ニッケイ新聞(2008 年4月25、26日)に連載された『ブラジルの東北人―移民100年』(「河北新報」2008年1月6、7日より転載)に、ブラジル日本移民史で広く知られているマラリアの流行での平野植民地の悲劇と、そうした実情を知った同仁会の医師・高岡専太郎がマラリア研究に取り組み、1925年からサンパウロ州奥地の日本人入植地におけるマラリア対策や治療にあたった活動が、「移民の赤ひげ」として紹介されている。
初回の巡回から4 年後の1929年6月、同仁会活動の一環としてサンパウロ州奥地(ソロカバナ線)から北パラナ各地の巡回治療を行なった高岡専太郎、古関徳弥(当時、同仁会と海外移住組合連合会嘱託を兼ね、移住地の選定、測量に当たり、高岡医師の助手として「マラリア予防の地勢的研究」を行なった。後ブラジル拓殖組合チエテ移住地支配人)と共に、視察旅行に同行した河合武夫の随行記がある。
『1929 年6月23日よりソロカバナ線に同仁会視察旅行をなす古関、高岡両氏に随行するの記』と表書きされた小型のノートは、7月16日に建設当初のバストス移住地に至るまでの記録で、自筆の巡回地略図と主要地点までの走行距離、各地域の日本人耕地を視察した様子と行程の厳しさが、着伯後4年目、23歳の若い河合の眼を通して、かなり克明に記されている。旅のつれづれに書かれた内容は、短期間のものにせよ、河合の性格の一端と、初期日本移民の農村生活を覗うことができる貴重な記録と思われる。以下その一部を抄出して紹介する。
6月23日の午後1時に高岡邸を出発した一行は、コチア、サン・ロッケ、ソロカバ、イツーを経過して、翌日ボツカツに着き、ファゼンダ・モンテ・セルヴァーゼン(農場主はドイツ人)を訪ね、同農場の支配人・北村政吉氏と同耕地で働く数家族を視察した後、同農場に泊まって歓待を受けている。
6月25日 ファゼンダの朝鐘を久しぶりに懐かしい気持ちでうつつに聞いた。トースト・パン等田舎にはめずらしいご馳走を受けて、ゆっくりと出発。ボツカツから先は道がぐっと落ちる。茫漠たるカンポ、瘠せ地つづきの牧場地帯、追分に来ても道を聞くすべもない。走ること35キロ、イタチンガに着く。これより先45キロ、アヴァレ迄もまたほとんど同様の地勢。地質も悪く、ほとんど耕地らしいものもない。―略―
「アヴァレよりモンソン植民地、リオ・ノーボ迄32キロ。茫々たるカンポ、その間に大洋の浮島の如き疎林の群、大原野に来た感だ。」という地帯を経て、途中リオ・ノーボで数家族の綿作農家を診察してセルケイラ・セーザルからモンソン植民地に到着。
「輪湖、香山、岸本諸氏の入植地。日本人植民地として最初のものならん。」と記されたモンソン植民地(『香山六郎回想録』サンパウロ人文科学研究所・1976 年―に、同植民地初期の様子が克明に記されている。)についての6月26日付では「最初に当地方の有力者、蔵力氏の宅に赴く。既に相当の人よりがあった。種痘・トラホーム検査あり。アルモッソ後付近の病家訪問。後、隣接植民地の小池氏宅に至り、付近集団邦人の診察あり。日暮れ、市街地に帰り平田氏のもとに泊まる。夜、高岡氏の一般植民者に対する衛生講話あり。」と巡回診療の様子を述べ、当時の一般的ともいえる日本人綿作農家の生活状況を次のように評している。
「この辺、綿作地方の植民地を歩いて最もひどいのは、その生活の殺風景なことだ。お座なり的なやり方、1年、2年本位の計画仕事は実に惨めな生活をもたらす。彼等が如何にしてあの境遇に平然としていられるを思うと、全く驚かされる。何の為の植民か。」
と記し、28日付きの日記では、
「もうこの地方を歩いて嫌になった。こんな生活をする位なら、日本で百姓をした方がずっと気が利いていると思う。勿論、将来はあるかもしれないし又、彼等もそれを夢見ているんだろう。慰安も娯楽も教育もすべて、あらゆる文化の恵みによるもの一物もないこの地で、この生活で、ただ将来の金儲けに一縷の望みをいだいて総ての犠牲を平然と払うところ、あまりにも大胆なる賭け事よ。」
と批判する一方、経済的に何の苦労もない、資産家の坊ちゃん的一面を感じさせる青年らしい自己考察も行なっている。
「僕は結局どこまでも非実際的に出来た人間らしい。いくら考えても、こんな植民地の経済問題等に興味を起こすことは出来ない― 略―煎じ詰めると、気候がよくて、景色清らかに、読書などにも事かかぬ、相当文化の開けた地にゆっくりと暮して行きたいという以外何もないらしい。金がどうあろうと、大したことはなかろうという調子だ。実生活を知らないからだとも言えようが、兎に角、私は金儲けはとても駄目だとは、いつも特に旅行の時、痛切に感じる。―略―要するに私は好きなことをやる、もっと勉強する。そして若し経済問題と金の光が私に第一義のことになってきたら、その時はそれでいいではないか。こんなことをぼんやり考えながら、自動車の陰に寝そべって暇をつぶす。―略―」
オウリーニョスを過ぎて、ヴィラ・ジャポネーザ、カッポンの両日本人植民地では、綿作地帯と異なり(カフェー栽培地か)、よい落ち着きをみせて、訪ねる者にも嬉しいことだ…と記し、ここでは入植者たちと「談論風発、夜の一時まで語り続けた」とあるように、入植者と栽培作物の違いで、植民地の気風が違ってくることが読み取れる。
7 月に入って、北パラナ植民地、平和植民地訪問では、「こうして生活のすべて全く始めからたてあげようとする試みをみて、色々の事を考えさせられる。前に私は如何にしてこんな生活にあこがれ得たかを怪しむ。」と述べ、野村農場では、「ファゼンダのパトロン連、目下実習中の学生、我等一行、夕食後集まって、文学談あり社会問題論あり。生意気な言かも知れぬが、これが現代の日本知識階級の一部代表を以って任じているのだと思えば、つい苦笑も浮かぶ。」と書いているのも、批評精神旺盛な河合らしい。
つづく
(たなか・しんじ サンパウロ人文科学研究所)