ブラジルにおける日系農業史研究:「ブラジルのジュート栽培―日本人のはたした役割―」(2)
中野順夫(ブラジル農業研究者)
sexta-feira, 29 de julho de 2016

<< 1 長繊維ジュートをえるまでの経緯

2 アマゾンジュートの産業化

2-1 最初の量産で新聞が激賞
 既述のとおり、尾山良太と中内義正は、1937 年 1 月から 3 月にかけて、商業生産目的の播種をおこなう。同年 3 月から 6 月にかけて収穫したジュートはすべて、長さ 3 メートルをこえる長繊維だった。尾山の収穫量は約 6 トン、中内は約 3 トン。Ciasa はこれをベレン市のマルチン・ジョルジェ商会へ売り渡す。
 この販売交渉はかんたんでなかった。Ciasa はジュート生産をめざしたにもかかわらず、大口需用者であるサン・パウロ州の製麻会社とは、まったく接触がなかったからである。1937 年 3 月に収穫がはじまったとき、ようやく販売問題に気がつきあわてた。まず、リオの商人に打診したところ、「アマゾンでジュートを栽培できるわけがない、ウアイシマのまちがいだろう」といい相手にしない。つぎに、サン・パウロの商人は、同じく半信半疑ながらも、「ウアイシマと同じ値段ならひきとってもよい」と回答。
 ウアイシマと同じ値段で売るなら、長繊維ジュートを栽培した意味がない。そこで、ベレンの相場を調べることにした。在ベレン日本帝国総領事館勧業部には、拓務省派遣の駐在官として長尾武雄が勤務していた。長尾あてにジュート見本を送って調査を依頼。長尾はマルチン・ジョルジェ商会 (Cia. Martin Jorge) と交渉した[注 14]。キロあたりの価格 1.7 ミル・レイスで商談が成立。会社側はとりあえず梱包をおえていた分 (2,770 kg) を、4 月 24 日に発送した。現物を受領したマルチン・ジョルジェ社長は、品質のすばらしさにおどろき、自発的に価格を 2 ミル・レイスへひきあげた。この価格であれば、生産農家は「かなりもうかる」勘定になる[注 15]。
 残りのジュート (6,171 kg) は、同年 7 月 7 日に発送。合計 8,941 kg となる。長繊維ジュートを、マルチン・ジョルジェ商会がどこへ転売したのかは不明。おそらく、サン・パウロ州の製麻工場と推測されるが、記録はみあたらない。また、ベレン市でもサン・パウロの製麻工業界でも、まったく話題にのぼらなかった。
 ところが、1938 年の収穫期になって注目しはじめた。「アマゾンジュート」について、リオ・デ・ジャネイロ市の新聞がとりあげたからである。同年の収穫は 2 月末にはじまった。尾山良太と中内義正だけでなく、実業練習生もジュート栽培に従事。Ciasa 営業部が、ベレン(マルチン・ジョルジェ商会)向けに最初の船積みをしたのは 1938 年 3 月末で、数量は 3 トン。4 月 27 日の第 2 回船積みは 6 トン。その後、毎回数トンずつ送付した。4 月末から 5 月前半にかけて、販売量がどんどん増えたため、ようやく話題となったわけである。
 これより 2 年前、1936 年 5 月から 6 月にかけて、首府の主要新聞は、上塚司の土地コンセッション契約失効問題[注 16]につき、日本人を痛烈に批判した。それを忘れたかのように、このたび、ジュート栽培の成功を知るやそろって賞賛。農務省に対しても、「ジュート関係の法令整備」を督促するような論調だった。
 その豹変ぶりはともかくとして、ジュート栽培成功の報道と日本人を畏敬する筆致が、一般国民にも好影響を与えたことはまちがいない。アマゾン地方のみならず、ブラジル在住の日本人全体が畏敬の目で見られるようになった。「笠戸丸」以来 30 年、日本人がこれほど高く評価され、首府の有力紙により称揚されたのは初めてのことである。
 といっても、現地でジュート栽培に従事した日本人はわずか 30 戸にすぎず[注 17]、ほめすぎという感じがしないでもない。それでも、リオの政治家と知識人階級が、「日本人はアマゾンですばらしい事業をやっている」と認識した。しかし、サン・パウロ市ではさほどの話題とならず、日本人のあいだで知る者は少なかった。
 日本人社会の評価はどうあろうと、ジュート生産にもっとも強い関心をよせたのはパラ州政府だった。アマゾナス州で栽培できるなら、パラ州でもできないはずはない。1938 年になってジュートの導入を検討しはじめたが、5 月下旬の新聞報道に刺激され構想の具体化を急ぐことにした(この件については「 2-4 パラ州におけるジュート栽培」参照)。まず、アマゾナス州におけるジュート栽培の普及を考察してみよう。
[注 14] (11 p.) マルチン・ジョルジェ商会との取引経緯について、長尾武雄は後年、「高拓会々報」に寄稿しつぎのように記述。
 ‥‥‥ベレン市のマルチン・ジョルジ製麻会社にマルチン社長を訪ね、見本を示し黄麻生産までの経過を説明して取引を要請した。繊維の長さは四メートルに余り光沢、強度についても、あまりにも申分のない黄麻にマルチン氏も驚き、かつ九トン全部もこの見本と同様かとくどくど念をおす始末。品質は保証する、万一見本と違った場合は、俺が責任をとる。なお、ビラ・アマゾニアから買うことは距離的にもインドの輸入品をリオやサントスから買入れるよりは経済的にも利益であろうとの説得が利いたが、それではベレン渡しキロ当り一、七ミルレースで買い入れるという。早速、事業地へ打電したら直ちに納入された。私の言の如く見本と全く違わぬことにマルチン氏も感歎したのであろう。自発的に二ミルレースに値上げしてくれ、以来取引きは順調化し、一方アマゾン黄麻の名声は急激な勢いで国内に宣伝されたこととてリオおよびサンパウロ方面からの取引きも急上昇した。併せて値段もまた上がり生産者側は笑いが止まらず、地方需要者側も外国からの輸入手続きの面倒さからも解放され、国内産業の改善に日本人開拓者の偉大なる貢献が確立されたのであった‥‥‥[長尾武雄「コロニアの虚像と実像 ― ジュッタ育生の真相」、高拓会々報第 45 号( 1976 年 4 月 10 日発行)所載]。

[注 15] (11 p.) 長繊維ジュートの販売価格と生産費について、高島義雄が報告書を作成。原本は現存しないが、拓務省拓南局発行「アマゾン流域に於ける黄麻産業」(111 - 112 p.) に収録されている。報告書には、尾山良太および中内義正による収支計算書も添付されており、それによると、ヘクタールあたりの収入は 2,000 ミル・レイス(乾燥繊維収量 2 トン、1 kg あたりの販売価格を 1 ミル・レイスとする)。支出は 1,065 ミル 666.6 レイス。差引純益 934 ミル 333.3 レイス。そして、つぎのように述べ報告書をしめくくる。
 ‥‥‥従って支出を多く見積り、収入を少なく見積っても若干の純利益を見られる勘定になり、之に開墾費六〇〇ミル〇〇〇レースを加算するも尚第一年目に於て損失とならず、第二年目よりは純収益を見られるに至るから、更に本品種の特性に合致せしむる様に播種の適期、栽植距離等の栽培技術を研究し、採纖法を改善し、所要労力の節減をはかり、纖維の品質を向上せしめ、テーラ・フイルメ用品種を作出して大量生産の策を講ずる一方、販売条件を有利ならしむるならば将来極めて有望な作物となるであらう。尚研究所中央試験圃及尾山氏に於ては引続き既に之等の研究に着手した。茲に尾山、中内両氏の功績を伝へると共に直接指導の任に当られた木野技師の労を称へ、以て日本内地先輩識者諸賢の御參考の資となし、凡ゆる意味に於ける御援助を衷心求めて止まぬ次第である‥‥‥[高島義雄報告書「ジュート(黄麻)新品種の採種栽培経過報告」、Ciasa、アマゾナス州パリンチンス市、1936 年 5 月、拓務省拓南局「アマゾン流域に於ける黄麻産業」(113 - 114 p.) 所載]。

