三浦 鑿
三浦 鑿(みうら・さく)
quinta-feira, 07 de julho de 2011

 三浦鑿氏は、我がコロニアの言論界における特異な存在であった。彼は過去を語らず、従って彼の生国や前身については、何人も真実を知らない。かつて彼の口から英語の教師をしたこと、義太夫が好きでその前座をつとめて田舎巡業をしたこと等々断片的に何かの機会に聞いたことがあるが、これとて確証の限りではない。この点まことにミステリオーゾ(謎めいた)である。上海あたりに居たこともあるとのことだし、またある時は海賊の一団に加わって南洋の無人島へ海鳥の羽毛をあさりに出掛けたところ、どうした経緯か知らないが、たまたまブラジルの軍艦「ベンジャミン・コンスタン」号に救助されて日本へ帰ったなどの噂も流れていた。要するに三浦の前身は、怪奇な伝説である。

 蓋し前記「ベンジャミン・コンスタン」号が、明治41年(1908)世界周航の途次、日本に立ち寄ったが、その復航に際し、三浦氏がこれに便乗し、ブラジルへ来たことは確かな様である。着伯は明治42年(1909)に入ってからだともいう。とにかく変り種であった。彼は柔道を身につけていて、リオに於ける海軍兵学校の教官をしていたと伝えられている。後年、三浦氏が筆禍の故を以て、国外追放の難に遭った際、往時三浦氏から柔道を教わったという大佐級の軍人が連名で、助命運動をしたところなどを見ると、相当の歳月、教官であったろうし、恐らく人気もあったであろう。

 彼がサンパウロ州の人となったのは、大正5年(1916)頃ではなかったかと思う。別にこれと云う職業を持たなかったが、さりとて人に迷惑をかけたわけではない。三浦氏が社会人として漸く認められ、水準高く浮び出したのは、新聞人となってからのことで、それは1919年(大8)当時金子保三郎の経営していた「日伯新聞」(1916年【大5】8月創設)を買収、継承してからである。

 三浦氏は侠気もあり、頭脳明徹、且つ個性強く、何事にまれ直ちに結論の出せる俊敏さを持つ、鋭い新聞人であった。

 1917年(大6)、移民会社の機関新聞「伯剌西爾(ブラジル)時報」が発刊され、主幹は黒石清作氏であったが、三浦氏とは性格が全く相反していたのみならず、一つは移民会社の御用紙であったため、自然「日伯」は野党的立場を取ることとなり、華々しく相対峙した。その対陣ぶりは、当時の在伯同胞に多大な興味を投げかけ、黒石氏が社説に修身講和めいたものを掲げると、三浦氏は「へなぶり」一句を以てこれに応酬するという工合であった。その後サンパウロ市に幾つもの邦字新聞が出来るまで、この二新聞ほど、分野の判然せるはなく、またこの時代ほど言論界に油の乗ったことはなかった。次に氏の筆になる「日伯漫談」を摘録して見よう。

        「日 伯 漫 談」

 「コチアの産業組合では、年に(ママ)種芋を外国から取寄せていますなあ、芋でも大根でも、新しい種をブラジルへ持って来て植えますと、大抵は2、3年で退化します。人間がまたその通りで、外国種は図体ばかりは大きくなりますが、どうも親芋のやうな、風味もなければ味もねぇてな訳で、何とかして、一つ親芋ほどの味を出させてぇものだと、皆苦心してる訳です。

 ポルトゲースだのエスパニョールだのと、親芋自体が余りドッとした味をもってねぇものですと、土地の肥沃なブラジルに持って来て植えりゃ、親芋よりいいものが出来まさぁ。ブラジル人とポルトガル人とを比べたら、そりゃブラジル人の方が遥かに気が利いていますし、殊にパウリスターノなどと来たら、進取の気象に富んでまして、ポルトゲースなど足元にもより付けませんや。ところが日本人だの独逸人だのと特別な持ち味のある国民を此国へもって来て植えますと、矢張りお芋の場合と同じで、最初の2,3代は退化をしますなぁ、何だってかんだって手入れをしないで良くなる気づかいはごわせんが、ブラジルではこの人間に手入れをする機関が不完全でしてねぇ…」


 大正末期より昭和にかけ、在伯同胞の増加と、邦人社会の財的発展も飛躍したので、従って二新聞の基礎も固まり、紙面は上品穏健となった。然るに間もなくバウルーの地方紙「聖州新報」のサンパウロ市進出、並びに「南米週報」、「日本新聞」等が新たに発刊されると、勢の趣くところ各新聞の競争となり、自然その主張より経済的な面に走るを余儀なくされ、紙面は全く商品化し、批判指導など到底思いもよらぬ状態となった。併し、かかるうちにあっても、流石三浦氏の「日伯」のみは、その特徴を失わず、節操を一貫し読者層は確立して行った。

