2008 年4月22日(火)の9時半に、ラーモス移住地に到着し、平和の塔建設に尽力された小川和己さんとお会いしました。ラーモス移住地はJAMICと日本政府の協定が1963年に成立、1964年に移住地が始まりました。クリチバーノス市の中にあるフレイ・ロジェリオが独立した結果、ラーモス移住地はフレイ・ロジェリオと呼ばれるようになりました。
平和の塔は小川さんの土地の敷地内で一番奥に位置しており、アスファルトの州道が去年できあがり、敷地内の一番奥に建設することにより、電気や道路など整備されました。公園は5ha、耕地は150haの大きさです。ラーモス移住地は約400人、20家族が住んでおり、現在は日本への出稼ぎが多いそうです。
この日は快晴で空がどこまでも青く、雲ひとつなく、汗ばむ陽気でした。平和の塔の前で、小川さんの話が始まりました。
小川さんは「1964 年4月9日にラーモスへ来られ、当時、大木が生い茂っていて、切り開くのは大変だったが、人に恵まれた」と感慨深そうに語られました。長崎では16歳の頃、学徒動員として約360人が工場で働き、8月9日原爆が投下され、学校は爆心地から900mしか離れておらず、120人以外は被爆死されたそうです。被爆者はがんで亡くなる人がほとんどだといいます。小川さんの弟さんも開拓中に53歳で亡くなられました。1968年、世界恒久平和を願い、長崎被爆の祈りとして平和の塔建設を決意されたそうです。平和の塔と公園の建設には州政府の協力を得、パラナ州長官の協力も得られました。宗教人種を越えて、平和の塔は40年越しに完成しました。1998年、平和の鐘が長崎から送られてきて、1999年には直訴状を政府に対して書かれ、州知事のOKを得られ、意義ある建立ができたそうです。2001年9月6日平和活動を尊重されるたくさんの長官がフロリアノポリスで行われた記念式典に参加されました。「祖国日本と移住した人々(祖先)があるから、今の私達がいるのです。ブラジルは資源が豊富だが、日本にはありません。アメリカに3年いた頃は、コロニアというのは存在しなかった。日本とブラジルの交流は必要です。ブラジル政府も平和公園に協力してくれたのだから」と、これからの移住地のあり方を強く訴えられました。
そして、この移住地の農業として、ネクタリーナ、リンゴ、にんにく、1980年代から日本梨に取り組まれているそうです。柿、すもも(アメイシャ)を栽培している十数家族もいます。日本梨の豊水は小川さんが持ち込まれ、2月ごろが収穫時期だそうです。
「この移住地の特色は日本の文化と共存しているところです。移住100年を迎え、日本舞踊、茶道など日本の文化を引き継いでもらいたい」と小川さんは締めくくりました。
小川さんとふるさと巡り参加者数名が平和の鐘をたたき、みんなで平和を祈りました。青い空に鐘が鳴り響き、とても神聖な気持ちになりました。
次に、先没者のお墓で法要を行うため向かっている途中に、パラナ松が至る所で見られました。パラナ松には雄の木と雌の木があり、雌の木はまっすぐ伸びて上の方に枝が張っていて、まっすぐに伸びているが普通の木のように上の方だけではなく枝が張っている方が雄の木だそうです。松ぼっくりは日本のものの20倍ぐらい大きく重いらしく、松の実は食べられ、銀杏のような食感です。
法要の後、ラーモス日伯文化協会で美味しい昼食をいただきました。
ここでも小川さんの貴重な話を聞かせていただき、パソコンで平和の大切さを考えさせるような当時の様子などの映像とインタビューがありました。その後、ラーモス日伯文化協会の方々によるカラオケが披露され、180haもあるリンゴ園へ行きました。
夕方、オーストリア移民の町、トレーゼ・チーリャスに到着しました。滞在するホテル・チロルで3歳ぐらいのオーストリア移民の可愛らしい女の子に出会いました。このホテルのオーナーのお孫さんでした。小さなホールで、オーナーたちによるオーストリアの伝統音楽、エーデルワイスなどの演奏を聴きました。とても明るい曲で、私達ふるさと巡り参加者もカウベルを持って演奏に参加しました。どのタイミングでカウベルを鳴らすのかオーナーが教えてくれ、みんなで歌いながら、音楽に興じました。しかし、オーストリア移民の方々も移民された当時は大変ご苦労されてブラジルに来られたとおっしゃっていました。戦時中の混乱の中で、オーストリアに住めなくなったようです。前日のドイツ、イタリア移民の方々の話も似たところがあり、日本移民も生活が苦しく移民してきたという方がいらっしゃり、移民とは何か、当時の人々がどう思い生きてこられたか、興味深く考えさせられました。
(連載おわり)