[注 16] (11 p.) 「山西・粟津コンセッション契約」は、1927 年 3 月 11 日に成立したが、絶対条件である拓植会社の設立は 1936 年 1 月 5 日にずれこんだ。これを理由に、「契約は失効した」との意見がでる。1935 年 9 月 23 日、日本側でようやく投資会社が設立されたことをうけ、アマゾナス州政府は「州有地 100 万ヘクタールの無償譲渡」を州議会に諮り承認をえた( 1935 年 12 月 21 日)。これを知った政治家のうち、「アンチ・ジャパン派」がうごきだす。なかでも、アマゾナス州選出の上院議員レオポルド・ ダ・クーニャ・メーロ (Leopoldo T. da Cunha Mello) が積極的だった。1934 年の改正憲法第 130 条を理由に、「上院の許可が必要である」と、アルヴァロ・ボテーリョ・マイア知事(この役職名は 1937 年 11 月より「執政官」と改称)に手続きをうながした。憲法には、「面積 1 万ヘクタールをこえる土地コンセッションは、1 件ごとに上院の事前認可をえなければならない」と規定されている。申請するのは Ciasa 。マイア知事(この役職名は 1937 年 11 月より「執政官」と改称)の指示により、会社はこの手続きをおこなった( 1936 年 3 月 19 日に申請書提出)。上院憲法司法委員会 (Comissão de Constituição e Justiça)における審議がはじまる前、クーニャ議員はリオ・デ・ジャネイロ市の主要日刊紙を扇動。4 月から 5 月にかけて「契約は失効した、日本人に土地の無償譲渡をしてはならない」との論説を書かせる。さらに、上院議員仲間やリオ在住の知識人にも反対意見を投書させ、「黄禍論」を復活させた。1923 年から 1926 年にかけて、ブラジル下院で日本人排斥を目的とする「レイス法案」が審議されたとき、排斥案賛成派が議会演説および新聞寄稿で「黄色人種との混血はブラジル人の資質を低下させ将来に禍根を残す」と論じたが、同じことをアマゾニア産業株式会社攻撃材料に使った。なかでも、「オ・コメルシオ紙」 (Jornal “O Comércio”) の黄禍論連載は執拗だった。あわてた Ciasa 側が契約の正当性を主張し、新聞で反論したのは 5 月にはいってからである。著名な法学者 3 人が「合憲」との判断を新聞紙上で発表したため、リオの論壇で賛否両論がうずまく。その間に、本件は憲法司法委員会から国権調整委員会 (Comissão de Defesa Nacional) へ回付された。8 月初めに国防委員会 (Comissão da Coordenação de Poderes) で審議したころには形勢が逆転し、会社側に有利な方向へ変わった。Ciasa 側では「どうやら認可されそうだ」との期待を強める。
 それにもかかわらず、最終段階でどんでん返しをくらう。クーニャ議員による「手品のような裏技」が奏功したからだった。8 月 24 日招集の上院本会議で、メデイロス議長の独断裁決により「契約失効」が決定。ここでいう「手品のタネ」は、上院審議とは直接関係のない、ブラジル陸軍参謀総長(ゴエス大将)のメモ書きである。「パリンチンス周辺の土地 100 万ヘクタールを日本人に無償譲渡する件を、もし上院が認可するようなことになれば、陸軍として国防の責任をもてない」という意味のことが書かれていた。参謀総長のサインもある。クーニャ議員は「 25 分間の休憩」を要請。休憩時間中に、このメモをメデイロス議長へ提示した。議長は「軍が責任をもてない案件の審議は無意味」と判断。「権限調整委員会は斯く問題を考究し確定所有地券を伴ふ譲与土地面積及賦与せる廣大なる恩典に関する契約は国家の利益に添はざるものと認め、事件の認識を得て上院は認可申請を拒否すべきものとの決議をなす」と宣言し閉会した。なお、後日判明したところによると、上記の「参謀総長メモ」は偽造文書だった。クーニャ議員が参謀本部の一中佐に依頼して作成。ゴエス総長のサインに似せて書き入れたもの。なお、「票決の結果 18 対 13 で否決された」と説明するむきもあるが、まったくのあやまり。開会の冒頭別の緊急動議が提出され、これを採択するかどうかの票決である。上塚コンセッションの可否に関する票決はおこなわれず、上記のとおり、議長裁定により Ciasa の申請が却下された。これら上院の審議経過については、上塚司がアマゾニア産業株式会社本社の大志摩孫四郎取締役(上塚社長がブラジル出張で不在中の社長代行)へ送付した経過報告書「コンセッション問題の経過に就て」(第一号~第九号、国立神戸大学経済経営研究所附属図書室所蔵)にくわしく説明されている。

[注 17] (12 p.) 1938 年度にジュートを栽培した家族移住者は、尾山良太、中内義正、吉井大吉の 3 家族。実業練習生は、中島敏三(第 1 回実業練習生)、星原貞治(第 2 回実業練習生)、芹沢正芳、新保宗雄、土師郁郎、尾崎章、黒川均、青木正司、鈴木五郎、原田行郎、佐々木一哲、池上欣二、石原義雄、石原義人、小海半治、小谷祐次、谷正一(以上、第 3 回実業練習生)、藤島正徳、薬師神光雄、山崎太郎、石黒粂吉、宮地茂、平石定吉、戸口恒治、中井憲明、原莊太呂(以上、第 4 回実業練習生)。ほかに、本間武四郎(第 3 回実業練習生)が尾山良太と共同でジュート栽培をするはずだった。ところが、中島敏三(ジュート栽培は未経験)の要請をうけ技術指導にでかける。本間をくわえると、実業練習生は 27 人。上記の家族移住者と合わせ、Ciasa 管轄下で 1938 年度収穫のジュート栽培に従事した総数は 30 戸になる。


