三浦 荒次郎
三浦 荒次郎(みうら・あらじろう)
quarta-feira, 08 de junho de 2011

 わが第一回移民入植のころ、ペトロポリスのわが公使館に、一等通訳官として勤務していた三浦荒次郎氏は、水野龍氏の介添役となって、サンパウロ州当局と移民配耕の交渉に当り、入植後の移民の不満爆発に際しては、幾度か公使館から、サンパウロの耕地に駈けつけて、慰撫これつとめ、真に並々ならぬ、労苦を重ねた人で、わが移民五十年史中にどうしてもその名をつらねばならぬ恩人の一人である。

 文久元年(1861)8月25日、南部藩(岩手県)の士族として生れた。明治19年(1886)2月、農商務省の七等属となり、官林実況視察のため、静岡、長野、岐阜、大阪、高知、和歌山、宮崎、鹿児島の諸県を廻らされた。交通不便の頃で、これだけの各県を廻るのは、並大抵の苦労ではなかった。

 翌明治20年(1887)6月、外務属に任じられ、明治23年(1890)4月、スペインに留学を命じられると共に、本官を免じられた。3ヶ年半の留学を終えて、明治26年(1893)11月、帰朝と同時に再び外務属となり、通商局一課に勤務。同27年(1894)には翻訳官補となり、28年(1895)11月には通商局第一課長に任じられた。翌29年(1896)9月にはマニラ、32年(1899)4月にはメキシコ、33年(1900)10月にはスペインに勤務し、34年(1901)9月には、公使館一等通訳官になった。明治38年(1905)8月1日付で、ブラジル公使館勤務となったのである。

 わが移民のブラジル移入を企画していた水野龍氏は、明治38年(1905)12月、東京を発し、東洋汽船南米西海岸航路第一船、グレンファーグ号で、ペルーに渡り、チリー、アルゼンチンを経て、ブラジルに入国したのが、明治39年(1906)3月27日であった。水野氏はこの時、船中でチリーを目指している一青年に会い、これを説いてブラジルに同伴したが、この青年が鈴木貞次郎氏であった。

 ブラジルに着いた水野氏は、早速駐伯公使の杉村濬氏を訪ねて、お説に従って日本移民の移入を始めるつもりで、遥々ブラジルに来たのだから、力を貸して戴きたいと頼み込んだ。杉村公使は大いに喜んで出来るだけのことはしよう、力を貸そう、まず三浦通訳官を連れてサンパウロに行き給え、三浦君もまた日本移民の誘入に力瘤をいれているからとて、三浦氏を水野氏に紹介した。

 水野氏は三浦通訳官を同道して、4月15日、ペトロポリスを出発し、翌16日サンパウロに到着。早速同州の移民植民会社々長のベント・ブエノ氏を訪問した。同氏はサンパウロ州の前内務長官で、サンパウロの有力者であった。三浦氏は水野氏の介添役となって、同氏との折衝に当り、大体話をまとめ、その結果水野氏もサンパウロに於ける新植民法の設定を待つことになり、7月には諸準備のため、一旦日本に帰る予定でいた矢先、5月19日に、水野氏が杖とも柱ともたのんだ杉村公使が急性脳溢血で、不帰の客となってしまった。後任の内田定槌公使が着任する明治40年(1907)3月まで、三浦氏は臨時代理公使をつとめた。

 水野氏が皇国植民会社を明治41年(1908)創設し、笠戸丸をチャーターして、ブラジルに運んだ第一回移民は、733名(家族数165)で、サントスに着いたのは、6月18日であった。これ等移民の中、大工とか洋服職等の独身者9名が、サンパウロで就職した外は、ヅモント、フロレスタ、カナーン、サン・マルチーニョ、グヮタパラ、ソブラードの6耕地に配耕された。

 三浦通訳官は、7月6日、宿泊所を出る最後の移民たちと共に、サンパウロ市を出発し、上塚周平氏及び州の農事監督1名を伴って、関係6耕地を見て歩いた。ヅモント耕地では、配耕早々から、移民側に不満のあるのが認められた。移民の宿泊所に与えられた長屋は、土間に枯草を薄く敷いてあるだけであったので、移民達は、「俺達は馬ではない、馬並の扱いはひどい」といって不平たらだらであった。

 翌朝、加藤順之助通訳が、耕地監督同伴で、仕事の協議にコロニア(契約者住宅)を巡った時、熊本県人の青年の一人が、その枯草の上に這ってヒヒーンと嘶(いなな)き、跳ね廻って馬の真似をしたので、皆はドッと笑った…という挿話がある位であった。この耕地の移民達は6月29日に入耕し、7月5日まで、家屋の振分けや寝台造り等を終え、翌6日から愈々珈琲の実の採集を始めたが、1日かかって1家族3人で、4キロから5キロ位しか取れなかった。50キロが1俵(50リットル)で、1俵採取して賃金は50レイス、1人で1日4,5俵は、採取出来る勘定だったのに、それが2人がかりで、1俵にも足りないようでは、全くお話にならない。当時のヅモント耕地の物価は、白米が1俵(60キロ入)19ミルレイス、麦粉が1俵13ミル9百レイス、豆が1俵16ミルレイスに比較する時、到底生活不可能という結論になるわけであった。

