<< 第 1 章 ブラジルにおける野菜普及前史
第 2 章 サン・パウロ近郊における野菜生産
1 20 世紀初めの野菜栽培事情
野菜需要が少なかったので、19 世紀末までの生産も低調だったことはすでに述べた。また、20 世紀になって、イタリア人移住者がサン・パウロ市へ流入したことにより、野菜消費をうながしたことも既述のとおりである。本章では、野菜園芸事情を生産および流通の両面から分析するとともに、日本人移住者の役割を考察してみよう。
リオ市でもサン・パウロ市でも、19 世紀末から、ポルトガル人が零細規模の野菜栽培をおこなっていた。野菜だけの農家もあれば、切り花や採卵養鶏をふくめた複合経営もある。花については、17 世紀以来、貴族屋敷の花壇で栽培されてきた。観賞用であるから、切り花として販売しなかった(販売用の切り花は郊外のポルトガル人零細農家が栽培)。栽培管理を担当したのはポルトガル人園丁であり、野菜と花に関するかぎり、ポルトガル人の職人芸は高く評価されていた。
ブラジル独立後の内戦(ほぼ 1824 年~ 1835 年)と共和革命後の内戦、内乱( 1893 年~ 1897 年)により、多くの貴族が没落。貴族屋敷の園丁が職をうしない、リオおよびサン・パウロの郊外でささやかな菜園をいとなんだ。
しかし、消費市場が小さかったので、生産規模を拡大するのはむずかしく、生計を維持するていどの仕事しかできない。だから、いつまでも零細規模のままだった。彼らが栽培した野菜は、植民地時代に導入されたものであり、多くは品種として未改良のままである。これもまた、市場拡大を遅らせる原因のひとつとされた。ポルトガル人は、20 世紀にはいってもなお、新品種の導入をおこたったため、野菜需要を伸ばすことはできなかった。
一方、ドイツ人はジャガイモを、イタリア人はトマトを導入し、短期間に普及させてしまった。さらに、イタリア人は別の野菜についても、ヨーロッパの新品種をとりよせた(ちなみに、1880 年代前半、ダイズを導入したのもイタリア人だった)。少数ながら、フランス人もサン・パウロ近郊で種苗園を開設。本国から野菜果樹の種苗を輸入し、栽培品種の多様化に貢献している。余談ながら、ブラジルへカキ(幕末に日本からパリへわたった渋柿)を導入したのは、フランス人種苗業者で、1880 年代前半のことだった。
こうして、リオとサン・パウロ近郊における野菜栽培は、1880 年代から 1920 年代にかけて、様相が徐々に変わってきた。主としてイタリア人が、いくつかの改良品種をもちこみ栽培技術の工夫をこころみた。1910 年代から 30 年代にかけて需要が伸びた野菜は、ジャガイモとトマトのほか、ピーマン、キャベツ、レタス、タイサイ、ハクサイ、ケール、パセリ、カリフラワー、ニンジン、バースニップ、ズッキーニ、ハツカダイコン、サラダビート、ピーマン、キュウリ、サヤインゲンなど。
イタリア人につづき、在来のポルトガル人農家農家が作付け面積を拡張。ドイツ人、スペイン人も野菜を栽培したが、戸数は少ない。サン・パウロ郊外に集団居住区を形成したイタリア人は、大半が工場労働者となった。低賃金ながらも安定収入をえたことから、彼らが野菜消費の主力となる。それまで富裕層だけの特別料理だった野菜は、低所得層へとひろまったのは、イタリア人に負うところが大きい。
イタリア人は意識して野菜を食べたわけではなく、普及させる意図もなかったはずだが、結果的には、彼らが摂取しはじめたことにより、ポルトガル人零細農家の生計を助けることになった。こうして、野菜がようやく副食として食卓にのぼりはじめたころ、1908 年、日本人がやってきた。最初は断続的送出だったが、1912 年から 1913 年にかけて連続送出されたことにより、サン・パウロ近郊の野菜栽培事情も変わってくる。
2 日本人のブラジル移住