2-2 ヴァルゼアへ移動する生産者
 最初のジュート販売で、9 トン近い長繊維が高値で取引されたことは、1937 年 5 月末にヴィラ・アマゾニアおよびアンディラー模範植民地へ伝わった。「尾山と中内がジュートでもうけた」と知るや、それまでジュートに見向きもしなかった人たちのなかから、関心を示す者があらわれた。実業練習生のうち、最初から上塚司のジュート論信奉者は、すぐにヴァルゼアへの移動を検討しはじめる。しかし、「ジュートでアマゾンの経済開発を」と考えたのは、わずか数家族にすぎない。それよりも、打算的な者が多かった。アマゾン開拓のロマンはどうでもよいが、「カネをもうけて一旗揚げる」という考えの若者は、上塚が思っていたよりも多い。というよりは、1937 年当時、アンディラー模範植民地に残った実業練習生の 7 割までは、開拓事業そのものに意義を認めていなかったと見られる。
 同年後半から翌年 1 月にかけてジュート栽培用地を探し求め、あらたなグループがヴァルゼアへ移転した。彼らはパリンチンス付近からマデイラ河口付近にまでちらばった。それぞれが選定した土地は、Ciasa が州政府から、ジュート栽培地として無償譲渡をうけた(アンディラー模範植民地をふくめ 1 万ヘクタールまではコンセッション契約により譲渡申請の権利がある)。もちろん、わずかながら地主と交渉し購入した土地もある。いずれにせよ、用意した土地をジュート栽培者へ賃貸した。実業練習生の一部は賃貸契約に不満だったようで、無料使用を要求した。だが、会社もまた営利企業のひとつである。土地をタダで貸すことはできない。ただし、賃貸料を低く設定したので、栽培農家の負担は小さかった。それでも、初年度だけは再生林の伐開費用がかかり、各農家の資金繰りはかなりきびしかったようである[注 18]。
 資金繰りの問題はあっても、1938 年度収穫のジュートが前年よりも高値で販売できたことから、関心を示す者が増大。同年後半、あらたに 21 戸がテーラ・フィルメ( Terra firme 、アマゾンの方言で雨期の水位上昇でも冠水しない高みの土地)における作物栽培を放棄し、ヴァルゼアへ移動した。マウエス植民地在住者も、6 戸がジュート栽培に転向。これに刺激され、翌年はさらに十数戸がジュートを手がける。そのため、Ciasa ジュート部の東久一職員(第 2 回実業練習生)が技術指導をおこなった[注 19]。
 ところで、長繊維ジュート個体の発見者である尾山良太は、ほかの農家よりもスタートが早かったため、1939 年にはすでに 15 ヘクタール規模のジュート栽培をおこなっていた。さらに、50 ヘクタール、100 ヘクタールと拡張していく考えだったが、みずから栽培するよりは、アヴィアドール[注 20]として、ほかの農家に栽培させるほうがもうかることに気がつく。この考えをもたらしたのは本間武四郎(第 3 回実業練習生)だった。これに乗った尾山は、「 1000 ヘクタール規模のジュート栽培」を企図するが、実現できずに終わる[注 21]。
 これまでの説明からわかるとおり、アマゾンにおける長繊維ジュートの栽培は、アマゾニア産業研究所の試験研究にもとづき、Ciasa によって商業目的の生産が実現された。もちろん、尾山良太が長繊維を生産する異常個体を発見したからこそ、経済生産が具体化されたことはいうまでもない。ともあれ、アマゾンジュートが産業化にむかい普及されていく。
 最初の生産活動は、Ciasa 傘下の日本人によっておこなわれ、つづいてマウエス植民地の日本人も参加した。1941 年収穫のジュート栽培には、ヴィラ・アマゾニアおよびアンディラー模範植民地にいた日本人農家の大多数が川岸の低地へ移動し、ジュート生産に邁進する。後年、この事実が誇大宣伝され、「日本人がジュート栽培の主力だった」という誤解が生じた。実際には、1941 年にイタコアチアラ市で地元民が栽培しはじめ、1942 年からは生産量において日本人をしのぐ成績をしめす。つまり、日本人は生産の主力から脱落したということである。
[注 18] (12 p.) 初期の段階におけるジュート栽培農家の資金繰りについて、高村正寿(当時は Ciasa アンディラー模範植民地支配人)が上塚司にあてた書簡で、つぎのように記述した。
 ‥‥‥ジュートに就ての錯誤を訂正して頂き度いのです。ジュートは栽培にこそ成功しましたけれ共利益のあるものでは有りません。現在ジュート栽培者三十家族余、其中でジュート収穫終了後直ちに借金せずに来年度の事業を続行し得る者は佐々木、原田組三家族[中野注記=原田行郎、佐々木一哲、原田公三で構成されるグループ]、是は非常に地味にやってゐるからです。次は谷、小谷、小海の三家族、是は多分後半以後は借金せねば事業継続不可能、半田次郎も同様、其他二十幾家族は凡て最後のジュートを出した其翌日より借金をせねば事業続行よりも喰ふのに困る状態です‥‥‥[高村正寿書簡( 1939 年 10 月 17 日付、上塚司あて)]。
 高村は農業経営の知識と経験がなく、全体を観察する能力にとぼしい。発言も記述も偏見にみちているので、この書簡内容をそのまま信じることはできない。それでも、ほかの資料や関係者の証言を総合すると、1938 年から 1939 年にかけて、ジュート栽培者の多くが資金繰りにつまっていたと推測される。主たる理由は、初年度、第 2 年度の栽培面積が小さかったことによる(たいがいは 1 ヘクタールないし 2 ヘクタール)。生産量が少なければ入金も少なく、支出をカバーできない。しかし第 3 年度以降は収益も増えていった。ヴァルゼアに移転しても、たいがいは五人組制度(江戸時代の制度をまねて農家 3 戸ないし 5 戸をひと組とする相互扶助体制、1933 年のアンディラー模範植民地開設にあたり導入し、1942 年のアマゾニア産業株式会社閉鎖後も多くの組が存続した)を継続したので、組全体の家計費を節約できる。労働者に対する食料品や日用品の販売収入もあり、初年度の赤字といっても大きな金額ではなかった。ただし、節約を実行したのは、「原田・佐々木組」、「池上・石原組」、「半田・馬場組」など数は少ない。実業練習生の大半は、家族移住者とちがって節約という生活習慣がないため、自給自足体制を敬遠する。つまり、商品(とくに加工食品)の購入に金銭を費消し、みずから家計を苦しくしていた。1938 年当時、アマゾニア産業株式会社も運転資金に窮していたので、じゅうぶんな支援はできなかった。それでも、ジュート生産農家むけ商品供給にとどこおりはなく、それがかえって実業練習生の消費を刺激したともいえる。

[注 19] (12 p.) ヴィラ・アマゾニアとマウエス植民地とは、1930 年 10 月以来、交流があった。上塚司が土地調査の途中、マウエス地方を視察。同行した笹田正数医師が、マウエス植民地の日本人を対象に健康診断と血液採取(マラリアの検査)をおこなっている。1931 年 4 月、第 1 回実業練習生がアマゾンへむけ出立するとき、アマゾン興業株式会社送出のマウエス植民地組( 9 人)も同行。彼らはヴィラ・アマゾニアに数日滞在し、巡回航路(マナウス=パリンチンス=マウエス=マナウス)の船を待った。その間に( 1 週間ほど)、実業練習生とともにアマゾン農業の実地訓練をうけた。以後、毎年数回、人の往還があり、アマゾニア産業研究所は最初の数年間、マウエス植民地で収穫した籾を購入している。だが、1932 年後半、アマゾン興業株式会社の資金がつづかず、植民地経営が放棄された状態になると、個々の農家経営もむずかしくなった。植民地をでた者もある。残った者はグアラナ栽培で生計を維持したが、利益は商人にすいあげられるため、経済水準はなかなか向上しない。1938 年になって、ヴィラ・アマゾニアにおけるジュート栽培が「もうかりそうだ」とわかり、関心をいだく者がでてきた。数人はヴィラ・アマゾニアへいき、栽培現場を視察。その話を聞いて、1939 年度植付では、十数人がジュート栽培を希望した。彼らの要請により、Ciasa では東久一職員を派遣して技術指導をおこなった。そのあと、マウエス植民地では、Ciasa の庇護下にはいる意見が提起される。また、在ベレン日本帝国領事館新任の佐藤宣正副領事(領事代理)も、1939 年 11 月に同地を視察したとき、この意見を聞いて賛意をしめす。ベレンへもどるとすぐ、東京の上塚司へ書簡を送り考慮をうながした。こうした経緯のあと、1940 年 3 月 30 日、上塚社長みずからマウエス植民地を訪問。日本人会臨時総会の席で受入体制を説明。出席者一同、組織ぐるみ Ciasa の庇護をうけるべく決議。会社側もこれを受け、ジュート栽培の指導や生産物の販売だけでなく、購買商品供給(マウエス植民地内に購買所を開設)、医師の巡回診療もおこなう。教育については、すぐに学校を開設できないため、マウエス在住学童をヴィラ・アマゾニア小学校で学ばせることにし、付属寄宿舎に収容。1942 年、Ciasa 閉鎖までのわずかな期間ではあるが、ふたつの集団地は親密な関係となる。マウエス植民地在住者は、ジュート栽培によって経済的安定をはかることができた。

[注 20](12 p.)アヴィアドール (Aviador) はアマゾンの方言で、住民相手に商品を貸し売りする商人をいう。ふつうの貸し売りとちがうのは、農家に融資し収穫時に生産物を買いとる点。融資とは、作物栽培に必要な費用(種子、農具、食料品、生活用品など)を現物供与すること。1930 年代のアマゾン地方では、まだ交換経済が主流であって、貨幣を使うことは少なかった。とくに、農村地帯で生活する者は、ほとんど貨幣を手にしたことはない。砂糖や食塩などの必需品を購入するときは、森林で採取したグアラナ、ブラジルナッツ、あるいは野生動物の毛皮、塩漬けピラルクーなどと交換する。バナナ、キャッサバ、カボチャ、スイカ、ニワトリ、ブタなど、自分で栽培したり飼育したものを持ちこむこともある。市街地に店舗をかまえる商人のほか、船で行商する者も多い。食料品や生活用品を積みこみ、川岸に住む農家をおとずれ、森林生産物と交換。その大半は貸し売りであるから、前回の訪問で供給した商品の代金にみあう生産物を受領する。農家が作物を栽培する場合、労働者を雇用するなら、その分の食料品雑貨も供給する。19 世紀まではブラジル全土でおこなわれていたことであり、商売の通例でもあった。だが、アマゾン地方だけは、これらの商人を「アヴィアドール」と呼び、現金販売の一般商人 (Comerciante) と区別した。

