。

 氏の説く移住精神は、人類愛の尊い信念に出発し、モジ産組は、この精神に燃え立った加藤、佐川、富樫氏等の手に依って誕生した。産組誕生の直接の動機たる経済的事情の如きは、この尊い理想の前には、まことに単なる「動機」に過ぎず、産組誕生の基礎は、こうした精神的なものに依って、すでに出来上っていたと見なせるであろう。

 創設以来7年、わずかの期間にして、かくも健実なる農村経済構機を打ち立て、その事業内容と組合員の統制振りは、まったく他に見られぬ驚異的存在となっている。かくある所以は、その死の最後まで、愛を説いて逝った故渡邊孝氏の指導精神に敬服師事してきた、モジ組合員各々の覚醒に外ならないとすべきである。

 以上、モジ産組の、精神的結合の上に築かれた所以を述べ来ったのであるが、あまり抽象的に過ぎ、或いは解し兼ねる読者もあろう。

 その人達のために、他日適当な人によって渡邊氏の伝記が書かれるならば、当時の渡邊氏と組合との精神的結合を知り「もっとも」とうなずかれるであろう。またモジ産組を知り、故渡邊孝氏を知る人ならば、この抽象的な一文が、よく全意を尽したものとも思われるに相違ない。

 渡邊氏の一周忌を目前に控え、いささか産組運動のため、この一文を世に送り、兼ねて遺族を慰めるものともなれば幸甚である」云々

 彼は、当時陸軍中将であった実兄に依頼して、花嫁をブラジルに迎えることになった。大正11(1922)年サントスに入港した神奈川丸は、検疫のためしばし湾内に碇泊しなければならなかった。小蒸気船に乗った出迎人は手を振りハンカチを振って、幾回となく同船を走り廻ったが、そこに彼女の花婿たる渡邊氏の姿は見当らなかった。ガッカリした花嫁米子さんは、船室に引き籠り、シクシク泣いていた。間もなく検疫もすんで、船が埠頭につくと、デップリ肥った丸坊主頭の渡邊があらわれ、トントンと上って来て「オイ、おれの女房はどれだ」と、花嫁の手を取って、人ごみの中をグングン押しのけ、タラップを下って行った。こうした奇行は、渡邊の日常茶飯事であった。

 行脚博士と言われたくらい、旅行を唯一の趣味とし、居常、地図を広げて見るのを無上の楽しみにしていた由である。

 野球も好きで、笹原憲次氏等と共に、ミカド倶楽部を牛耳った一人である。1933(昭8)年6月18日、渡伯日本移民25周年記念に際し、産業啓発の功労により、内山総領事より表彰された。

 渡邊氏の歿後、米子未亡人の述懐に曰く
 「渡邊は、貧乏で一生わたしを苦しめ、最後に幼い子供五人をわたしの手に残して勝手に先に逝きました。そう思うと限りなく憎い位ですが、しかし渡邊にも良い所がありました。主人の歿後、郷里からは再々帰国を勧めて来ますが、わたしの手で何としても此の子供達を育てる覚悟です」と。


サンパウロ人文科学研究所 Centro de Estudos Nipo-Brasileiros