ブラジル在住日本人の間では、移民取扱人による最初の集団移住がおこなわれた 1908 年をもって、ブラジルにおける日本人の「移住元年」とする見方が定着している。移民取扱人は皇国殖民合資会社(取締役社長=水野龍)。同年 4 月 29 日、貨客船「笠戸丸」で 781 人のブラジル向け移住者を送出。6 月 18 日にサントスへ入港(移住者の上陸は翌 19 日)。この集団移住は、水野龍がサン・パウロ州政府との間でかわした移民送出契約にもとづくもので、日本帝国外務省も認可した。いわば公式手続きをへた移住だったことから、「最初の日本人移住」とみなし、笠戸丸のサントス入港日をもって「日本人ブラジル移住記念日」とした。このときの移住者は、一般に「笠戸丸移民」として知られる[注-17]。
いったんコーヒー農場で就労した日本人は、やがて自立しはじめる。1913 年、マイリポラン市ジュケリー地区で、土地を共同購入し自立した組は、「ジュケリー村」と称する集団地を形成。後年、スールブラジル農業協同組合中央会として発展する生産者組合の発祥地となった。サン・パウロ近郊における日本人集団地として、最初のケースでもある。同年、サントス=ジュキアー鉄道が敷設されると、日本人が数名、沿線のアナ・ディアス地区(イタリリー市)で自立。これをきっかけに、ジュキアー駅までの区間が日本人集団地となる。伯剌西爾拓植株式会社が、イグアッペ市ジポヴラ地区に最初の集団地(桂植民地)を開設したのも 1913 年だった。
そのころ、敷設されてまもないノロエステ鉄道沿線でも、日本人が借地農となり、資金の余裕があった者は、数戸ないし十数戸集まり、共同で土地を取得した。1910 年代半ばから 1920 年代にかけて、この方面にいくつもの日本人開拓地が出現する。つづいて、パウリスタ鉄道、アルタ・ソロカバナ鉄道、セントラル鉄道沿線でも日本人集団地が造成される。
サン・パウロ郊外には 1908 年以来、日本人が散発的に定住。1912 年よりモジアナ鉄道やパウリスタ鉄道沿線から転住した日本人が、ジャガイモ栽培をはじめる。野菜づくりが増えはじめるのは 1910 年代末からだった。
[注-17] サン・パウロ州政府と水野龍の間でかわされた契約条文によると、最初の移住者(向後 3 年間に合計 3000 人)は、サン・パウロ州内のコーヒー農場労働力として導入された。以後、太平洋戦争前( 1941 年 8 月まで)の日本人移住者は、原則として農業に従事することが条件とされた。実際には、農場労働力とはならず、市街地で就職した者や、植民地管理事務所職員として送出された者もいたので、すべてが農民だったわけではない。だが、農業移住者はどの船でも 95 % 以上を占めていた。そして、農業生産に従事するという点で、日本人がもっとも農業に密着していたことは否めない。一部はサン・パウロ近郊で借地農となった。ところで、笠戸丸の移住者は「 781 人」とされるが、この数字は皇国殖民合資会社が日本帝国外務省へ申請し、送出許可をえた人数である。同社とは別の手続きで笠戸丸に乗船した者もあり、実際の移住者は、さらに十数人多いようでだが、正確な数字は把握されていない(移住者、企業派遣出張員、観光旅行者の区別ができない)。
3 日本人の野菜栽培
今日の日本人は、日本在住者もブラジル在住者も、「日本人は野菜ずき、野菜をよく食べる」という。たしかに、現状はそうであるが、明治の初めまで、日本人の野菜摂取はひじょうにかたよっていた。世界的にみても、けっして「野菜をたくさん食べる」とはいえなかった。平素の食事にとりこまれ定着したのは、明治後半のことである[注-18]。この事実はあまり知られていない。
