「ブラジル日系美術史」訂正とおわび
田中慎二
quinta-feira, 15 de setembro de 2016
「ブラジル日系美術史」の259ページ、5行目から10行目までを、次のように訂正いたします。 著者
戦後日本から移住して活躍した建築家では、早稲田の建築科を卒業してサンパウロ市の森田設計事務所の招聘で相田祐弘、笠原佰(ハク)が、1957年に初の工業移住者として来伯。73年には笠原、相田の二人が後輩の柴田、伊藤とともに建設設計事務所エキッペ-4を設立、活発な活動を行っている。
第3回ビエンナーレ(1955年)では笠原を含む学生7人の作品を建築学生部門に出品し、ハバナ大学とともに建築国際大賞を受賞して話題になった。なお、第2回と第4回のビエンナーレにも早稲田大学院生が授賞、早稲田の建築科が3冠を達成した。
1962年には早稲田の建築科を終えて前川国男建築設計事務所に所属し、来伯していた香月義徹が、文協が設計を依頼した前川所長の指示で文協美術展示場(貴賓室)の設計監督を担当した。完了後、サルバドールのカマサリ工業団地でサンスイ・プラスチック工場の設計を担当、その後、フランスに数年間滞在してブラジル大手建設会社関連の仕事をし、帰国後も同社の仕事をつづけながら、設計事務所を開設している。