人文研ライブラリー:近代移民の社会的性格(1)
アンドウ・ゼンパチ
terça-feira, 30 de setembro de 2014

「人文研ライブラリー」と称し、今まで当研究所が発行して来た刊行物の内容をサイト上にて公開していきます。なお、表記は原文のまま転載しております。

近代移民の社会的性格
『研究レポートI』(1966年)収録
アンドウ・ゼンパチ

1.序説

 19世紀初頭から20世紀の30年代にかけて、日本をも含めて、移民は世界中いたるところから出た。しかも、凡そ7500万(1)というおびただしい数が流出して移民時代を現出した。しかし、このような驚異に値する社会現象が百年もつづいたということは、いったいどんな原因によるのであろうか。移民流出の原因としてあげられているものは、飢餓や戦争の惨禍からの避難、宗教や政治的な圧迫からの脱出、経済恐慌による失業、人口過剰など種々であるが、各国の移民は他国のものとは関連なく、これらの諸原因のどれかによって、独自に出て行った偶然性のものなのか、それとも、世界史的に見てどれもが根本的には同じような社会・経済的原因による歴史的、時代的必然性のものであるかということは、移民史研究上、まず明らかにされねばならない。そして、移民には、移住地に第二の故郷を作ろうという目的をもった永住型と若干の金儲けを目的とした一時的な出稼型とがあるが、移民がどの型になるかということも、心理的な原因で決定されるものではない。
 また、各国から移民が流出し初めた時期もイギリスのように、すでに17世紀中葉から初まっているところもあるし、イタリアのように、ずっとおくれて19世紀中ごろからの国もあるが、これらの相異を生じた諸原因をも合せて社会・経済的に究明することによって各国移民の性格が明らかになると同時に、ブラジルにおける日本移民の姿も、はっきりしたイメージとして浮彫になってくるだろう。この論文の意図するところはその点にある。

 (1)Carr Saunders, World Population によれば、1821年から1937年までにヨーロッパからアメリカ大陸、オーストラリア、その他へ流出した移民は約6千万とある。またWarren S. Thompson は1851年から1932年の間に新大陸へヨーロッパから移住したものは6千万以上だとしている。(Population Problems
 この外に中国から東南アジア、南洋方面へ約800万、満蒙地方へ約1000万、さらにインドおよびニッポンから各地へ出たものを合計すると2000万人を超えると推計されている。
 また、最大の移住地であったアメリカ合衆国へ入ったものの数はMaurie R. Davie の World Imigration によれば、1820~1935年に3798万人、Carr Saunders の計算では、1821~1933年間に3424万余である。とにかく、大ざっぱに見て1820年ごろから1930年代までに、世界中から出た移民の数は7000万~7500万という厖大なものである。


 ブラジルが外国移民を誘入するようになったのは、1808年にナポレオン軍がポルトガルに侵入したとき、ポルトガル王室およびその政府はポルトガルを脱出してブラジルに還都したが、そのとき初めてブラジルの門戸をヨーロッパ各国の移民に解放するようになってからである。
 ところが、たまたま、そのころから、すなわち、19世紀の初頭、詳しくいえばナポレオン戦争が終了してヨーロッパに平和と秩序が回復されてから、ヨーロッパから南北アメリカへの移住者が出始めたが、19世紀中ごろからは関を切った水のように大量に流れだして絶えることなく百年以上も続いた。この時代には、移民はヨーロッパからばかりでなく、アジアでもシナを初めとして、インドやニッポンからも出た。そして、両者の合計は7500万ないし8000万という驚異的な数で、まさに世界史的な移民時代が出現したのである。
 南北アメリカへは新大陸発見後、そこを植民地としたスペイン、ポルトガル、イギリスから、いろいろな種類の人間がいろいろな目的で移住していった。それに、アフリカからはこれまた千数百万人と推定される黒人が奴隷として輸入されたりしたが、19世紀からの移住者は、その数が飛躍的に激増したというだけではなく、移住者の社会的な性格と移住の原因が、それ以前のものと全然ちがっているところに特色がある。
 日本移民がブラジルに来たのは1908年で、20世紀になってからである。日本の近代移民史は1868年(明治元年)に、グアム島とハワイへ出た移民から始まり、アメリカ合衆国、メキシコ、ペルー、フイリッピンその他へも渡航し、最後にその主流がブラジルへ来るようになった。これら、19世紀からの移民は日本移民も含めて、その出国の原因が、後述によって明らかにされるように、どこでもすべて同じであるところから、世界史的に見て時代的な社会現象だといえる。
 すなわち、この時代は、封建制から資本主義への移行の過程である重商主義の段階を経て、ぜんじ資本主義の確立と発展に世界の各国が進んだ時代である。その結果、農民層の分解がはげしくなり、没落した農民で都市に出たものは貧民化して浮浪人を生み、さらに、産業革命によって生産手段を奪われたマニュフアクチュアの親方や熟練職人が失職し、また、資本主義の発展によって必然的に襲来する農業恐慌や周期的におこる経済恐慌でゆすぶられて農村や都市からおびただしい貧窮者や失業者が現われた時代である。封建制を打ち倒して樹立された新国家は近代化するために欠くことのできない官僚機構の整備、近代的軍備の充実、鉄道や官営諸工場の設立などに要する莫大な資金の調達を、近化工業の発達がおくれている国ほど人口の大部分を占める農民から租税として苛重にとりたてて農民をいっそう苦境に追いつめている。
 19世紀の世界各国の社会史や農民史をひもどくとき、どの国でも以上のべたようなことが同じように起き、同じように行われている。たとえばドイツやイタリアの困窮した農民の状態や没落していく手工業者の有様など、区別できないほど似ているし、時には、それらを日本の農民のことかと錯覚することさえあるほどである。そして、どの国でも、これらの社会的、経済的な重圧から、逃避する一つの道として、やむをえない最後の手段として民衆は移住を決行している。
 中には、飢餓、戦争、宗教的迫害などの惨禍から逃れるために移住したものもあるが、それらも19世紀になってからのものは、やはり、資本主義発展の過程における一連の社会的、経済的変動や政治的重圧などの悪条件の上に、飢餓、戦争、宗教闘争などの偶発的な惨禍が重なり、農民の苦難を極限にまで追いつめた結果である。その外に、個人的な原因には心理的な動因、すなわち、未知の世界への憧れや“海外発展”というような勇壮な野心や、旧世界的の物質文明をさけて、大自然のなかに新しく人生の意義を見出そうというようなロマンチックな考えなどで、新世界へ出たもののあることも否定できないが、これらは、決して、この時代の移民の主流をなしたものではない。ただ時代的な移民の主流に、あちこちから流れこんだ小さな支流である。それゆえ、この論文では、第2義的な原因、動機については、ふれないことにする。
 第1義的な社会経済的原因による移住は、厳密にいえばイギリスからはすでに、17世紀中ごろから出ているが、これが世界的な流出となったのは19世紀に入ってからで、20世紀のだいたい30年代までが全盛時代といえる。この移民の流出は、要するに資本主義的発展の過程において、社会機構から、はみだされたものが決行した“逃避行”であるといっていい。このような概念のもとに、この時代の移民を特に“近代移民”と呼ぶことにした。“近代”という語は雑多な概念によって、いろいろな意味で使われているが、私は、社会経済史の立場からは、封建制が崩れて資本主義化の時代へ這入るころからを“近代”と呼ぶのがふさわしいと考えている。(2)