移住者のなかで、野菜摂取になれていたのは、小地主(自作小作と呼ばれる農家)または中規模農家で育った二、三男である(大規模農家の子弟で海外へでた者はきわめて少ない)。だから、コーヒー農場で就労したとき、すぐにコメを栽培したが、野菜はわずかしかつくっていない。もっとも、コーヒー農場に定着せず、数か月ないし 1 年で転出した者が多かったので、菜園をもうける余裕はなかったという理由もある。しかし、サン・パウロ郊外または近郊へ移転した者は、収穫物販売目的の農業をいとなんだから、野菜類専業として自立した。
日本人の野菜づくりは、笠戸丸移民にはじまる。もっとも早かったのは、鞍谷誠一で、1908 年 7 月に借地して野菜栽培をはじめた。場所はサン・パウロ郊外のモオカ区。少し遅れて 1911 年、上利山三郎が、サンターナ区で野菜づくりに着手。1913 年、迫盛吉、籠原藤助ら、鹿児島県出身者数家族(神奈川丸移民)が、サン・マルチーニョ農場をでて、サン・パウロ郊外モルンビー地区に土地を求め定着した。モルンビーには、瀬戸上金四郎がいて、ジャガイモを栽培していた。
旅順丸移民の馬見塚竹蔵が、ジャタイー農場(サン・シマン市ジャタイー農場、現ルイス・アントニオ市街地)からサン・パウロ郊外タイパース地区へ移転したのは、1912 年のこと。最初に野菜を植えたとされるが品目は不明。1913 年初め、鈴木貞次郎と季造兄弟が、サン・パウロ市内にくすぶっていた日本人青年 5 人を集め、コチア市カペーラ・ヴェーリャ地区でタマネギ栽培をはじめた。やせ地で作柄が悪く失敗。同年 10 月ころ、鈴木季造が青年(人数不明、2 人または 3 人と推測される)をつれて、同じコチア市のモイーニョ・ヴェーリョへ移転。ジャガイモ栽培をはじめる[注-19]。
一方、東側近郊では、モジ・ダス・クルーゼス市に日本人が集中。ジャガイモを栽培したが、それよりも野菜生産が多く、鉄道便でリオ市場へ送付し最大の供給源となる。リオの中心部に近いキンゼ・デ・ノヴェンブロ広場に市営市場があり、日本人として最初の委託販売人西谷一男が、1922 年から開業していた。
1920 年代後半にはトマト栽培が振興。1931 年、トマト加工をめざし生産者組合(非登録組合)を結成。1933 年にはトマト加工場建設に着手。西のコチア産業組合に対する東のモジ産業組合として、事業規模を拡大していった。
1930 年代にはいると、コチア村でも野菜栽培農家が十数戸あらわれた。ほかに、グアルーリョス市、マイリポラン市、サン・パウロ郊外イタケーラ、モルンビー、フレゲジア・ド・オー、タボアン・ダ・セーラ地区でも野菜農家が増えてくる。この時期に、サン・パウロ市内ではイタリア人労働者が急増。野菜消費者として需要を喚起しはじめた。生産と消費が同時期に増えていったわけである。
[注-18] 日本の人口構成で大多数を占めていた農民は、江戸時代をつうじて生活習慣が固定された。通貨の代用となるコメの生産を義務づけられ、ほかの作物栽培はかなりきびしく限定されていた。どの国(江戸時代後半には「藩」という名称が定着)でも、経済的価値の高い作目、つまり他国へ売りこむことができるような農畜産物(樟脳、ハッカ、ワタ、繭など)を奨励したが、野菜類の栽培については、「自家消費用にかぎる」という規制があった。自家消費用というのは、主として漬け物材料である。農民はもとより、武家も町家も「一汁一菜」が食事のパターンとされていた時代であるから、主食はコメ(またはオオムギ、アワ、ヒエ)、副食はみそ汁と漬け物だった。サツマイモ、ヤマイモ、カボチャなどは「主食の代用」とされ、副食ではなかった。こうした食習慣のなかで、ナス、キュウリ、ニンジンなどのはいりこむ余地はなく、いわば「ごちそう」だった。江戸時代をつうじ、日本人の野菜摂取量はきわめて少なく、地中海沿岸地方の住民にはおよばなかったであろう。日本の食習慣が変わったのは、明治になってからである。農家に対し「作目選択の自由」と「農畜産物販売の自由」が認められた。