人文研ライブラリー:近代移民の社会的性格(7)
アンドウ・ゼンパチ
segunda-feira, 21 de setembro de 2015

近代移民の社会的性格
『研究レポートI』(1966年)収録
アンドウ・ゼンパチ

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7.むすび

 近代移民の社会的性格、および、その流出の社会経済的原因については、以上において詳述したことで明らかになったことと思う。要するに、“近代移民”と呼ぶところのものは、封建制から資本主義への移行期における農民層の分解、産業改革による影響、資本主義的恐慌、不況など、資本主義発展の歴史的過程における一つの社会現象である。そして、農民層分解が徹底的に行われる場合と不徹底に行われる場合とがあるが、後者の場合には、農村に潜在的かまたは停滞的過剰人口を作り、移民を出稼型にする。それゆえ、各国移民の流出が停止あるいは減少する時期は、だいたい、それぞれの国の農民層分解が終結し、資本主義の強力な発達によって、農村の潜在人口を都市の工業力が吸収消化するようになる時である。
 潜在的過剰人口、停滞的過剰人口というのは、マルクスが資本主義社会における人口法則を解明した相対的過剰人口における形態であることはあまりにも有名であるが、“近代移民”の流出は、人口論的に見ればそれは、ただ土地と人口との相関関係から説明される絶対的過剰人口よりも、資本制生産社会に必然的な現象として発生する相対的過剰人口によるものである。
 マルクスは、“資本論”第23章第4節の“相対的過剰人口の種々の実在形態”で“相対的過剰人口はつねに三つの形態――流動的、潜在的および停滞的形態を有する”といっているが、移民流出に関係のあるものは、主として潜在的過剰人口である。
 潜在的過剰人口は潜在的失業人口というのと同じであるが、マルクスは次のように述べている。“資本主義的生産が農業部門に侵入してくると、その侵入の程度に応じて、農業資本の蓄積につれ農村労働者人口に対する需要は絶対的に減少していく。農業生産の場合には、労働力の反撥は、非農業的産業の場合とちがって、より大きな吸引によって補われることがない。したがって反撥された過剰人口は、たえず都市プロレタリアートまたは工業プロレタリアートとして流出する好機を待ち構えている。この過剰人口はたえず潜在的に存在しているのであって、その大きさは過剰人口流出の排水溝が特別に広く開かれたときにのみ目に見えるようになる。このような過剰人口の特徴は最低限度の賃金を受くべき地位に圧し下げられ、したがって、片足をつねに貧窮の泥沼につっこんでいるという点にある。” (25)

 (25) 相対的過剰人口論はマルクス学説中の重要な法則の一つであるので、多くの人によって飜訳引用されているが、この引用は、大河内一男編、経済学新大系IV、“失業”の横山正彦訳のものであるが、ブラジルにおける諸者を考慮して、いくぶん補足したり、字句をとりかえてある。

 潜在的過剰人口は都市よりも主として農村に見られる現象であるが、それは、“農業が資本主義的企業としてその家計から独立しておらず、生産関係に多分に前期的な関係を残存せしめているような農村の中に、この過剰(失業)人口の潜伏場所が存在する。”からである。(奏 玄竜、農村における潜在的失業人口、“理論”季利、19号)特に、日本のように封建的家族制度の色彩がこく残存している農村は、恰好の潜伏場所である。
 イギリスの“囲い込み”のように、農民を農村からどしどし追いだしてしまうというような徹底的な農民層の分解が行われない所では、潜在的過剰人口は多かれ少かれ発生する。そして、それが、あるいは都市へ働き口を求て、あるいは、国外へ移民となって出て行くことは、すでに各国について述べたとうりである。要するに、農村に潜在的な過剰人口が存在する限り移民の流出はとまらない。
“産業予備軍のなかに農業出身者が多ければ多いほど、移出および植民の可能性は強い。19世紀後半から、おそらく第1次大戦に至るまでの移出民においては、このような要素が非常に大きく、合衆国にもカナダやアルゼンチン同様広汎な農業植民への可能性を与えていた。これに反し、産業予備軍のなかに、資本の有機的構成の高度化=合理化によって街頭に放り出された労働者層が多ければ多いほど移出性向は減退する。”(フリッツ・シュテルンベルグ、“帝国主義論”前出の横山正彦、マルクス主義における失業論から引用)
 旧世界においては、資本主義時代に這入った国の農業人口の割合が工業人口の割合より非常に大きいということは、潜在的過剰人口が多いからで、その国の工業の発達がまだ資本主義的に高度に発達していないためである。それゆえ、産業予備軍とも呼ばれる相対的過剰人口が充満することになる。しかし、農村からの過剰人口の流出が、移民となって海外へ出て行くだけで、工業人口の割合の増加にならなければ――ということは工業面の発達が停滞または緩慢であるからであるが――農業人口の割合は、いつまでたっても減少しない。それゆえ、こういう国の農村の過剰人口は、慢性的で、いつまでたっても移民の流出は止らない。この現象がもっとも典型的に現われていたイタリアについて見よう。