[注 21] (12 p.) 尾山良太の「大規模ジュート栽培構想」は、本間武四郎(第 3 回実業練習生)が考えたもの。本間は尾山良太の長繊維ジュート個体発見以来、いっしょに観察したあと種子増殖を手伝った。アマゾニア産業研究所関係者のなかで、もっともジュートに強い関心をいだいた人物である。 1938 年にマデイラ河口からマナウスまでの区間を調査し、あちこちにジュート適地があることを確認。ジュート産地を造成するには、パリンチンス周辺よりもマナウス周辺のほうがよいと見た。それも、自分で植えるよりは、「アヴィアドール方式」により、地元民に植えさせるほうがよい。作付面積をいくらでも拡大できるであろう。このアイデアを尾山良太に伝え、「ぜひともやるべきだ」と勧めた。これに乗った尾山は、1939 年度収穫のジュート栽培で、クラリー島(アマゾン川本流右岸近く、ネグロ川河口の対岸に位置する島)に借地する。自身はラーモス水道左岸のマッシモ島で栽培( 15 ヘクタール)。クラリー島には、長男(尾山万馬、本間と同じく国士舘高拓第 2 回修了生)と本間を派遣した(同地でも 15 ヘクタール栽培)。だが、尾山万馬はジュート栽培に関心がなく、1 回だけでやめてしまう。本間は、マナカプルーでジュートを栽培するかたわら、地元民に技術指導した。尾山良太は 1941 年度作付で 70 ヘクタールまで拡張したあと、翌年からはアヴィアドール方式に切り換えるつもりだった。だが、同年 12 月、太平洋戦争が勃発。日本人はブラジルにとって「敵性国民」となり、行動をつつしまねばならない。結局、アヴィアドール方式は終戦まで待つことになり、「 1000 ヘクタール規模のジュート栽培」は夢に終わる。ただし、戦後は小規模アヴィアドールとしてジュート栽培をつづけた。


2-3 イタコアチアラ市役所との栽培支援契約
 イタコアチアラ市におけるジュート栽培のきっかけをつくったのは、アルヴァロ・ボテーリョ・マイア執政官( Interventor Federal no Estado do Amazonas, Álvaro Botelho Maia )である。1937 年 11 月の憲法改正で州知事の民選制度が廃止され、大統領指名による「決定権のない執政官制度」へ移行した。日本人の間では「インテルヴェントール」と呼ばれるが、日本語の適訳はみあたらないため、とりあえず「執政官」としておく。
 マイア執政官は、1930 年 10 月革命のあと、ヴァルガス大統領により「アマゾナス州執政官」に任命された。就任して最初の仕事が、上塚司の「 100 万ヘクタール土地コンセッション契約」に対する再認可だった(前任者により数十件も認可されていたが、再審査で認められたのは上塚の 1 件のみでほかはすべて棄却された)。1931 年に解任されたが、1934 年の改正憲法による選挙で「アマゾナス州知事」 (Governador do Estado do Amazonas) に選出される。以後、上塚の開拓事業に対し、なにかにつけ便宜をはからってきた。
 1940 年 3 月 19 日、マイア執政官はパリンチンスを訪れ、ヴィラ・アマゾニアの Ciasa 施設を視察した。ジュート栽培について説明をうけ、アマゾナス州の産業として育成する考えをかためた。4 月に予定されている「バイショ・アマゾナス地域市長会議」に、Ciasa 代表がオブザーバーとして出席し、ジュートについて説明するよう要請。とりわけ、イタコアチアラ市のアンツーネス市長が熱心であるから、コンタクトをとるよう伝えた。
 このとき、上塚司社長がヴィラ・アマゾニアに滞在していた。マイア執政官の要請をうけ、月末にマウエス植民地を訪問した帰途、4 月 2 日にイタコアチアラをまわり、アンツーネス市長と懇談。市長は、「ジュート栽培目的の植民地構想」を説明し、Ciasa の協力をもとめた。上塚社長の一行には、それまでジュート栽培適地の調査を担当してきた飯田義平がいた。ただちに候補地調査をおこない、アマゾン川本流のリスコ島 (Ilha do Risco) と、対岸(アマゾン川右岸)のコスタ・ダ・セルヴァ (Costa da Selva) を適地と認定。アンツーネス市長はじめ関係者と協議し、ジュート栽培導入と産地造成に関する基本条件をとりまとめる[注 22]。
 合意書がかわされると、アンツーネス市長はすぐにマナウスへ出張。ジュート植民地造成のため、州有地の無償譲渡についてマイア執政官の認可をえた。ヴィラ・アマゾニアへもどった上塚は、イタコアチアラに営業部売店(看板は「カーザ・ソル・ナセンテ」)のイタコアチアラ支店開設を決定。5 月下旬、支店主任に南政(第 2 回実業練習生、営業部商事課勤務)、ジュート指導員に玉井靖章(第 4 回実業練習生、農事部中央試験場係、本名は豊幸だったが 1936 年ころ靖章と改名)を任命。両名はすぐにイタコアチアラへおもむき、支店開設の準備をはじめる(同年 9 月 1 日に開店)。玉井の指導でジュート植民地が造成され、地元民およそ 200 戸が、1940 年 12 月から 1941 年 2 月にかけて播種。
 この時点でジュート栽培をめざす非日系農家は、まだ散発的といってよい。イタコアチアラが最大で唯一の集団地だった。ほかに、パリンチンス周辺、バレイリーニャ市街地周辺、マナウス近郊でジュート栽培がおこなわれていた。1940 年 8 月の調査によると、次期収穫をめざし準備中の非日系農家数は 415 戸。栽培予定面積は およそ 1,000 ヘクタール。日本人は 84 戸(約 2,200 ヘクタール)[「アマゾニア産業研究所月報」第 113 号、5 p.]。日本人が生産をリードしたのは 1941 年まで。1942 年度からは逆転する。
 イタコアチアラで栽培面積が拡大されたほか、マナカプルー市、パリンチンス市、バレイリーニャ市、アウターゼス市でもジュート生産がはじまり、それぞれ産地化されていく。生産の主力は、同年から非日系農家へ移り、日本人の影は薄くなる。なぜなら、1940 年代にアマゾナス州に在住していた日本人は 200 戸たらずで、1953 年以降の「戦後移住者」がくるまで、ほとんど増えなかったからである。
[注 22] (13 p.) このとき、イタコアチアラ市役所と Ciasa の間で合意した基本条件は、上塚司の記述によると概略つぎのとおり。
 一、郡は対岸及リスコ島に大約一千町歩の土地を会社に提供すること(此の土地は会社が州との契約により有する一万町歩の土地の一部とすること)
 二、対岸及リスコ島の原住土民は現状の儘ジュート栽培者たらしむること(ジュート栽培を承知せざるものは退去せしめて他より補充し少くとも六十家族に達せしむること)
 三、土民十家族に対し大体一家族の割合に日本人入植者を配置し、ジュート栽培の実況を習得せしむること
 四、会社は同市河岸に事務所、売店、倉庫を兼たる建物を借入ジュート栽培者に物品にて融通を行ひ、ジュートを買入れ保管に当ること
 五、事務所にジュート栽培指導者を置き常に栽培地を巡回指導に当らしむること
 六、アンブランシヤ(移動病院)を置き救急の用に充当すること
 右の通りにて郡も之を諒とし郡長は直ちにマナオスに出張、州執政官の許可を得次第、其の返事を郡書記及税務署長同道にて当社に来り報告最後的の打合せを行ふことゝ相成候‥‥‥[「アマゾニア産業研究所月報」第 108 号( 1940 年 7 月 1 日発行、1 p. )所載]。