 1927年(昭2)、南米拓植株式会社が、パラー州アカラ植民地外百万町歩(Ha)のコンセッソン(土地選定権)を獲得し、植民地の開発に着手すると、国威発揚的幻想に囚われた無謀なる計画なりとして、日伯新聞は徹底的に反対の論調を執った。同年9月三浦社長自ら、単身トカンチンス河を下って、ベレン市に出て、アマゾン流域を踏査し、翌年3月帰聖してアマゾン進出尚早の意見を、当時氏が通信員だった、大阪朝日新聞に送った。これがブラジルの操觚界に三浦ありと、日本の朝野に認識させたのである。1934年(昭9)、林大使がアマゾン視察旅行中日本人移民2分(2%)制限案が連邦議会を通過したので、職務怠慢なりとてこれを痛罵するなど、新聞人として是々非々を一貫して、金権・暴力に屈せぬ土佐っ児の意地っ張り性格を、その明徹・果敢な筆陣を通して裏付けたのである。

 1927年(昭2)、赤松総領事時代、聖市総領事館に勧業部が設けられた。コチアのバタタ生産者間に、倉庫建設が要望されていたので、三浦氏はその斡旋の労をとり、同年12月20日、現在のコチア産業組合結成の産婆役を勤めるなど、大乗的見地より、是と認めた事業には、進んで仲介の労をとる侠気を有する人であった。

 新聞といっても、結局人間が作るのだから、社内の陣容如何が成敗を決することとなる。三浦は小男であったが、繊細な神経の割合に、肚が大きく、しかも自分は節約した最低生活にあまんじながら、社員のお台所には常に心を用いるという親切さを持っていた。さればこそ、営業部には竹内秀一、蛭田徳弥の如きが永年本陣を堅く護り、編集には野村忠三郎、木村義臣、など、押しも押されぬ一流どころが筆陣を張った。全盛期の日刊「日伯新聞」は1時間の印刷能力1万5千の輪転機を所有し、社員は営業部を併せ、内外人3百を下らず、読者1万7千、当時海外に於ける邦字紙としては、断然優位の内容を持っていた。

 ところが好事魔多しで、信ずる所を人もなげに書きまくる三浦の態度と存在を、快よしとしない者、或は邪魔ものとする一味が現われ、それ等が一種の悪気流をかもし出し、遂に昭和14年(1939)7月25日に於ける三浦鑿国外追放事件に発展した。三浦氏は已むなく30余年住みなれた、ブラジルを立ちのき、最初イタリアに向い、暫く欧州に滞在の後、印度を経て確か昭和15年(1940)の暮日本へ着いたと記憶する。時を得て再び妻子を残して来た、ブラジルへ帰るのを唯一つの楽しみとし、辛抱強く淋しい生活に堪えていた。東京に三浦氏の知人は多いのだが、尾羽打ち枯らしては顧みるものもなかった。

 事態は急転し、昭和16年(1941)12月日本のあの真珠湾攻撃となり、戦時中、彼は憲兵隊に睨まれて牢獄につながれ、昭和20年(1945)戦争は済んだが、極度の栄養失調が原因して危篤に陥り、知人永田稠氏に引き取られ、1945年10月26日、その波瀾多かりし地上の生涯を閉じた。

 その遺稿が1949年3月より、パウリスタ新聞に発表され、戦後の虚脱、萎縮したコロニアに一抹清涼の気を注入し、三浦日伯ブラジルに在りせばの感を新たにした。

      三浦氏遺稿(括弧内は執筆日)

 日本は、いつも米国の物量を計算するのに、日本の尺度を以てするから誤算ばかりしている。恰も、貧乏人が金持の台所の胸算用をする様なものだ。考えが総てケチだから、敵の物量の威力がハッキリ呑みこめない。米国はたとえこの戦争が長期戦になっても、少なくとも物量の上から見通しをつけるからよいが、日本は見通しが付かない。まあやれる所までやって見ろと言った風だ。日支事変ですらが出鱈目で、始め地方的解決、何時の間にかズルズルベッタリ全面的に拡がってしまった。日独伊三国同盟も、日本は決して主動的でなく、引きずり込まれたことは明らかである。   (1944-4-10)

 日本にはまだ本当の意味の教育と言うものはない。明治以来の学校教育は、単に欧米の型だけを真似たもので、内容は、単なる詰込みと棒暗記、それを立身出世と就職の道具に使っただけで、人間そのものを作ることは少しもやっていない。従って、学校教育は社会教育にかかると容易に還元する。あいつは少くとも国民学校を出ている、悪くすると中学、女学校を出ている、いや高等学校・大学を出て居るという手合が、スッカリ還元して、元の愚民になり訳のわからぬ人間となっているのを見受ける。所謂酒の酢戻りというやつだ。                             (1944-5-1)


サンパウロ人文科学研究所 Centro de Estudos Nipo-Brasileiros