米作に固執する必要がなく、何を栽培しようが、どの家畜を飼育しようが自由になったので、少しずつ販売用の野菜を栽培しはじめた。明治の末から大正時代にかけて、すでにかなりの野菜を摂取するようになっていたが、貧農はかならずしも野菜を栽培していない。小作人と呼ばれる農家の立場は、江戸時代と実質的になんら変わらず、地主に搾取されていたことから、一汁一菜の食習慣をあらためることができなかった。1908 年以降、ブラジルへ移住した日本人のなかに、こうした貧農に生まれた者がかなり数えられた。とくに、沖縄県、鹿児島県、熊本県出身者はそうである。
[注-19] 鈴木季造がモイーニョ・ヴェーリョ(コチア市)へ移転したとき、兄の鈴木貞次郎がグアタパラ農場へいき、日本人仲間へ「モイーニョ・ヴェーリョでイモづくりをやろう」と勧めた。これに応じて森田庫吉が、サン・パウロへもどる鈴木に同行し、モイーニョ・ヴェーリョへいく。つづいて、栢野源藏、神原木平。さらに、難波実、高桑治平、原見瀬平らが、グアタパラ農場から転出。1914 年にはさらに数家族がふえ、ちょっとしたジャガイモ産地が形成された。モイーニョ・ヴェーリョにはその後も転入家族があり、1916 年に日本人会を結成。一般に「コチア村」の名で知られる。日本人の大半がジャガイモを栽培した。1920 年代をつうじ、サン・パウロ市西側近郊では、モイーニョ・ヴェーリョが最大の日本人集団地であり、ジャガイモ生産のリーダー格となる。1927 年にコチア産業組合を設立。ラテン・アメリカ地域で最大の農協へと発展した。
4 野菜販売とフェイラ
日本人がブラジルへ移住しはじめた 1900 年代後半から 1910 年代前半にかけて、サン・パウロ市では都市化が進んだ。同時に、青果物流通における大きな転換期でもあった。既述のとおり、路上販売や流しのキタンデイラが減少し、野菜についてはメルカード・グランデ、メルカジーニョ、コンコルディア市場に集中。農家が直接販売するケースは少なくなり、卸売業、小売業という分業が進行しつつあった。
メルカード・グランデは、1907 年にとりこわされ、前面の広場もふくめた敷地いっぱいに、レンガづくり瓦屋根の大きな市場を新築。ボックスはすべて野菜の卸売商人が占める。小売販売人は、隣接するカイピーラス市場、アニャンガバウのメルカジーニョ、あるいはコンコルディア市場(ブラス区コンコルディア広場)へ移転した。なお、メルカジーニョは、1896 年、サン・ジョアン街の幅員拡張計画によりアニャンバガウ(現サンタ・イフィジェニア陸橋下)へ移転。トタン屋根のみすぼらしい施設だったことから、1914 年に閉鎖される。
メルカード・グランデの卸売取引については次項にゆずり、先に小売部門を考察しよう。19 世紀最後の 25 年間、都市美化計画によりサン・パウロ市街地中心部は、すべて近代建築に変わった。ところが、1900 年代にはいり、あらたな都市化計画がもちあがる。街路の幅員拡張、舗装、街路樹栽植、街灯増設である。街路整備は 1870 年代からはじまっていたが、このたびは、郊外へつうずる道路の美化に重点をおく。1906 年、ベルダーデ街 (Rua da Liberdade) とコンソラサン街 (Rua da Consolação) の幅員拡張、舗装、緑化を実施。
サン・ジョアン街の幅員拡張は 1897 年からはじまっていたが、1914 年には、現在の地下鉄マレシャル・デオドーロ駅までの区間が完工。この計画により、サン・ジョアン街の幅員( 10 メートル)が、30 メートルに拡張された。もちろん、舗石 (Paralelepípedo) が敷き詰められ、街路樹も栽植される。1910 年から 1911 年にかけて、カルモ低地とアニャンガバウの緑化計画が実施される。これらの工事にともない、19 世紀最後の 25 年間に建築された商店や住宅がとりこわされ、トリアングロの繁華街([注-8]参照)では高層ビルの建築がはじまる。
