宮尾さんのこと
人文研元理事  田中 慎二
sexta-feira, 10 de fevereiro de 2017

昨年10月30日に当研究所顧問宮尾進氏が亡くなられました。宮尾氏は5月ごろから肺がんを患っておられました。

宮尾進氏略歴:1930年、アリアンサ移住地生まれ。1953年に信州大学文理学部人文科学科哲学科を卒業後、ブラジルへ帰国。赤間学院の教員を経て1956年に農業雑誌「農業と協同」に入社。サンパウロ人文科学研究所の前身である土曜会のメンバーであり、研究所となって以来理事、事務局、所長を経て顧問となる。2016年10月30日逝去。享年86。


昨年末の十月三十日、“人文研の顔”として長年にわたって日系社会問題の研究に携わってきた宮尾進さんが、八十六歳の生涯を閉じた。こよなく酒を愛し、元気な時代には《宮尾ゼミ》と称して、酒の好きな連中が集まったものだった。昨年の八月ころから、急に悪化したガン治療で入退院を繰りかえす直前まで飲み続けた。晩年の宮尾さんは、仲間との集まりの後で送っていくと、友人からの特別誂えのピンガのガラフォン(大瓶)をしっかと抱えて、よたよたと歩いてアパートに入って行く後ろ姿を見たのがつい最近だったように思い出される。

宮尾さんは一九三〇年、当時まだ原始林が残っている開拓地だったサンパウロ州ノロエステのアリアンサ移住地で宮尾厚、たまじ夫妻の七人兄弟の二番目として生まれ、九歳のときに親兄弟のもとを離れて、日本の宮尾の本家を継ぐために祖母の許へ、はるばると日本へ旅立った。この経緯は同人誌『西風』第三号に「第二次大戦開戦直前の船旅」と題して、戦前最後の移民輸送船《ぶえのすあいれす丸》での航海中、九歳の少年の目に映った開戦直前の緊迫した状況が、克明に記された貴重な記録である。

戦後の一九五三年に信州大学文理学部人文科学科哲学専攻科を卒業してブラジルに戻り、一時期サンパウロ女学院(通称・赤間学院)で教師を勤めた後にコチア産業組合の広報課に入り、一九五六年~八〇年『農業と協同』誌(コチア組合刊)、『ブラジルの農業』誌(コオペラソン出版社刊)で編集長を勤めた。

人文研の前身、土曜会最後の会員で、日本で信州大学を終えたばかりで戦後まだ珍しかった新来青年の彼には、土曜会のお歴々にいささか時代感覚のズレを感じたのではあるまいか……そんな姿が想像される。そんな宮尾さんが鈴木悌一さんから、「専攻は何か……」と聞かれ、「サルトルの実存主義です」と答えたところ、「鼻先であしらわれたよ」と云う話を聞いたことがある。当時の土曜会の錚々たる顔ぶれを想起すると、その時の「お面一本!」を取られた宮尾さんの渋い顔が想像できる。

人文研が発足してからは、理事として、また所長として人文研活動の中心人物として活動を支えてきた。日本からの学者や新聞記者に限らず、欧米からもブラジル研究者の訪問者が、病状が重くなって入院する直前まで後をたたなかった。

最後に会ったのは死の三日前で、早朝に病室から大声で来てくれないか……と電話があって行くと、意外に元気でいろいろなことを話し合ったが、宮尾さんを中心にした同人誌『西風』第四号に、元人文研理事の古庄さんが「お守り-新京の遠い空-」を執筆したことがよほど嬉しかったらしく、その感想を述べるほどの元気さに、この状態がしばらくは続くのではないか……と思ったほどだ。晩年の楽しみは西風会の会合だったようで、いつも楽しそうにしゃべっていた彼の姿が彷彿とする。

宮尾さんとはじめて会ったのは、一九六〇年の九月にパウリスタ新聞の編集部に入社したが、たしかその年の十月か十一月?に新聞社新社屋の三周年(五周年?)記念の祝賀会が三階サロンで盛会裏に行なわれたときに、『農業と協同』誌の編集長として紹介されたのが初対面であった。その縁で、パウリスタ新聞時代からカットやイラストを頼まれるようになり、新聞社の安月給生活では良いアルバイトになった。三年後に誘われて同誌の編集部に入って以来、同誌から『ブラジルの農業』誌に移行し、廃刊になるまで十数年を宮尾編集長と行を共にした。。

当時、依頼原稿にちゃんと原稿料を払ったのは同誌だけで、「農業と協同文学賞」の挿絵では聖美会の半田、玉木御大や、現在ブラジル画壇で活動する、当時盛んに移住してきた若い画家の大半が挿絵を描いて、幾分かは生活のたしにしている。それらの原画がまったく残っていないのが惜しまれるが、この挿絵の原画については、拙著『ブラジル日系美術史』の監修をお願いした際に、よく話題にのぼったものだった。

『ブラジルの農業』時代からは、フリーの立場で仕事をしたが、記念誌の執筆や文協(現ブラジル日本文化福祉協会)の編集委員会や移民史料館の建設時、さらに同史料館の九階増設時、また人文研での活動など、宮尾さんが引っ張ってくれたのか、自分がくっ付いて行ったのか……仕事上でも五十年以上の付き合いが続いたことになる。

絵画に造詣が深かった宮尾さんは一時期、サロン文協の審査員を十年以上続けたことがある。とうぜん絵画の収集にも年期が入っており、高岡、半田、玉木、田中重人、間部、福島、若林といった代表的な日系画家の作品や小原久雄、土本真澄、豊田豊の彫刻など、油絵40数点、彫刻4点が揃っている。その宮尾コレクションを遺族のご希望で、移民史料館に寄贈されることになった。史料館側では、本年の宮尾さんの命日に、『宮尾コレクション展』を企画していると聞いた。有難いことである。

いま自分が辿ってきた道を振り返ってみると、肝心なときにはいつも宮尾さんの世話になったような気がする。宮尾さんとの五十年以上の付き合いを回想すると、想い出はつきない。


サンパウロ人文科学研究所 Centro de Estudos Nipo-Brasileiros