2-4 パラ州におけるジュート栽培
 ところで、パラ州におけるジュート栽培はどうであったか、導入の経緯を考察してみよう。1938 年 5 月下旬、パリンチンス管内ではジュート収穫の最盛期。それを知ったブラジルの新聞がジュート礼賛記事を書き立てたことは既述のとおり。パラ州のジョゼ・カルネイロ・ダ・ガマ・マルシェール執政官もまた、刺激をうけたひとりである。
 パラ州ではその前から農業開発政策を検討し、資金について連邦政府と折衝をはじめていた。ジュートが新聞でとりあげられるとすぐ、マルシェール執政官はリオへ飛ぶ。そして、1,200 コントの特別補助金を引き出すことに成功。繊維作物、油料作物、チンボー (Lonchocarpus spp.) の増産計画を進めることにしたが、主力はジュートである。
 一方、Ciasa もパラ州への進出を考えていた。しかし、まだ構想段階にすぎず、具体案はまとまっていない。それでも、会社側の意向をパラ州政府へつたえ、検討を要請することにした。要点は、(1) アマゾナス州とほぼ同じ条件で、1 万ヘクタールの土地譲渡をうけること。(2) その土地で地元民にジュートを栽培させる。(3) 会社側はヴィラ・アマゾニアと同じく倉庫施設を用意し、ゆくゆくは製麻工場も建設する。
 たまたま、辻小太郎支配人が休暇をとり日本へ一時帰国することになった。1938 年 6 月 7 日にヴィラ・アマゾニアを出発。途中、ベレン港で船便を待つあいだに、パラ州執政官に会社の構想を説明するため、上記の条件を用意した。
 アマゾン川からマラジョー湾へでて、マラジョー島の南側水道を航行中、あたりの地形を観察していた辻は、このあたりがジュート栽培の適地ではなかろうかと推測。ベレンへ到着するとすぐ、在ベレン日本帝国領事館をおとずれ、古関富弥副領事(当時は領事代理)と話し合う。Ciasa のパラ州進出構想を聞いた古関副領事は、すぐに賛同。「それでは、マラジョー島南岸地帯を調査してみよう」ということになった。古関副領事と辻は現地調査をおこない( 6 月 12 日~ 19 日)、ジュート適地であることを確認[注 23]。ベレンへもどると、マルシェール執政官をおとずれ会社側の構想を説明した。
 マルシェール執政官にとって、Ciasa 側からジュート栽培普及構想の説明をうけたのは、願ってもないこと。自分の考えと合致する。ただちに、具体化へむけ検討をはじめた。要点は、Ciasa がパラ州内でジュートを試作すること。試験期間は 3 年。費用として州政府は、初年度に 20 コント、第 2 年度に 8 コント、第 3 年度に 7 コントを補助する。試験栽培で好結果をえたなら、Ciasa は 1 年以内にパラ州内でジュート栽培会社を設立するが、失敗の場合は試作期間の延長、または計画打ち切りのいずれかを選択。会社設立にあたり日伯両国資本によるジョイントベンチャーとし、州政府は州有地(最高限度 1 万ヘクタール)を無償譲渡する。
 話し合いの内容を、辻小太郎は電報でヴィラ・アマゾニアへつたえた。辻の留守中、支配人代行を務めたのは中崎邦夫営業部主任(神戸商大第 2 期生)。中崎はパラ州政府とかわすべき契約書の草案作成にとりかかる。一方、州政府は、ジュート試作契約の締結について州財政経済技術諮問委員会の承認をとりつけた。話がここまで進んだところで、辻小太郎はベレンへ入港した日本郵船「山浦丸」で日本へ向け出発(ヴィラ・アマゾニア帰着は 1939 年 12 月 18 日)。ヴィラ・アマゾニアからは、会社側代表として九十九利雄・経理部主任(神戸商大第 3 期生)が派遣され、パラ州政府担当者と協議。8 月初めに契約書をかわす。州政府は同月 16 日、契約書をパラ州議会へ提出し承認をとりつけた。
 会社側は、ジュート種子採取目的の試験農場を開設することにし、越知栄(植民部副主任)を場長に任命。ジュート栽培担当者は、池上欣二、石原義雄、石原義人(いずれも第 3 回実業練習生)の 3 名。8 月 13 日にヴィラ・アマゾニアを出発し、ブレーヴェス市へむかう。ここを本拠地とし、ジュート栽培適地をさがした。市街地の対岸、サント・アマロ島に借地しジュート圃場とする。本来、州有地の無償譲渡をうけるべきところ、短時日での調査では選定がむずかしかったため、とりあえず適地と思われる場所を借りることにした。賃貸借契約書をかわすと、ただちに森林伐開作業を開始。
 ブレーヴェス試験農場におけるジュート栽培は、種子採取が目的である。契約にしたがい、会社は生産量の 5 % を州政府へ渡さねばならない。州農務局はこの種子を別の場所に住む農家に配付し、ジュート栽培の普及活動をおこなう。1939 年 5 月から 7 月にかけての種子採取はうまくいったものの、いくつかの問題が生じた。ブレーヴェス市は物価が高く、労賃もパリンチンスより高い。したがって、種子生産はコスト高になった。もうひとつ、決定的な問題はマラリアである。池上とらを(池上欣二夫人)をのぞき、成人も幼児も全員が罹患した。
 マラリアを重視した中崎支配人代行は、越知場長に別の適地調査を命じる。同年 7 月から 10 月にかけて調査し、サンタレン郊外に土地を選定。しかし、すぐに試験農場を移転したわけではない。最初の種子を採取していたとき、池上欣二の提案により「乾期のジュート栽培」をテストすることにした。1939 年 7 月から 8 月にかけて播種したので、種子収穫は 12 月にはじまる。この作業を終えてからでなければ移転できない。さらに、別の問題もあった。
 1940 年 1 月、パリンチンス地方では、日本人によるジュート栽培面積が拡張され、大量の種子が必要になったこと。ヴィラ・アマゾニアとブレーヴェスの採種量では需要においつかない。どちらも生産拡大をしいられた、このような状況のときに、ブレーヴェス農場を閉鎖するわけにいかず、もういちど作付することになった。ただし、同年 2 月初め、「採種後に閉鎖する」という件は決定。マラリアの病状がひどかった石原義雄は、家族とともにヴィラ・アマゾニアへひきあげる。さらに、同年 8 月末、ブレーヴェス試験農場を閉鎖したとき、石原義人もヴィラ・アマゾニアへもどった。サンタレン試験農場の仕事を担当したのは、越知栄(場長、9 月 4 日にサンタレン着)と池上欣二(農場係、同 9 月 10 日現地到着)である。
