河合日記・巡回治療に同行して(2)
田中慎二
segunda-feira, 02 de junho de 2008

 7月9日  サンタマリア耕地、同航海の林さんと会うことが出来た。入耕当時の悲惨な体験を聞かされるのは辛い。空想が幻滅となり、悲嘆となり、やがて絶望からあきらめ、そして初めて再び起たなければならぬ事を悟る。この決った道をたどって行く人々の姿をみて深い悲しみをもつ。サンパウロ在住の所謂知識階級に対する一般植民者の(特に古い我利我利連の中に)敵意を感ずる事が時々ある。今日も同仁会入会の事でもめたらしい。

 7月11日  朝9時半、カンバラ出発、オウリーニョスに向かう。バルボーザの耕地を通る度に癪に障る。誰かあって痛快にあの悪辣な一族を家諸共にダイナマイトで吹き上げてやらないか。オウリーニョスで昼食後ソブラに行く。このあたり数年前マラリア猖獗し、高岡氏の治療を受けてようやく死をまぬがれた地なれば、その接待すべて真情があふれて傍にみるも嬉しい。―略―

 7月12日  オウリーニョスの町に帰ってみる。赫埃は濛々として、板屋の軒並みと殺風景な表情の行人は一見、新開植民地の気分をそのままに表している。「すべては未来だ。土地は広い、富は無尽蔵」等と掛け声の高いこの地帯では、テラローシャの空気を吸って、欲と金の餓鬼亡者の間をさまようこと句日。こんな所に生きるのは嫌だという外、何も頭よりまとまって出なかった。

 7月13日  ガメロンほかもう一つ邦人集団地訪問。―略―どこへ来ても綿作地特有の殺風景な生活、自然、椰子の小屋に金々で、より外する事なしに暮す人々をみるのもあきあきした。植民者にもっと望みを託していた私には情けない感多し。

 7月14日  朝9時オウリーニョス発、クワタ移住組合の植民地(注・バストス移住地=当初はパウリスタ鉄道クワタ駅から入植した。)に向ふべく出発。濛々と立ちのぼる赫塵、ジリジリとギラツク太陽。顔も手もすっかり埃にまみれて実にひどい。途中、サルト・グランデの滝に一休みして昼食を喫す。
 アシスからパラグァスーに至る間、砂地に続く砂地、瘠せた地にひょろひょろのびた潅木と枯草のほか立木らしいものもない砂漠だ。道を訊ねるにも会う人もなく、住屋も見えぬ、実に淋しい処だ。日は落ちて車の明かりを頼りの、あやしい、いくつもの岐路を砂にめり込む自動車に注意しながら走る気持ちは、一寸形容できない。道に迷うてさまようこと3~40キロ。9時すぎ、やっとパラグァスーに出て泊まることにする。奥地にしてはやや開けた町だ。

 7月15日  ホテル・パウリスタに労を休めた昨夜は、洗面器の水が泥に化した程ひどい道だった。アメリカ廻りの連中の文化植民地の支配人・山田登幸氏に会う。挨拶位であっさり片づけてサペザールに向かう。割合にいい道だ。サペザールより有名なレトニア人(注・レトニア=バルト3国のラトビア)の集団地ヴァルパ植民地に向う。サペザール駅より35キロ。この辺、矢張り砂地の瘠せた地帯だ。
 第1次大戦後の1922年に宗教の自由と安住の地を求めてレトニアから移住した、バチスタ派信者による移民團によって建設されたヴァルパ(Varpa)植民地と、同地から4キロ離れたパルマ共同農場を訪問したときの強い印象を、日本人の植民地と比較して克明に記述している。