(2)“近代”および“近代化”という語の概念規定は、1960年来、歴史学者や社会学者の間でやかましく論争されている。それについて“思想”(1963年11月号)の“近代化をめぐって”という特集号は、あらゆる点からこの問題を取りあげている。その中の“近代化への一つのアプローチ”という論文で井上清は次のように書いている。“近代化の本質についての私見を、結論的にいえば、理想的な近代化とは、封建的あるいはそれ以前の経済、政治、社会関係、文化等々を完全に一掃し、それに代って資本主義の生産関係とその全上部構造をつくりあげることである、と私は定義したい。”
 これによると、“近代化”とは近代化されていく過程ではなく、それが完了されたことを指していると思われるが、資本主義化されていく過程を時代的にとらえて“近代”という語を私は使った。それゆえ“近代”という語は英語の modern と全く同じではなく、したがって“近代移民”に“modern immigrant”“imigrante moderno”という訳語は厳密にいうとあてはまらない。


 世界における近代化はイギリスが最も早く、近代移民はすでに17世紀中から出始めていた。イギリスにおける封建制から資本主義への移行、および、その後の資本主義の発展は、世界にさきがけて、しかも典型的であることは有名であるが、近代移民流出の形もまた典型的であるといえる。
 近代移民流出の主要な原因は、封建制が崩れていく過程において農民層が分解し農村を離れたものが、都市において完全に吸収されず、そのまま国内にとどまっていれば浮浪化する以外に道がない場合と、農民層分解で貧農に没落しても農村にしがみついたまま、飢餓線上の生活にあえいでいるもの家族の中から家計補足のため誰かが、出稼に出るのに、都市には仕事がなく、出稼の場を国外へ求めるのとある。それゆえ、いずれにしても、国内における工業および商業が全国的に著しく発達して、農村から追いだされる者や、農村に停滞して過剰人口を形成しているものをどしどし吸収することができるようになれば、“近代移民”の流出は激減あるいは停止する。
 現に、近代移民のさきがけをなし、しかも1851~1860年には全世界の出移民数の65.8%を占めたイギリス移民は、1901~1910年には15.8%に激減し、それにつづくドイツ移民も、ドイツの工業が全盛期にはいった20世紀になってから漸減してきた。
 要するに近代移民の流出の時期、量、移民の型などは世界史的に見て、一定の社会的な法則に従がってきまるものである。それゆえ日本移民の社会的性格その他について理解するためには、いちおう、世界史的に見た近代移民とはどんなものであるかを研究する必要がある。
 しかし、近代移民の大部分を吸収した南北アメリカには、すでに発見直後から3世紀にわたって緩慢ではあったが、たえず移住が行われて18世紀終りには、すでに独立国となったアメリカ合衆国を始め、その他のスペイン、ポルトガルの植民地も各地に独特な社会を築いていたが、これらも19世紀の初頭にはほとんどすべて独立国となった。このような新大陸の諸国が19世紀から20世紀へかけての百余年間に6000万という大量の移民を世界各地から吸収したのである。それゆえ、近代移民を吸収した新大陸の社会は、いったいどのような人間によって構成され発展してきたのかを知ることによって、近代移民の特殊性がいっそうはっきりしてくるから、その前史として概略を述べる必要がある。

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サンパウロ人文科学研究所 Centro de Estudos Nipo-Brasileiros