先住民の女たち(1)
segunda-feira, 14 de janeiro de 2008

はじめに

 「女は産む機械である」との発言が、巷をにぎわしている日本。進退問題に波及させ、国会をボイコットする野党。経済は一流、政治は三流といわれる日本の、特に野党のお粗末さ、大人気がなさすぎてあほらしい。いくらなんでも、こんな政党に政治は任されないだろうに・・・。

 サンパウロで放映される衛星放送でそれを見たわが夫。「産む機械?、ホントのことを言って何が悪い」とそばで嘯きました。変えようもない事実ではないか・・・というわけです。そういえば、「腹は借り物」とかいう慣用表現もあります。

 つまり、あの大臣は常日頃そう思っているから口から滑り落ち、ひたすら謝罪に努めているけれども、世の大多数の男性は内心同意しているということなのでしょう。フン、フン。ソウカ・・・。
 女性の社会進出がこれほど盛んなことはかつてなかった時代、アメリカでもフランスでも女性の大統領候補がでているというのに、時代錯誤もはなはだしいと腹立だしくもありますが、あれっ、どっかで聞いたことがある・・・そういえば、ブラジルの先住民も「女は袋である」と考えていたことを思い出しました。
 言ったのは、というよりそんな報告書をポルトガル本国に書き送っているのがアンシェッタ神父です。

 アンシェッタ神父は第二代ブラジル総督ドアルテ・ダ・コスタとともに1553 年バイアに着いていますが、彼は筆まめでした。先住民にとっての家族とは父親の係累だけで、母親は「子どもを作る袋に過ぎない」。だから「姉妹の娘を何のためらいもなく性交に利用する」。司祭たちは「実母の兄弟である叔父との結婚も」とり仕切ったといいます。以上はジルベルト・フレイレの著書『大邸宅と奴隷小屋』の中で述べられていることです。ピラチニンガで最初の学校にかかわったというので、確か「ブラジルの教育の父」と呼ばれているアンシェッタ神父の意外な顔です。
 さて、こんな先住民女性のなかにも、「ブラジルの母」と呼ばれる女性たちがいました。ブラジル版の「アダムとイブ」と言ったほうがわかりやすいかもしれません。その後、各国から移民を導入し、多人種多民族国家を築くブラジル国家、混交人種ブラジル人の祖となったという意味で、「ブラジルの母」とか「ブラジルの家族」と呼ばれているのです。
 まず、このブラジル人の血の土台をつくった先住民の女性から話を進めましょう。記録者は男性ですから、ヒーローは常に男族。女性はさしみのツマ。先住民の若い娘は「美しい」の表現でひとくくり。心理描写など一行たりとも見当たらず、実像がつかみにくいのですが、偏見独断を承知でブラジルをつくった女性像に迫ることにします。

先住民の女たち

(1)カタリナ・パラグアス
 「ブラジルの母」と呼ばれる三人の一人、どちらかといえば本命と呼ばれるにふさわしい女性です。

 1500年のブラジル発見から間もない当時、ブラジルに住んでいたのはインジオと呼ばれる先住民でした。世は大航海時代。ポルトガル人ジオゴ・アルバレス・コレイアも大きな野心を抱いてインドを目指して海に乗り出したのですが、嵐にあって船は難破、バイアの湾に漂着します。やっとの思いで浜に流れ着くと、そこではインジオたちが戦闘中でした。ツピーナンバー族と獰猛なツピニキン族の争い。結局、ツピーナンバー族が勝ち、ジオゴも捕虜となり、食べごろになるまで(太らせて食べようとするグリム童話のヘンデルとグレーテルを想起します)部落の五人の娘が世話をしました。このなかに酋長の二人の娘、モエマとグアィピンバラもいました。インジオの娘たちを記録者のペロ・バス・デ・カミニョは、
「・・・その姿は美しく、またたいへん肉付きもいい上、恥部も、といいましても彼女らにとって恥部などという言葉は無縁ですが、大変愛くるしいものでしたから、わが国の多くの女性はその姿を見れば、自分たちはその娘に及ばないとして、恥入ることでありましょう・・・」(池上岑夫訳)と活写しています。モエマやグアイピンバラを含む当時の先住民女性一般の姿です。

 食われる前に海岸に流れついた鉄砲で、空を飛ぶ鳥を射落として「火の男・カラムル」の異名を取ったジオゴは、インジオたちの畏敬を獲得。婚約者をふったグアィピンバラが純愛を実らせて結婚、メデタシ、メデタシとなります。

 毎年、6月に行われるフェスタジュニナ。それにつきものの花火。行政は火事の因になると取締りを厳しくしていますが、街角に現れるひと月限りの花火屋の看板。インジオの酋長の絵がでかでかと書かれているのが、やっと納得できました。あれはカラムルなのです。この時期、500年前の話がサンパウロの街中やブラジルのそこここに蘇生するのです。