 「兼ねてから聞いていたヴァルパの共産村には、相当な興味もあったし、予備知識ももっていた心算だが、至る道はまず地味の貧弱さ、地形の悪さは不思議の感を起さしめた。
 土地、標高、駅よりの距離が植民者の第一要件だとの観念が頭に沁み込んでいる我々には無理もない。カポエイラ、山、砂地、小川…… 実に遠い。ようやく植民地に入れば、高床、急傾斜の屋根、あたりの森と調和よく映える壁の色は、パルミッタの土人小屋にいつまでも暮す人々に飽き々して来た私には異様な刺激と喜びを与えた。
 瀟洒な事務所のあたりには、植え込みもあり、花壇あり、訪れる者をして住む人の奥床しさを思わせる。北欧人特有の善良さと遅鈍な愛嬌を多分に持ったここの主人は、この植民地開拓以来の在住者で、相当の資産をなしているのだそうだ。パン、バタ、鶏卵等で新鮮な昼食をすませて植民地本部に向かう。市街地に於ける数戸のアルマゼンの堂々たる、其処に売られる什器、雑貨の高級さには驚かされる他ない。以って植民者の生活程度が覗われる。医者の家に立寄って植民地に関する大体の説明を聞く。
 ここより4 キロ、パルマにおける例の共産村を訪ねることにした。よく手入れの行き届いた庭の奥、木の間がくれに見ゆるバンガローを羨ましく眺めて砂地の道を急ぐ。岡の下に見ゆる一連の共同住宅は、まるで病院の観だ。青年倶楽部、食堂、製材所、砂糖しぼり等見学。午後の太陽のもと黙々と働く彼等、女、子供、大人の團を見ていると修道院の清浄さを思わさせられる。
 宗教の人生に与える深刻な底力が共同社会の貌をかりて太く、強く浮き出されているではないか。私の心も腸(はらわた)も、清く洗われて行く気がする。深い喜びが湧く、これこそ植民地に求めているものだ。移住の理想であらねばならぬ。
 私は宗教を云々したくない。外人を矢鱈に崇拝するのも嫌だ。併しこの落ち付いた気分と清らかな生活は、我々の学ぶべき第一問題ではなかろうか。
 3時パルマを辞してクワタ日本人移住組合に向かう。至る所、森中にレトニア式の人家の点在するあり。一体、何を作っているのか、何から収益があるのか、日本人地帯を見た目には不可解なほど微々たる仕事のやり口である。それであの住宅のあの生活。『働くを知って、生活するを知らぬ』邦人と較べて、苦笑が浮かぶ。
 クワタ植民地に来て、その仕事の大規模なのに驚かされた。震災当時を思わせるバラックの集団。堂々たる事務所と自動車庫、どの面をみても日本直輸入の表情がおどっている。みんな新しいのだ。事務所に荷を下ろしてやっと落ち付いた。」

 前年の1928 年に海外移住組合連合会の現地代行機関としてのブラジル拓殖組合(ブラ拓)によって開設され、同年6月に第1回移民が入植して始まったばかりのバストス移住地で、測量技師として働いていた親友の亀山文冶郎(後年の土曜会同人)に出会い、「お互いあんまり世知に長けたり、出世の出来る方じゃない」という会話を交わしたと述べている箇所では、一面後年の両氏を彷彿させるようで笑いを誘われる。
 ちなみに、開設当初のバストスから、亀山が河合宛に出した書簡が残っているが、第1回移民が入植した直後の6月28 日付では「この手紙が着く頃は冬休みだろう。ゴヤス行きか、ソロカバに来るか、それとも踏み止まって、甘い恋の悩みに思う存分浸るか…。20日ほど前、第 1回移民が来た。第2回移住者が明日か明後日着く。にぎやかにも、うるさい人々が勝手な期待、勝手な駄法螺の下に、働いたり遊んだりしている。」と、いかにも青年期らしい交友ぶりが覗えて面白い。
 「三重県の人もここの収容所に大分いる。今日は萩原村の人に会って、お兄さんの噂など聞いた。兄のことをよく言われるのは本当に嬉しい、私もしっかりしよう。」と記された7月16日付けでこの随行記は終わっている。


(注)バストス移住地の入植が始まった当時、出生届や死亡届、婚姻届など、すべてヴァルパの町で行なっており、パルマ共同農場も、製材所やその他建設資材の購入などで、バストス移住地の補給基地的役割を果たした。ヴァルパ植民地、パルマ共同農場とレトニア移民については、阿部五郎著・香山栄一編『レトニア移民の隆盛と衰退』と題した小冊子に詳しい。現在、パルマ村は同村出身の人たちによって、「この村の施設を永久文化財として残す運動を始めているそうである」と、同著で阿部氏は記している。 


 終わり

(たなか・しんじ サンパウロ人文科学研究所)


サンパウロ人文科学研究所 Centro de Estudos Nipo-Brasileiros