イタリア人口の職業別人口と比率(10才以上)
年次農業工業・運輸全就業人口
 千人千人千人
18815.49858.22.65128.09.450100.0
19016.46658.83.03527.610.989100.0
19116.11254.33.60932.111.249100.0
19217.14754.34.08131.013.155100.0
19316.47448.74.49733.913.281100.0
19516.11341.44.50036.214.768100.0
(エミリオ・セレーニ、“イタリア農業の構造的改革”より引用)

 イタリアの農業問題を見事に分折したEmilio Sereni は、この表の説明を、その著Vechio e nuouo nelle campagne italiane (中村丈夫、植原義信訳、イタリア農業の構造的改革―イタリア農村の古いものと新しいもの―P. 258~9)の中で次のようにしている。
“表で見るように、その間――大部分の先進資本主義諸国の事態とはちがって―イタリアでは、この70年間に、センサスが“農業従事者”と分類する10才以上の男子の数は減少しないどころか、まさに増加しつつある。すでにのべたように、よぎなくされた移民の流れを通じて、この数十年間に数百万の農業勤労者と小農業生産者が国民的生産過程から放逐されたとしても、このような流出は――工業的発展が緩慢なので――資本主義の発展が農村で“解放”しつつあった過剰農業人口を吸収するには充分でなかった。だから、他の諸国ではみられないようなきわめて大きな割合で、このような過剰は、イタリア農村の潜在的過剰人口をなお増大させている。”

 イタリアでは、今日でもなお存続する巨大私有地(ラチフンジオ)のために、資本主義的蓄積過程が緩慢で国内市場は狭く、近代大工業の発展がおくれている。そのため大工業に従事する労働者数は、同国の移民流出の最も盛んな1881~1930年の間でも、著しい増加がなかった。
 しかし、主要な出移民国の一つであったドイツを見ると、農村の潜在過剰人口は、今世紀になってから工業面による吸収が大きくなり激減し始めたが、移民の流出もそれにともなって非常に少くなってきた。農業人口は、移民の流出が目立ち初めてきた1849年には64.0%であったのが、次の表のように減少していった。

ドイツの職業別人口と比率
年次農業工業・手工業商業・手工業公務・自由業家事
18827.1345.7821.4449581.56216.858
18957.1827.4852.1521.3271.61015.756
19078.5569.8483.4961.6521.60425.156
19256.76513.4865.2352.1311.39432.009
19336.34313.0535.9322.6991.26932.296
       
 %%%%%%
188242.234.38.65.79.2100.0
189536.437.910.96.78.1100.0
190734.029.113.96.66.4100.0
192530.542.116.46.74.3100.0
193328.939.418.48.43.9100.0
(Statisches Jahrbuch für das Qeutsche Reich, 1935, ただし、美濃口時次郎、“工業人口論”より)


 ところが、日本ではドイツよりも農業人口の割合が大きく、イタリアとほとんど同じくらいで、1920年でも、まだ農業人口は52.7%で全就業人口の半分以上を占めた農業国であった。1930年になって、やっと47.7と半数以下になったのだが、それにもかかわらず、移民の流出量は北海道移住者を含めてドイツの3分の1、イタリアの6分の1にすぎないし、海外への移住者だけなら、ドイツの10分の1、イタリアの20分の1という少数である。

ニッポンの職業別人口と比率
年次農林業工鉱・工通水産業商業公務・自由業家事
その他
187214.10095139594750217917.073
192014.2866.5385363.6621.51772127.261
193014.1317.1345684.9062.00587329.620
194013.84110.0945434.8822.19592832.483
194413.37611.9504642.2472.89960431.534
       
 %%%%%%%
187282.65.52.35.52.91.0100.0
192052.423.92.013.45.62.6100.0
193047.724.11.916.66.82.9100.0
194042.631.21.715.06.72.8100.0
194442.237.91.57.19.21.9100.0
(美濃口時次郎、“工業人口論”より


