植民者の妻たち(1)
segunda-feira, 14 de janeiro de 2008

1)アナ・ピメンテル(上)
 サンビセンテの植民地開拓に明け暮れていたマルチン・アフォンソ・デ・ソウザに、三年ほどしてから、インド総督栄転の話が来ました。ポルトガルの高級公務員であり、当時のインドは男たちの夢でしたから、ソウザは喜んでこの話を受けます。カピタニアの遂行は妻であるアナ・ピメンテルに託されました。

 マデイラ島からサトウキビの苗が到着、サンビセンテの植民地に植えられ、ここがブラジルで最初のサトウキビ栽培地になりました。このとき牛も一緒に到着していますが、アナ・ピメンテルという名が誉れ高いのは、ブラジルに初めてサトウキビの苗を導入したのがサントス海岸地帯で、推進者がアナだったからなのです。もう一つ、みかん苗の導入でもアナは賞賛されています。

 ただ、このサトウキビの苗に関しては、当時マデイラ島で栽培され、貴重な薬品と同等に扱われていたサトウを、ブラジルに導入したのは夫のアフォンソではないかという気がします。この人はいわば海外駐在員ですからね。家から一歩も出ない女性にそんな広い視野があるとは思えないのです。

 このアナさん、スペインの貴族の出。ソウザとの間に6 人の子どもがいます。ドナタリアとなったアナは、ブラス・クバを総督として指名。夫が言い残した命令にそむいてピラチニンガ高原への進出も図ります。先住民との抗争を避けるようにとソウザが計らったことでしたが、彼女はあっさり、これをふり、海岸線よりも気候も温暖で土地も肥沃な高原へ乗り出しました。もっともこれは、ブラス・クバからの要請が強くあったようです。フランス軍がタモイヨ族と結託して頻繁に出没し、脅威となっていたときです。ここには、マリア・ド・アルコベルデと結婚していたラマリョやコンパドレのロペもいますしね。その後、アナの時代が終わってからですが、フランス軍は敗退し、平穏な日がやってきます。

  1546 年、隣のサントス市議会が刑務所の建設を頼み、これも承諾しています。刑務所には誰が入ったのかなあと想像をたくましくします。やはり、戦闘で捕らえられたインジオなのでしょうか。フランス人なのでしょうか。トメ・デ・ソウザの艦隊で最初の治安判事や検事がやってきていますが、この時代のサンビセンテは地方ですから、ここに常在したとは考えにくい。

 まあ植民者の大部分が罪人だった時代ですから、刑務所も必要だったのでしょうか。この後に異端審問という嵐が到来しますから、手回しがよかったといえば手回しがいいのですが、異端審問はバイイアやペルナンブッコに限定されて行われたことでもあり、この刑務所にその種の人が投獄されるのは不可能。

 大航海時代、乗組員たちを悩ませていたのが壊血病でした。まだ壊血病という名も存在しなかったころです。1600年に豊後の臼杵湾にたどり着いた難破船の、乗組員110人のうち生存していたのがたったの24人で、「幽霊船」と騒がれたのは有名ですが、壊血病の父リンド博士が実験を始めるのが1747年。帆船時代は航海中に生き延びれるか否かが重要な課題だったのです。

 写真上:アナ・ピメンテル
    下:異端審問の場面

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サンパウロ人文科学研究所 Centro de Estudos Nipo-Brasileiros