横尾悦子のツアー体験記(3)ドイツ移民の町フライブルゴとイタリア移民の町タンガラー
terça-feira, 24 de junho de 2008

4月21日(月)はチラデンテスの日で祝日です。6時、フライブルゴのホテル・ヘナールに到着しました。ヨーロッパ風建築の綺麗なホテルで、ちょうど朝日を見ることができ、すがすがしい気分になりました。ホテル周辺には、日本にも自生している朝顔やほうせんかが咲いていて、懐かしく感じました。

前日と同じく6時半に朝食を取り、着いた時、少し肌寒いと思っていたら、バスガイドさんにその時は摂氏10度だったと教えてもらいました。寒く感じるはずです。息が白かったし、サンパウロでは真冬がそのくらいですから。それから、8時半、タンガラーへ向け出発しました。

バスの中でバスガイドさんが、サン・ジョアキンのリンゴはフジという名称で平べったく小さく、果汁が多く甘く、山脈で南極の風が吹いて来るため年に100日間は5度以下で、リンゴの成育に最適だという話をしてくれました。日本でも青森や長野のような少し寒い地方が美味しいリンゴが採れるので、納得でき、南極から風が来るのかぁと驚きました。

タンガラーではブドウジュースやブドウ酒、vinho colonialが生産されています。観光のためダンスのように足でブドウを踏んでブドウ酒を作っていたが、清潔ではないため、今は、観光客に披露しなくなったそうです。ワインは古ければいいというわけじゃなくて、シンプルな作りで殺菌剤が入ってないワインが美味しいと聞きました。あまり長く置き過ぎると酢のようになってしまいます。なので、3,4ヶ月の間に飲むのが良いそうです。ブドウは一般的な果物栽培と違い、土地が悪く、寒い地域の方がよくできるようです。

タンガラーのガイドさんが以下のようなタンガラーの歴史の説明をしてくれました。

1910 年、タンガラーに駅ができ、1918年まで街は大きくなりました。昔はRio Bonitoという名前だったそうです。街の周囲に8kmの川があったからだろうということでした。1945年、リオ・デ・ジャネイロにRio Bonitoという同じ名前の町があったため、タンガラーに変更しなければならなくなったそうです。タンガラーとは暑い所でよく鳴きにぎやかで、群れで移動する鳥の名前です。イタリア人の特徴のようです。タンガラーの町は農業、紙やプラスチックのリサイクル、ブドウ生産などでまかなっているそうです。

イタリア移民の町とドイツ移民の町の見分け方はイタリア移民は生活のため野菜を植える人が多く、ドイツ移民は国の援助があったため花を植える人が多かったそうです。

10時45分、ワイン工場に到着し、ここは74年前からある老舗のワイン工場だということでした。その中には、5リットル樽が何百本と並べてあり、イタリア移民の町ということを実感しました。そして、ワイン工場を経営するご夫婦がタンガラーの町の歴史を説明してくれました。イタリア移民はRio Grande do SulからSanta Catarinaへ移って来たそうです。現在、600万リットルという最大のかめを持っているが、いつも満タンというわけではないようです。

お昼、イタリア移民との交流で、サンタルチアとパパロッカ(豚の皮)の歌を披露してくれました。ここでも歓待を受け、甘く煮込んだサツマイモ、マカロニ、サラダ、ミーリョ(コーン)のクリーム、焼き鶏肉などもてなされ、美味しくいただきました。タンガラーは、イタリア移民ばかりではなくドイツ移民も多く住んでいます。なぜかというと、イタリア移民はドイツ移民と結婚する人が多く、イタリア系が約75%、ドイツ系が約20%だそうです。真白い肌に金髪の可愛らしい女の子、男の子がダンスを披露してくれて、私たちも一緒に踊りました。

フライブルゴのホテルに戻り、ドイツ移民との交流会で夕食をいただき、ドイツのリンゴ踊りを披露してくれました。その後、パソコンとスクリーンを使って、フライブルゴの情報、ブラジル日本移民100 周年にちなんで笠戸丸の写真も紹介してくださり、感動しました。私はポルトガル語があまり話せないので、質問ができなかったのですが、他の参加者の方々は質問を多くされていました。やはり、ブラジルに移住してどのような生活をし、どんな問題を抱えているのか、など聞いてみたいのだろうと思いました。きっと、同じような苦労をしていて、同感できるところがあるのでしょう。ブラジルは移民国家であると感じ、ポルトガル語で話すことの重要性を痛感しました。


サンパウロ人文科学研究所 Centro de Estudos Nipo-Brasileiros