 では、日本では農村の潜在的過剰人口は、いったいどんな状態になっていたのだろうか。資本主義の発達の仕方は、各国における社会的特殊性によって、必しも一様ではないが、ニッポンとイタリアとは、それぞれの近代革命をもたらした明治維新(1867年)とリソルジメント(1861年)がほとんど同じころに行われ、どちらも、徹底した農業革命ができず、農村に強い封建色を残したまま、資本主義的発展に進んだ点はよくにている。そして、同じ封建色といっても、ニッポンでは、地主と現物貢納する小作人、イタリアでは、北部のポー河流域の資本主義的農業地帯以外は、ラチフンジオ(巨大私有農地)の所有者と奴農的小作人という相異はあるにしても、工業面においては、先進資本主義諸国に立ちおくれて海外に市場を持たず、封建的農業の生産関係のために国内市場も狭く、そのために、工業発展のテンポが緩慢で、農村の潜在的過剰人口の吸収が弱かったことも、ニッポンもイタリアも実によく似ていた。
 ニッポンにおけるマニュフアクチュアは、明治維新後、機械制工場の発展とともに発達した。これは一見奇妙な現象と思われるが、維新前にマニュフアクチュアの広汎な発展がなかったところへ、にわかに先進国から輸入した機械によって始められた近代工業は、軍需工業を始めとして、国家的に重要な重化学工業、および製糸・紡績などの軽工業であった。そして、農村に安価な労働力が豊富にあったということも原因となって資本主義的企業にならぬ多くの産業がマニュフアクチュアとして同時に発達した。しかも、第一次大戦ごろまでの日本産業は、実にマニュフアクチュアが、特に、従業者5人以下という零細企業のものが圧倒的に多く、これが都市ならびに農村に広汎に普及していた。
 1920年(大正9年)においても、職工5人以上の工場職工数は185万人であるのに対し、小工業(家内工業・手工業などもふくめて)職工数は本業132万、副業136万、合計268万にのぼる。……かかる小工業の多くは、とくに副業的なそれは、農業に片足をおきつつ兼業農家の副業として行われている。(大内力、日本資本主義の農業問題、改訂版、P. 207)
 ところで、毎年農村から都会へ出ていく数はどれほどかというと、1920年~1940年間の年平均数は約40万で、このうち10万は縁組のための離村である。(並木正吉、農村は変る、岩波新書)それゆえ、就職のための離村は、おおよそ30万であるが、このほとんどが次三男および娘たちで、家族ぐるみの離村は、野尻重雄、“農民離村の実証的研究”によれば、1920年代で毎年200戸に一戸ぐらいの割で出て行っている程度で河川にたとえれば支流程度にすぎず、しかも挙家離村の原因の多くは、経営の失敗・破産・災害などで、夜逃げ同様のものであるといっている。(26)

 (26) 野尻重雄教授の“農民離村の実証的研究”は有名な労作であるが、私はそれを参考にすることができず、並木正吉著、“農村は変わる”から借用した。

 移民として農村から出て行ったものも、この離村者の一部であるが、家族移民としてブラジルへ渡航するために結婚したものが非常に多く、家族移住者といっても単独離村の変形的なもので、すべてが、挙家離村者ではない。
 では、農村人口の年平均数に当る30万~40万という次三男や娘たちの離村によって、農村の潜在的過剰人口は解消するかというと、この数は、どうにもいたたまれない者で、離村しやすい条件のもとにある者だけにすぎない。出て行くには条件の悪い者は、やむをえず、辛じて飢餓線上にしがみついているので、貧農や小作人たちの大部分はこうして潜在過剰人口を構成していると見ていい。
 彼らは前に述べたように農業だけでは生計を営むことができず、農閑期に炭焼きをしたり、夜業にわら工品を作ったり、荷車をひいて小運送をしたり、とうふや魚などの品を僅ばかり商人から仕入れては村々を行商したり、また土木工事などの出稼ぎをしたり、次三男などは近くの町の零細工場へ通勤したりしている。いわゆる副業、兼業の農家である。
 しかし、都会へ出て賃労働者になったものでも、いったん不況に襲われて失職すると農村に帰って父兄の家計に寄食しながら景気の回復を待つという者が非常に多い。これらは、こうしていわゆる停滞的過剰人口を農村に作る。(27)こういうことができるところが、家父長的性格が強い日本農村の特色である。それゆえ“日本の農村は過剰人口や失業人口に対する無限の深さをもつ貯水池のような役割をつくして来たといってよい。”(大河内一男、“黎明期の日本労働運動”)