 3日目の夕方、三浦通訳官と上塚代理人とが、加藤通訳の案内で、珈琲園に顔を出したところ、移民達の不平は、忽ち3人に向って爆発した。よって三浦氏は耕主側に斡旋これつとめ、その翌日は今までよりは、やや結実の多い畑にまわしてくれたが、それでも一家3人で1俵半位の採取高にすぎなかった。三浦氏と上塚氏は、移民達をまあまあとなだめて、サン・マルチーニョ耕地に向った。

 三浦、上塚両氏が同耕地を見て歩いたところ、移民の不満は何処も同様、みじめなものであった。

 ヅモント耕地の不満は、その後激しくなるばかりで、8月1日、耕地側の通知で、上塚氏が再び同耕地に赴き、7日間にわたって慰撫につとめたが、効果がなく、上塚氏は悲痛な面持ちで、サンパウロ市に帰った。

 8月23日に同耕地から、移民が騒いでおさまらないとの急報がついた。一旦、公使館に帰っていた三浦氏は、ペトロポリスからまたまたサンパウロに駈けつけ、水野、上塚、宮崎(信造)の3氏を同道して、現場に急行した。しかし、現地の事情は、最早入耕移民全部を、引揚げさせる以外には、方法がない程切迫していた。移民達は、何ぼ働いても働いても、生活費すら稼ぐことが出来なかった。彼等は移民会社とその一統を恨んでおり、水野、上塚氏等がついてみると、彼等は竹槍、鍬、鎌などをもってこれを迎えた。これに対する上塚周平氏の説得は実に悲愴を極めたといわれている。かくて一行は州政府当局と協議の結果、移民の全部210人を、サンパウロ市の移民宿泊所まで引揚げさせた。ところが一難去ってまた一難で、9月4日に至って、州の農務長官からの電報で、サン・マルチーニョ耕地にストライキが勃発し、形勢不穏だから、警察隊を派遣することになるかもわからぬといって来た。三浦通訳官は、またまた水野氏等と現場に急行し、耕主の要求で首謀者及び不穏強硬移民20余名を退耕せしめてことを収めた。以上のように各地に勃発した移民の不平は、大体次のような原因から生じたものである。

1. 珈琲の結実が少なかった。採取労働は不慣れで、収入高が予想の4分の1にも達しない。生活の不安、一日一日と負債のかさむ不安、このままでは渡航支度金の高利のはらいも出来る見込みがないこと。
2. 労働の過重と、料理方法の無知から、栄養の欠調、ひいては病人の続出となったこと(朝と昼は伯国米と日本式に炊いて干塩魚一片を焼いて湯漬ですませ、夕飯は、麦粉団子の塩汁に豚油を一匙溶かした副食物。蔬菜類の不足に加えて、炎天下で汗みどろになるので、体が衰弱するばかりであった。家族中がいらいらして神経衰弱になってしまう)。
3. 生活環境の変化、言語の不通、通訳自身の伯語すら、怪しいもので、意思の疎通が十分でなかったこと。

    夕ざれや樹かげに泣いて珈琲もぎ
とは、上塚氏(俳号瓢骨)がよんだ当時の移民の実相であった。

 楽隊で迎えられた日本移民が、嘲笑裡に聖市に引上げると上塚氏の如き、幾度か水野社長へ「其責に堪え申さず」と辞職の手紙を出した。そんな場合、三浦氏は上塚氏に「君、移民がガアガア騒ぐ、気がくしゃくしゃする、そんな時は、二、三日雲隠れしなさい。大波のよけ方を知らなくちゃ、世の中をうまく泳ぎ通せませんョ」と話していたそうである。

 以上述べたように、初期移民を迎えての三浦通訳官の奔走は、大変なもので、然も当時は、サンパウロ市にまだ総領事館もなく、ことある毎にリオの公使館から駈けつけねばならなかったから、万事につけて負担が大きかった。

 三浦氏は、明治41年(1908)9月15日、賜暇帰朝の許可を得、同12月ブラジルを出発して帰朝の途についた。翌年7月には、再びスペイン在勤を命じられた。大正10年(1921)3月30日付で、高等官二等、総領事に任じられて、サンパウロ在勤を命じられたが、これは同氏の長年の功労に対する最後のはなむけで、翌31日附で願により本官を免じられて、外務省を去った。

(附記)
 三浦氏のその後や、逝去の年月日などが詳らかでありません。まことに残念であります。 筆者


サンパウロ人文科学研究所 Centro de Estudos Nipo-Brasileiros