 購入した土地の正確な位置は不明。「サンタレン試験場業務日誌」の記述から、アマゾン川右岸、サンタレン市街地より 15 キロメートル上流側、ピンドゥリー (Pinduri) 付近と推測される。アマゾン川本流とタパジョス川にはさまれ、半島のように 40 キロメートルほど突きでた部分は、中央部でふくらみ広いテーラ・フィルメとなる。サンタレンに近い突端部 13 キロメートルの区間は細長い砂州をなし、増水期にはほぼ全域が水没するため耕作できない。試験場の裏手がタパジョス川であるから、水没しない部分を考慮すると、該当するのはピンドゥリー集落のあたりになる。
 越知栄と池上欣二は種子生産を目的に、サンタレン試験農場でジュート栽培をするため準備をはじめた。同年 11 月、Ciasa の人事異動で越知は「マナウス出張所長」として転出。12 月 6 日、後任場長として飯田義平(第 1 回実業練習生)が着任した。雨期の豪雨がおとずれたので、12 月 28 日からジュートの播種を開始する。発芽は順調だったが、ハキリアリの害と雑草繁茂になやまされる。1941 年 1 月 10 日の業務日誌に、飯田義平は「ジュート苗園一町五反歩中蟻に切られたる部分は約三反歩なり」と記す。
 そのころ、Ciasa は資金繰りにつまっていた。イタコアチアラにジュート植民地が造成されたため、生産農家へ商品(食料品、雑貨、ジュート種子など)を供給しなければならない。ジュート生産農家むけの資金援助が優先であるから、サンタレン試験場への仕送りは遅れがち。現場では労働者への支払(日給計算で毎週土曜日に支払)もできず、雇用数を減らすしかなかった。とうぜん、作業に支障をきたす。飯田と池上は、ヴィラ・アマゾニアからの送金におうじて労働者の雇用数を調整した。送金はとどこおりがちなので作業は大幅に遅れた。それにくわえて、雨期の増水になやまされる。
 飯田と池上にとって、悪戦苦闘の毎日だった。それでも 、1941 年 4 月以降、着実にジュート種子を収穫。同年 12 月、Ciasa の人事異動で、飯田義平場長がベレン出張所長として転出すると、池上欣二が後任場長となる。だが、ヴィラ・アマゾニアからは、部下となるべき日本人がひとりも派遣されなかった。ジュート栽培、収穫した繊維の梱包と発送、銀行関係など、あらゆる仕事を池上はひとりできりまわさねばならない。わずか半年あまりのことだったが、Ciasa の閉鎖まで、池上は文字どおり「孤軍奮闘」の日々をすごす。
 一方、太平洋戦争勃発後、ヴィラ・アマゾニアでは日本からの送金が途絶え、資金繰りにつまった。1942 年になるとサンタレン試験農場への送金がとまってしまう。いくら電報で催促しても返事はない。ジュートの販売先はベレンの商人であるから、取引はベレン出張所をつうじておこなわれた。したがって、販売代金も出張所が受領しヴィラ・アマゾニアへ送金することになる。これを知っていた池上は、ベレンの飯田義平所長へ打電。サンタレン試験農場の逼迫をうったえた。事情をよく理解していた飯田は、ジュート代金の一部をサンタレンへ回してくれた。
 だが、一時しのぎにすぎない。同年 5 月、池上はヴィラ・アマゾニアへいき会社幹部と交渉するがどうにもならなかった。会社自体の存続が不可能という見とおしだったからである。池上は 6 月初め、サンタレンへもどると試験場を閉鎖。町に近い対岸の島で借地し、個人の仕事としてジュート栽培をおこなう。
[注 23] (14 p.) 古関富弥副領事は調査結果を報告書にまとめ、電報で宇垣一成外務大臣へ提出。表題は「アマゾン地帯ニ於ケルジュート栽培ノ将来性ニ関スル件」( 1938 年 6 月 22 日付)。つぎのように記述した。
 ‥‥‥偶々アマゾニア産業会社現地主事辻小太郎社用帰朝ノ途ニアリ目下当市ニ船待中ナルカ前記ノ如キ一般情勢ヲ考察シ将来ジュート栽培ハ同会社ノ事業トシテ之ヲ長ク邦人ノ手中ニ独専シ得サル事ヲ察知シ如何ニセハコレカ権益ヲ擁護確保シ得ヘキヤニ付小官ニ相談スル処アリタリ小官ニ於テモ右ノ情勢アルハ夙ニ探知シ居タル次第ニシテ且又将来ノアマゾン開発事業ハ新憲法ノ手前従前ノ如キ独善的計画ヲ許ササル時勢ニ在ルヲ以テ此種新産業カ将来伯国経済上重要性アルニ鑑ミ未タ伯国人カ深ク関心ヲ持セサル間ニ積極的ニ事業ヲ進ムルコト肝要ナリト思料セラルル処自今邦人単独ノ事業ハ至難ナルヘキニ付寧ロ先手ヲ打ッテ日伯合弁ノ事業トシテ組織的ニ大量生産ニ乗出シ将来南伯地方ノ印度麻輸入ヲ阻止迄企画スルコト至当ナルヘシト示シタル処辻モ頗ル同感ノ意ヲ表シタリ然ルニアマゾナス州ニ於テハ河岸低湿地ヴァルジア頗ル小規模ニシテ且分散シ居リ伯国官憲ノ理解アル特典ナキ限リ到底之カ統制困難ナルト且ツハ組織アル大量生産ハ不可能ナルヘシトノ意見ナルカ辻カ再三アマゾン河ヲ下流ノ際ブレヴェス水道附近ノデルタ地帯ハ自然ノ水道縦横ニ開通セラレ居リ若シ此ノ低湿地カ此種栽培ニ好適ナリトセハ其利用価値頗ル大ナルヘシト述ヘタルニ付早速之カ手ハスヲ為サシメ日曜ヲ利用シ小官モ同道視察シタル結果左ノ如シ‥‥‥[古関富弥電報報告書「アマゾン地帯ニ於ケルジュート栽培ノ将来性ニ関スル件」( 1938 年 6 月 22 日付、宇垣一成代務大臣あて)、アマゾニア産業株式会社「当社のジュート栽培ノ経過に就きて」所載]。
 古関報告書はこのあと、ブレーヴェス地方の概要を説明。「上述ノ次第ニテジュート大量生産地トシテ好適地ト鑑定セラル」とむすぶ。最初に「前記ノ如キ一般情勢ヲ考察シ将来ジュート栽培ハ同会社ノ事業トシテ之ヲ長ク邦人ノ手中ニ独専シ得サル事ヲ察知シ」と書いたのは、ジュート産業の有望性に注目したアマゾナス州の政治家が、日本人と日本企業による独占を阻止する動きをみせはじめたことをいう。アルヴァロ・マイア執政官は Ciasa に最大限の便宜をはかろうとしているが、それに反対する政治家は州の歳入増加を優先させるため、ジュート移出に対する関税引き上げを画策していた。このような情勢を考慮し、古関富弥領事代理は、「将来、ジュート事業の国営化または国内企業優先策を講じるおそれもある」とみた。この不安を解消するためにも、Ciasa の事業を分散させ、広大なヴァルゼアをもつパラ州へ進出するのがよいと考えた。このような見解をもっていたので、辻の話を聞いた古関領事代理は、ブレーヴェス地方の視察を承諾し、すぐに出発したわけである。