 もっとも、この話をまるっきりの伝説だと否定する人たちもいます。20年以上もアルバレス・ペンテァド財団大学などで歴史学を教えるBeatriz Forbesは、真実はインジオたちが貝殻のついた海草に身を包み半死状態のジオゴを浜辺で見つけたときに、それが現地の電気魚「カラムル」に似ていたので、ツピー語でカラムル、カラムルと叫んだというのがオリジンだといっています。ポルトガル語ではモレイラとよばれる魚で、カラムルの子孫たちが全員「モレイラ」とサインをしたというのを物的証拠にして、著書『Biografia do Brasil(2001)』の中で修正しています。そういえばインターネットなどもこちらの説を採りあげています。

 ジオゴがリスボンを発ったのが1510年。このとき22歳。一方、戸籍をもたないグアィピンバラの生まれたのは1503年ごろだと推測されています。その頃の航海術からすると、インドには平穏無事で7ヵ月の旅程。難破したのが1年内としても、娘は10歳足らずだったことになります。16世紀の女性の結婚年齢は12〜14歳といわれていますが、先住民は早熟なので、まあ、結婚も可能だったのでしょう。あるいは生年がずれているかのかもしれません。

 純愛のはずだったのですが、その後ジオゴは複数の奥さんをもちました。もともとイベリア半島は長い間イスラム文化の支配下におかれていたので、当時のポルトガル人はモーロ人との接触もあり、ポリガミーに適応していたといわれますから、ジオゴ自身も複数婚には何の呵責も感じませんでした。

 インジオの方も一夫多妻制でしたから、娘たちもなんの疑念も抱かなかったのですから、捕らえられたジオゴの世話をした娘たち全員が性交渉をもったかもしれません。モエマとの間にも、グアィピンバラとの間にも5、6人ずつ子どもを得ています。もちろん、他の奥さんにも子どもがいました。「腹は借り物」で、どんどん、自分の子孫をふやしたともいえます。結果的にはジオゴを大勢の親族を抱える族長に成長させました。

 さて、女たちはポリガミーの中で平穏に暮らしていました。「袋的」な明け暮れだったのですが、そんな部落に衝撃が走ります。ジオゴが複数の妻の中から、グアィピンバラを選んで、フランス旅行に同道したのです。それを知った他の妻たちは、汽笛をならして遠ざかる船のあとを追いました。人力でどんなに泳いでもかないっこなし。女たちはいい加減なところで引き上げるのですが、モエマだけは止めませんでした。泳ぎつかれて、手足が棒のようになり、溺れ死ぬまで後を追いました。愛のために自殺したという表現をする文筆家もあります。

 有名な「カラムル」という戯曲があります。ジョゼ・デ・サンタ・リッタ・ドウランがリスボンで書いた作品で、これがブラジルで絶賛されたのは、美しい自然を生き生きと描写し、ブラジルという国土に対する愛情があふれているからだと言われています。第一編カント1から第六編カント10までの長編です。カント2ではグアィピンバラ(パラグアス)との恋を、カント6・7ではモエマの激しい恋を描いています。

 21世紀の感覚では、ジオゴはもしかしたらモエマをはじめに抱いたのかなという気がします。モエマには既得権があるのです。それを踏みにじられたと感じたのでしょうか。芝居などでは純愛をうたっていますが、たぶん、それはジオゴとグアィピンバラから見た純愛で、他の女に取っての純愛ではありませんでした。モエマは気性の激しい女性だったと考えられます。女の誇りがおいてけぼりを食うことを許せない。嫉妬にくるい思いっきりジオゴを面罵したい一心で、力尽きるまで泳いだのです。死ぬまで泳がせたのは慕情などではなく、プライドとジェラシーというエネルギーだったのではないでしょうか。

 フランスにわたってから、グアィピンバラは洗礼を受け、カタリナ・アルバレス・コレイアになります。それが1527年と記録されていますから25歳ごろでしょう。この洗礼名は船長の奥さんからもらいました。ちなみに船長夫妻が洗礼親になっています。

 先住民初のカトリック信者の誕生です。先住民はたいていシャーマニズムを信じていますから、インジオ側からすればアイデンティティをなくしたということになるわけですが、白人側からすれば画期的なヨーロッパ文化の凱歌というので、カトリック国のブラジルではこのあたりが特に強調されています。事実これを突破口として、植民者の増加もあってバイア地方にカトリック信者が増えていきます。経済面はもちろんですが、王室の植民地造成の意図もこのカトリック信者を増やすことにあったわけです。フランス国王フランソワ一世がカトリックによる結婚式を行い、二人を祝福しました。先住民としてこれも初の正式な結婚です。

 当時、ブラジル沿岸はパウ・ブラジルを狙う密輸船の往来が激しく、特にバイア地方にはフランスやオランダからの海賊船が跋扈していましたから、洗礼親となった船長も海賊船の一味だったのではないでしょうか。

