植民者の妻たち(3)
segunda-feira, 14 de janeiro de 2008

 ブリッテス・メンデス・デ・アルブケルケ
 もう一人のドナタリアです。インジオの娘と結婚した白鳥というあだなの青年ジェロニモの姉。ポリガミーをやめさせ、貴族の娘と結婚させるのに奔走した人です。カモンエスの「オス ルジアダス」の詩にも謳われている極め付きの名門アルブケルケの出。

 1535年に多数の士官、親族、友人に、また多数の働く人間(兵士、水兵、職人、商人、それに道具類、武器や弾薬)を連れてペルナンブッコにやってきました。この中に前述の女王の孤児もひとりいました。

 初期のブラジル開拓は土地の生産性を高め、サトウキビ工場を建設し、間断ない先住民たちの襲撃にも備えと、頭の痛いことばかりでした。もっとも、「移住」とは苦労の多いもので、19世紀になってから導入される各国移民だって、頭を痛めたことには変わりありませんでした。

 ジェロニモの協力もあり、ペルナンブコのカピタニアはサンビセンテと並ぶ成功例として、常に賞賛されていますが、20年後にリスボンに滞在中の夫ドアルテが客死。二人の息子たちもポルトガル留学中。そこでブリッテスがカピタニアを継承します。

 男性の統治者の不在をめがけて先住民たちの襲撃が激しくなり、エンジェーニョも破壊されます。また、戦争そのものも高くつき、抗争が大きくなって本国に援助が求められたこともあります。信仰に生きたいと願っていたブリッテスは、広大な土地やサトウキビ園の経営に打ち込みます。もちろん、弟のジェロニモの援助もありました。

 このブリッテスの統治時代、カピタニアがもっとも発展した時代でした。コロノが1000人以上、奴隷も同数いました。砂糖の生産も年間二十万アローバ。 1570年代にはエンジェーニョを66も所有。オリンダ市には荘厳な教会や礼拝堂が多数。信仰に生きたいと願っていた女性ですから、イエズス会にもずいぶん便宜を図り、コレジオまで建てています。

 学校を卒業した長男にカピタニアを譲りたいという請願書が出されたのが1560 年。承諾書が届いたのが10年後。わずか2年後にはポルトガルのセバスチオン王のアフリカ遠征があり、兄弟そろって志願して出征、戦死。ブリッテスは息子たちの亡き後、一人で事業を続けます。その後時代は移って1587年にイギリス人とオランダ人にオリンダの町をあらされ、廃れるという歴史的事実があります。年齢から推してブリテッスは修道院で生活していたと思われますが、世の栄枯盛衰をどんな気持ちで眺めたのでしょうか。

 1612年マラニョンがフランス人に占領されましたが、そのとき、討伐軍を指揮したのがジェロニモ・デ・アルブケルケ。いいえ、白鳥のジェロニモではなく、その息子のジェロニモです。時はすぎていきます。

 15 あったカピタニアのうち、成功したサンビセンテとペルナンブコ。二つとも月並みな言い方ですが、内助の功があったから成功したのだといっても過言ではないでしょう。本国から指令を出していたアナ・ピメンテル。未亡人になると本国に引き上げるのが風潮の中で、夫亡き後、現地にとどまって、気丈にもサトウ園の経営を続けたブリッテス。

 夫にすがらなければ生きていけなかった時代の果敢な女性たち。資料を読み進むと、人を使うのが上手だったように見えます。力で先頭に立ったわけではなく、現代風にいえば経営者としての、人を動かす能力が卓抜していたということでしょうか。

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サンパウロ人文科学研究所 Centro de Estudos Nipo-Brasileiros