 (27) 停滞的過剰人口というのは、好景気のときは就職し、不況になれば失業したり、不利な条件のところで働いたりして、景気の再来を待期する労働者のことである。

 日本の農村は明治維新によって農民層の分解が徹底的になされなかった上に、資本主義の立ちおくれた発達が、農民層の分解を永年にわたって、ほとんど停滞させていた。その上、農村に強く残った封建的家族制度のために農村を潜在的および停滞的過剰人口をいくらでも吸収する“無限の深さをもつ貯水池”にした。そして、一家族が食べていけないような小面積からも離れまいとする農民の心理が強いことも、永久に農村と訣別する離村の決行をしぶらせた。こんな事情が、ひと儲けしたら帰って来ようという出稼目的の離村を行わせるようになったのだ。
 大河内一男教授は、このような観点から、日本の都市の労働者は、日本独特の“出稼型”であると規定して次のように述べている。
 “明治から大正にかけては、男子労働者の数は女子のそれに及ばないが、彼らもまた、女子の場合と同様に、その本質において出稼型であるといってよい。農閑期における農民の炭鉱への出稼ぎか、北洋漁業労働か僻地の建設作業や土建労働への出稼など狭い意味での出稼はしばらく別として、男子労働者の中心である工場、鉱山、交通、その他の賃労働についていえば、彼らの大部分は農村における過剰人口の流出部分からなっており、いわゆる「次三男」がその中枢を占めている”(黎明期の日本労働運動、P. 4~5)

 しかし、日本の農村が潜在的過剰人口の貯水池の役をすることができるということは、日本の農民が貧乏であるといっても、農業に不必要な人間をかかえながらでも何とかやっていけるからである。日本における過少農というのが、“東北地方では2町歩以下、南西地方では1町5反以下で、1950年の統計によると、全農家の90%が、この過少農であるといわれるが、”(大内力、日本資本主義の農業問題、P. 12)これを華僑の出生地である南中国の広東省についてみると、1933年の調査では全農家の74%をしめる貧農・雇農の一戸当りの耕作面積はわずかに2畝にすぎず、全農家の平均耕作面積でも、7.8畝という。(尾崎秀実、支那社会経済論、P. 105)このような状態では、日本のように自然増加する人間が外へ出ていくというような緩慢な流出の仕方では、農民の貧困は解決されない。日本と南中国が同じ出稼移民を出しながら、日本からの流出量は華僑にくらべると問題にならぬほど少ない理由はここにある。
 日本人の海外移住も、やはりこの出稼型であった。しかし、都市への出稼者も、次第に出稼地に定着するようになるが、殊に、近年来、農村人口の絶対数の減少とともに、農業人口の割合も急激に降下しつつある状態では、農村は、もはや過剰人口の貯水池としての役割をだんだん果たせなくなってきた。離村したものにとって、再び帰ってくる所ではなくなりつつある。農業人口の割合が降下することは、それだけ、工業面や商業面、すなわち、第二次および第三次産業面における就業人口の割合が増加していることである。農村の人口が、それだけ都市に吸収されていることである。
 この傾向は1960年から次の表で見るように著しくなってきている。

農業人口(15才以上)
単位万
196013,91031.2
196113,53029.9
196213,11028.7
196312,40026.9
(日本農業年間1965版による)

 農林省が1965年2月に行った調査では、1965年の農業人口は、1151万におちて、5年間に約300万人、20%強の大幅減少となっている。この数年来の日本工業の異状な発達は農村人口を強力に吸収するようになった。そして、ついに農業就業人口の比率を20%台に引きさげて、やっと先進資本主義国と並ぶ工業国となった。ということは、結論的にいって、日本からの近代移民流出は終末期に入ったといえる。
 なお、出稼を目的とした移民でも年月のたつにつれて、次第に移住地に定着するようになるものが多い。とくに、ブラジルに来た日本移民は、大部分が永住に変っている。このことについては、後の章で評述することにする。

 記 “近代移民の社会的性格”というこの一文は、この後編になる“日系コロニアの社会史的研究”と合せて、まとまった一巻の論文になるものである。
 なおこの論文を書くために、São Paulo州政府の学術研究費補助機関であるFundação de Amparoから2百万クルゼイロスの補助金を与えられ非常に便宜をえた。また、この論文のポルトガル語訳は“研究レポード”No.2で発表されるはずである。

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