2-5 政府による法令整備
 本格的なジュート栽培がはじまった 1938 年、Ciasa はジュートに関する法令の整備をめざし政治工作をはじめていた。当時はまだ、「ジュートの国産化により輸入を抑制する」というていどの考えだったが、1939 年 9 月に欧州戦争が勃発すると事情は急速に変わる。ドイツ海軍が大西洋を封鎖し、アメリカが連合国へ供給する物資の輸送を阻止したのみならず、南アメリカ大陸やアフリカ西海岸の産物をも困難にした。インド産ジュートをブラジルへ運ぶ船舶も例外ではない。したがって、1940 年にはジュートの国産化が、ブラジル政府の至上命令となり、農務省は増産奨励策を打ちだす。そのための法整備は不可欠とされた。とくに、ジュート繊維の格付と梱包に関するものは重要である。
 しかし、当時、農畜産物の格付に関する規則はなかった。1938 年 3 月 15 日付大統領令第 334 号( Decreto-Lei Nº 334 、第 6 条)で、ようやく農畜産物取引に格付制度を適用することになった。そして、1940 年 5 月 29 日、法律第 5739 号 (Lei Nº 5739) により、「農畜産物および副次品、ならびに経済価値ある残渣の格付規則」が制定される。これは基本的事項をさだめたもので、農産物の個別基準ではない。ジュート繊維に関する格付法 (Lei Nº 6825) が公布されたのは、1941 年 2 月 7 日である。
 国法とは別に、アマゾナス州政府は、州内におけるジュート規則として、州執政官令第 170 号( 1938 年 11 月 20 日付)を公布。Ciasa に対する「ジュート栽培および取引に関する特権付与」を規定した。これにもとづき、1939 年 1 月 12 日に、州財務局と伯国支社との間で、特権付与にかかわる契約書を交わす[注 24]。
 上記の執政官令では、会社の義務として小学校、診療所、ジュート試験農場の開設を規定している。ヴィラ・アマゾニアにはすでにこれらの施設があり、Ciasa にとって新規投資を要しない。必要なのは、マナウスとヴィラ・アマゾニアに、ジュート格付専用倉庫を建設すること。これは 1937 年から検討していたことであり、執政官令とは関係なく実施しなければならない課題だった。資金調達の問題があるのですぐには建設できない。といって、格付審査と梱包作業の施設、そしてストック用の倉庫がなければジュート販売を有利に進められない。
 ともあれ、州政府との間でかわされた契約書により、Ciasa はジュートの格付および価格設定に関する特権を付与された。つまり、同社がアマゾナス州内で収穫するジュート繊維をすべて買い上げ、格付したあと販売する。販売価格はマナウス市場の実勢を前提とするが、同社をのぞくほかの競争企業やジュート仲買人の設定価格を参照し、大きな差を生じないようにすることが条件。妥当な価格であるかどうか、取引が公明正大におこなわれたかどうか、アマゾナス州政府(農務局監督部)が監督する。
 いずれにせよ、会社にとって「きわめて有利な条件」であったことはまちがいない。Ciasa だけが、ジュート繊維の格付と販売で特殊な立場におかれ、利益を享受できることになった。契約条項は 1939 年度生産のジュートに適用され、同年の収穫は 3 月半ばにはじまる。
 格付規定にしたがい 1 級品から 4 級品まで 4 等級に区分し、等級別に梱包しなければならない。まず、乾燥繊維 1.5 kg で小さな束をつくり、これを 10 束まとめて中束とする。中束 4 個をもって大束 (60 kg) とし、販売用商品の単位とした。梱包は生産農家の義務とされる。格付人は、大束梱包内の繊維がすべて、同一品質であるかどうかを審査。合格すればそれぞれの等級におうじた取引価格が設定される。同じ梱包内に、等級のことなる繊維がまじっていると不合格。不合格品は Ciasa が買い取り、再区分したうえで梱包しなおす。この手間がたいへんなので、下級品の買取価格はかなり低い。
 格付について、等級制度のほか格付人の問題がある。格付法( 1941 年 2 月 7 日付大統領令により認可された農務省規則)では、農務省が格付の権限をもち、格付人(農務省技師)を産地へ常駐させることになっていた。しかし、農務省役人でジュートのことがわかる者はいない。1940 年代初めのブラジルで、Ciasa 社員以上に、ジュート格付の知識をもつ専門家はおそらくいなかったであろう。そこで、法律は、「格付の権限を州政府に委譲できる」という逃げ道を用意した。アマゾナス州政府にゆだねるべきところ、格付適任者はいないため人材を外部に求めた。
 アマゾナス州格付人として任命されたのは、Ciasa のエリアス・カルダス・ザグリー社員( 1941 年 11 月 10 日より取締役)。これも名目上の格付人にすぎない。ザグリーは弁護士で、バルセーロス市(ネグロ川中流右岸の町)の元市長。1935 年より、「書記」 (Secretário) という肩書きで渉外を担当していた。役所関係のことはすべてザグリーが処理し、州内では対外的に名が知られている。だが、生産関係の仕事にたずさわったことはなく、農業知識もとぼしい。アマゾナス州政府との契約により、格付は Ciasa の独占事業となったことから、ザグリーの責任において、実際の格付担当者を任命した[任命日は不明だが、いくつかの資料から 1941 年 2 月と推測される]。
 会社は 1941 年 3 月 1 日、あらたにジュート部を設置。辻小太郎支配人が部長を兼任し、高村正寿を格付責任者(部長代理)とした[注 25]。部下は東久一(第 2 回実業練習生)、小林増美(第 2 回実業練習生)、小田具紀(第 5 回実業練習生)。マナウス出張所では越知栄所長が格付責任者、部下は畠中実(第 4 回実業練習生)。
 ヴィラ・アマゾニアにはジュート生産者協同組合(任意団体、1940 年 10 月 22 日設立)もできていた。会社はジュートの生産販売に関する件につき、すべて組合と協議し決定することになっている。最大の関心事であるジュート販売手数料を、「販売価格の 5 % 」と設定。時の常識(標準 15 % )とくらべ、破格の手数料といってよい。独占事業なら少なくとも 20 % 以上とするはずのところ、比率を低く設定した。1939 年 8 月の「ジュート価格問題」[注 26]で、上塚司社長は「 5 % より多く控除してはならない」と幹部社員へ命じたからである。
 上塚司は栽培農家の利益を優先させていた。格付をするのが Ciasa だけなら、アマゾナス州で収穫されるジュートは、すべて支社へはいる。手数料を低く設定しても、数量の増大により利益額は大きくなり損することはありえない。辻小太郎はじめ、村井道夫、中崎邦夫、九十九利雄ら幹部(会社利益優先主義者)は不満だったようである。だが、社長命令は絶対的なもので、そのとおり実行した。こうして生産販売の体制もととのい、ジュート格付倉庫建設に着手したところへ、太平洋戦争が勃発。計画が挫折しただけでなく、会社そのものの存続があやしくなった。
 会社は、ヴィラ・アマゾニアに「人口 10 万の中都市」(当時のマナウス市に匹敵する規模)を建設するつもりだった。夢のような大構想だが、上塚司社長は「可能である」と判断。そのための具体案を用意していた。農畜産物の増産、農産物加工場建設、生産物および製品の州外移出と外国向け輸出、必要商品の輸入と販売、地下資源開発および精錬事業、発電事業、河川交通および貨物運輸事業、港湾管理事業(主たる対象は 1 万トン級船舶)、土木事業、電信電話事業、金融事業、等々。アマゾン地方で必要とされる事業へ、アマゾニア産業株式会社(投資会社)が投資して新会社をつぎつぎと設立していけば、実現不可能とはいいきれない。
 だが、あくまでも、上塚の理想または夢想であり、現実はそれほど甘くはない。とはいえ、ペーパープランながらも、具体化へむけ準備にはいった案件もいくつかあった。たとえば、ジュート格付梱包工場、製麻工場、製糖工場。いずれも、東洋拓植株式会社資金を主体とするもので、四大財閥(三井、三菱、住友、安田)も協調融資する。1942 年から 1943 年にかけて実施されることになっていた。上塚の期待は大きかった。それが、実施直前の 1941 年 12 月、太平洋戦争の勃発で夢と消える。日本の投資会社からブラジル支社への送金手段が失われ、現地の事業継続は困難になった。開戦と同時に日伯間の直接的通信(電信および郵便)が途絶した結果である。
[注 24] (16 p.) 1938 年 11 月 20 日付州執政官令第 170 号 (Decreto-Lei Estadual Nº 170, pelo Interventor Amazonense, Dr. Álvaro Botelho Maia, em 20 de novembro de 1938) の原文は入手困難なため(アマゾナス州公文書館焼失による)、「アマゾニア産業研究所月報」第 92 号に掲載された吉沢義正(アマゾニア産業研究所東京本部主事兼ポルトガル語翻訳係)の訳文(仮訳)を以下に紹介しよう。
株式会社コンパニア・インヅスツリアル・アマゾネンセト
アマゾナス州政府トノジュート栽培契約(假譯)
アマゾナス州政府連邦執政官令
一九三八年十一月二十日附令第一七〇号
 アマゾナス州連邦執政官ハ連邦憲法第一八一条ノ権限ニ基キ州ノ経済的発展ヲ計ル為ノ新資源ノ開発ヲ指導奨励スル必要ヲ認メアマゾナス州内ニ於ケルジュート栽培ヲ産業トシテ確立シ以テ州経済ニ資ス利益ヲ認メ且州内ニ特殊産業ヲ発達セシムル為メニハ現行法規ニ遵ヒテ諸種ノ恩典ノ許与ヲ必要ト認メ左ノ如ク令ス
第一条 アマゾナス州政府ハパリンチンス市ニ主タル事務所ヲ有スル株式会社コンパニア・インヅスツリアル・アマゾネンセニ対シ会社ガ伯国内ニテ正当ニ業務ヲ営ム以上三十年間左ノ恩典ヲ与フ
イ、内国労働者或ハ外国人コロノヲシテ為サシムルジュート栽培ニ当テラルル土地ハ州内各地ノ州有地ニシテ選択権付ニテ譲渡ス、正当ニ配分セラル可キ土地ハ一万町歩迄トス
ロ、販売税及ヒ委託販売税ヲ除キ、既定若シクハ設定サル可キ州及郡ノ諸税ノ免除
第二条 州政府ハ連邦政府ニ対シ左ノ特典ヲ請願スルコト
イ、ジュート及之ニ類スルモノノ栽培加工ニ当ツヘキ機械、器具及化学材料ノ輸入税ノ免除
ロ、申請者ト契約シタル内国労働者及外国人コロノノブラジル各港ヨリマナオス迄ノ無料輸送
第三条 報収トシテ株式会社コンパニア・インヅスツリアル・アマゾネンセハ左ノ義務ヲ負フ
イ、地区内ニ教育ニ関スル法律ノ規定ニ定メラレタル伯人教師ニヨリ管理セラルル小学校ヲ設置管理スルコト
ロ、地区内ニ衛生保持ノ為メ医局及療養所ヲ設置スルコト
ハ、最大期間三ヶ年内ニジュート及其他ノ繊維植物ヲ調査研究ヲナス試験場ヲ設置スルコト
ニ、申請者ハ報酬ナシニ其農事試験場ニテマナオス農学校ノ学生二、三名ガジュート栽培ノ実地練習ヲナスコトヲ許与スルコト
ホ、州内ニ産出スルジュートハ市場相場ニテ買入レ其繊維ノ格付及価格付ヲナス事
ヘ、小農者及ジュート栽培業者ノ生産物ノ販売ヲ容易ナラシムル為メマナオス其他必要トスル適当ナル場所ニ倉庫ヲ設置スルコト
第四条 原料ジュートノ輸出ハ申請者ノ独占ナルモ本令規定ノ条件ヲ以テ申請スル個人、会社或ハ企業団体ニ対シテハ契約ノ下ニ同様特典ヲ許可スルモノトス
第五条 州及株式会社コンパニア・インヅスツリアル・アマゾネンセノ間ニ起草セラル可キ契約書ハ月額一コントノ報酬ヲ受クル政府ノ任命ニナル農事技術者ニヨリ監督サル可シ
右ノ実施ノ為メニ毎三ヶ月ニ相当スル金額ヲ予メ徴収ス
第六条 契約ハ予メ政府ノ明示且正式ノ承認ヲ得テ其全部或ハ一部ヲ委譲スルコトヲ得但政府ハ州ノ利益ニ応ジ其条件ヲ制限或ハ拡張スルノ権利ヲ保有ス
第七条 本令ニ反スル処分ヲ廃止ス
 一九三八年十一月二十四日マナオスリオブランコ政庁ニ於テ
     ルイ・アラウジョ
     ライムンド・ニコラウ・ダ・シルバ
[「アマゾニア産業研究所月報」第 92 号( 1939 年 3 月 1 日発行、9 p. )]