 先住民の生活は自給自足。旅行中やフランス滞在中の経費は誰がどこから工面したのか、と貧乏症の私は気を揉みますが、船長がパウ・ブラジルの積み出しをしている密輸商人なら、フランス滞在中も面倒を見たという推測が成り立ち、辻褄があいます。のちにはジオゴに便宜を図ってもらえるのですから。彼らが教会や修道院の建設なども手がけて裕福な暮らしを送っていることをみても、当たらずとも遠からず、とひとり合点しています。

 二人はバイアのパラグアス地方に帰ってきました。それ以来カタリナ・パラグアスと呼ばれるわけですが、このときからカタリナはインジオと入植者ポルトガル人との融和を積極的に図ります。フランス滞在での生活が眼を開かせたというべきでしょうか。文化の差を乗り越えて食事のマナーから服装まで、イロハから学びました。聡明な女性でなければ克服できなかったはずです。

 カタリナ・パラグアスは80歳まで生きながらえました。当時の平均寿命が何歳だったのか。現在はブラジル女性の平均余命がとっくに70歳を超していますが、1940年当時で47歳余。1500年当時の平均寿命など国勢調査も存在せず、推測するだけですが、大いに想像をたくましくして、30歳くらいだったと考えられます。それならば、10歳時の結婚も可能です。

 80歳という年齢で考えられるのは、彼女が人並みはずれて健康だったこと。規則正しい生活をしたこと。酒やタバコなどに溺れなかったこと。つまり、ものごとに溺れることのない意志堅固な女性だったような気がします。
カメラが登場するのが1826年ごろなので、パラグアスの写真はなく、残されているのは肖像画だけですが、丸顔の愛くるしい女性で、利発そうな眼が印象的です。ジオゴが数ある妻の中から選んだのも、それなりにうなづけます。

 また、ジオゴにしても、当時、世界一の女好きといわれたポルトガル人にもかかわらず、梅毒などの病気ももたず、「真正のアダムとイブ」として、ブラジル発の新家族となれたことを、現在、ブラジルに身を寄せている私は感謝します。

 この後、植民者が増え、梅毒が蔓延したことを思えばまさに僥倖です。

 さて、ポルトガル王室は遅れていたブラジル開発のために世襲カピタニア制を導入しました。一つのカピタニアは幅180キロから600キロ。貴族や国家の功労者に使用権と統治権を与えて開拓させようとしたのです。しかし所有権は与えませんでした。統治権を与えられた人間は長官(ドナタリオ)と呼ばれました。

 バイアにフランシスコ・ペレイラ・コウチニョという貴族が長官として到着しました。すでに現地でカラムルーは勢力をもっていたので、その協力を得て植民地の造成はうまくいくのですが、そのうち、労働力が不足してくると、コウチニョ長官はインジオを奴隷に使い出します。長官にすればインジオを奴隷として輸出できる権限を与えられているのです。当然の権利と考えたでしょう。しかし、インジオたちの猛反発を買い(同盟者のカラムルの一族以外)、調停にいったカラムルは捕えられるという事件がありました。

 このとき、人を集めて奪還計画を立て(一度ならずありました)、先頭に立って勇敢に行動したのがパラグアスでした。その後植民地はめちゃくちゃに破壊され、コウチニョはカエテ族のインジオたちの戦勝祝いに食べられてしまったといわれます。

 このあたりになると、パラグアスを選んでよかった、ジオゴの眼が高かったというべきでしょうか。この激しさは、死を選んだモエマにも共通しています。酋長の娘たちは胆が座っていたのです。でなければ、フランスでの都会生活ができるはずがありません。

 カトリックになったパラグアスは晩年、サルバドールの町にノッサ・セニョーラ・ダ・グラッサという礼拝堂を建設しています。死後はここに安置されることを望んだのですが、この礼拝堂建立にはこんなエピソードがあります。
パラグアスが夢を見ました。広い砂浜に空腹と寒さに震える漂流者の一団。そのなかに赤児を抱える女がひとり。ジオゴは妻に頼まれて浜を探索させました。一回目は見つかりませんでしたが、二度目に17人からなるスペインの漂流者の群が見つかりました。しかし、女性はいません。家に帰るとまたパラグアスは夢を見、「自分の村まで迎えに来てくれ、それから家を建ててくれ」と女が言ったというのです。最後にとうとうジオゴはインジオの小屋にいるを幼いイエスを抱く聖母マリア像を発見しました。その聖母マリア像が見つかった場所に建立されたのがグラッサ礼拝堂だということです。

 ジオゴが死んだあともパラグアスは驚くように長生きし、自分の娘や孫たちを王室の者と結婚させ、バイアにおける名家の誕生に尽力しています。インジオの血を王室に入れたのです。西洋文化とインジオ文化の融合を身をもって体験し、あとに続く子孫にも道を開いてこの世を去りました。(つづく)



写真上:アンシェッタ僧
  下:カタリナ・パラグアス

この連載についての問い合わせは、michiyonaka@yahoo.co.jpまで。


サンパウロ人文科学研究所 Centro de Estudos Nipo-Brasileiros