[注 25] (17 p.) 高村は国士舘大学新聞の連載で、「アマゾニヤ産業株式会社は‥‥‥(中略)連邦政府にジュト格付人任命を請願したところ、連邦政府は快く承諾し、アマゾナス州ジュト格付人に高村正寿を任命した」[高村正寿「アマゾン文化の礎・高拓生」連載第 21 回(国士舘大学新聞第 246 号、1984 年 3 月 27 日発行]と記述。この部分は高村の創作であり事実とちがう。高村は社内で任命されたジュート部責任者(部長代理)であり、実務担当者である東久一、小林増美、小田具紀を指揮した。同年 6 月から工藤講一も加わる(工藤は東京本社から転勤し 5 月 31 日にヴィラ・アマゾニアへ到着、入れ替わりに、ジュート係だった小林増美がレシフェ出張所へ転出)。アマゾナス州政府が任命した格付人は、エリアス・カルダス・ザグリーだが、任命日は不明(いくつかの資料から 1941 年 2 月と推測される)。

[注 26] (17 p.) 1939 年度のジュート収穫は 8 月初めに終了。Ciasa は、生産農家に対する代金を精算した。そのとき、生産者手取りは期待したよりも少なかった。尾山良太が実業練習生を扇動し、会社側へ「差額返還要求」をつきつける。販売利益は会社のものであって、生産者に要求の権利はない。しかし、会社と実業練習生のあいだには、もともと複雑な関係があったことから、問題はこじれた。上塚司社長の裁定にゆだねることで双方が合意。同社長のヴィラ・アマゾニア到着( 1939 年 12 月 31 日)まで一時休戦とした。発端は、マナウス市におけるジュート相場情報。マナウス市の商人( Ciasa のジュート栽培成功と事業独占をねたむ商人グループ)が、意図的に高い価格を提示し、生産者を幻惑させた。会社の買取価格はキロあたり 1.5 ミル・レイス。商人は 2 ミル・レイス。実際に買いとるつもりはないので、高値の設定はかんたん。実在しない高相場情報をうのみにした尾山良太(当時最大の生産者、30 ヘクタール栽培)は、すぐに差額を計算。会社へジュートをひきわたしたため「大損した」と判断。これをとりもどすべく、実業練習生を扇動した。以後の経緯は複雑だが、上塚司の「アマゾン日記 1940 年」に詳述されている。ヴィラ・アマゾニアへ到着した上塚司は、会社幹部から説明をうけたあと、生産農家を個別訪問。生産者に利益配分の権利がないことを説明しなっとくさせる。ただし、首謀者である尾山良太と会うのを避けた。1940 年 1 月 27 日、ヴィラ・アマゾニアではジュート栽培者組合臨時総会が開催された。総会といっても、生産者組合はまだ設立されていない。いわば代表者会議であり出席者は 15 名。これには、会社側代表として、上塚司社長と辻小太郎支配人もオブザーバーとして招かれた。上塚社長は、「会社の利益は生産農家の利益ではない」ことを説明。尾山および同調者 2 名(吉井大吉、石黒粂吉)は「利益還元要求」を貫徹するつもりだったが、ほかの 12 名はすでに自分たちの非を理解していたため要求しない。最後に、芹沢正芳(第 3 回実業練習生)が発言し、会社幹部が営業方針のみに固執する点を指摘。会社本来の精神(生産農家の利益擁護と相互扶助)に反することのないよう、「上塚社長がこの点を調整してもらいたい」と要望し協議をおえる。あとは、立場に関係なく雑談となったため、尾山良太は宙に浮いてしまった。問題の差額はざっと 85 コント。この利益は、1939 年度収穫のジュートから生じたものではない。前年度収穫の繊維をストックし、1939 年 1 月から 2 月にかけて(ジュート相場がもっとも高い時期)に売却してえたもの。会社の利益であっても生産農家に帰属するものではなかった。したがって、尾山も実業練習生も、利益還元を要求する権利はなく、騒動は不当な行為とされる。だからこそ、上塚社長は要求を拒否した。ただし、まったく別の形で還元する。生産農家が利用する施設として、養正寮(農家および家族がヴィラ・アマゾニアをおとずれたときの無料宿舎)と八紘会館(社員および生産農家が利用する娯楽施設兼集会場)の建設に 50 コントを投入。これは、「ヴィラ・アマゾニア創設 10 周年記念事業」として実施された。あらたに「ジュート生産者協同組合」を設立し、資金として 25 コントを供与( 1940 年 10 月 22 日設立)。残り 10 コントは会社の運転資金としたが、既存の農事実行組合(任意団体)に対しても 25 コントを助成したので、最終的には「持ちだし」となった。それでも、この措置により実業練習生はなっとく。その後も不平を鳴らしていたのは、わずか 3 人(藤島正徳、安井宇宙、石黒粂吉)にすぎない。上塚は日記のなかで、彼らを「アマノジャク」と決めつけた。価格問題にはじまった騒動の根底には、会社幹部の営利主義と生産者の利己主義がある。だからこそ、一体感がそこなわれ分裂の危機をまねきかねないほど険悪化した。上塚社長の説得と裁定により、この危機は去った。ただし、後年になって虚報がつたわり、関係者の談話を聞いた者のなかには誤解するむきも多い。実業練習生の一部が回顧談のなかで、いくつかのエピソードを「おもしろおかしく語り聞かせよう」とし、意図的に脚色し説明したからである。会社側を悪者に、ジュート栽培農家を被害者にしたてた。このフィクション物語に乗った仲間が、第二次世界大戦後、日本からアマゾン地方へやってきた人たちへ、「事実」として語り、あるいは記述した(たとえば、パラー高拓会作成「高拓生及びアマゾンジュートの歴史」)。そのなかに、ルポライターや作家らがいて、虚構談話を盲信。日本へもどると、活字媒体をつうじてひろめた。だが、ジュート価格問題の真相は上記のとおりで、「尾山の不当要求による騒動」ということである。


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