アニャンガバウ( 1880 年代後半、シャー陸橋付近の低地には架橋工事の労働者住宅がならんでいた)の改造にともない、1914 年メルカジーニョも閉鎖された。常設市場に代わるものとして、1914 年 8 月 25 日、サン・パウロ市長ワシントン・ルイス・ペレイラ・デ・ソウザ (Washington Luís Pereira de Sousa) は、市営フェイラの開設を決定。フェイラ時代の幕開けとなる。
第 1 号計画としてジェネラル・オゾリオ広場 (Largo do General Osório) に開設。第 2 号はアロウシェ広場で、1962 年まで存続。さらに、ブラス区のモライス広場 (Largo de Morais) 、サン・ドミンゴス広場 (Largo de São Domingos) 、リベルダーデ区のサン・パウロ広場 (Largo de São Paulo) にも開設。
ここでいうフェイラは、それ以前のものと外見は似ていても、根本的な相違がある。18 世紀後半のセテ・カジーニャス街やキタンダ街では、路上の物売りが勝手に常設露天市とした。1914 年にはじまるフェイラは、市役所が場所を指定。商人は登録して営業許可を取得する。販売品目も規則で制約された。市役所が管理し、フェイランテは規則にしたがわねばならない。この時点をもって、市営フェイラのはじまりとする(それまでラッパ、ピニェイロス、ヴィラ・マリアナにあったフェイラは、市役所が場所を指定したにもかかわらず管理せず放置され、私設フェイラのような格好になっていた)。
商人は登録制としても、取り締まらなかったので、市営フェイラにはだれでも自由に出店できた[注-20]。だが、1930 年代にはいると、規則もきびしくなる。1934 年 5 月 28 日、サン・パウロ市長アントニオ・カルロス・アスンサン (Antônio Carlos Assumpção) は、決定第 635 号 (Ato nº 635) により、フェイラの取り締まりを強化。つぎのようにさだめた。
顧客の応対にあたり、言葉つかいに気をつけ愛想をよくするようつとめること。騒音をたてないこと。商品の陳列は整然とし、衛生に配慮し清潔を維持すること。計量は市役所の規則にしたがい、ただしくおこなうこと。偽造商品を売らないこと。商売にあたり、交通のさまたげにならないよう気をつけること。広場の花壇を損傷しないこと。商品は路上におかず、路面より高い台を使うこと。市衛生部の規則にしたがい、偽装品、腐敗品、損傷品などを売らないこと。既定のフェイラ開始時間前に販売しないこと。終了時間をこえて商売をつづけないこと。指定の場所とちがうところで商売しないこと。販売人の衣服および使用器具は清潔なものをもちいること。フェイラの場を清潔にすること。
1946 年、パウロ・ラウロ市長 (prefeito Paulo Lauro) は、市法 (Lei Municipal) により、フェイラは「少なくとも週に 1 回、同一場所に立つ」よう規定。1950 年代から 1960 年代にかけて、フェイラで販売する商品について規制。食料品を主体とするが、最初は「腐敗しないもの」にこだわった。1950 年代にはいると、「市民の食生活に必須の食品」ということで、生鮮肉や鮮魚の販売がみとめられる。ほかに、台所用品、衣類、小間物も認められた。
1970 年代にはいると、小売業界におけるスーパーマーケット[注-21]のシェアが拡大。フェイラはおされぎみになる。市役所内部ではフェイラ廃止案までとびだした。だが、フェイランテ協会(フェイラの商人による団体)の政治力により、廃止案はほうむられた。以後、市役所は、フェイラの雑踏と交通障害について監視を強化。商人側も、大声での呼び込みや、騒音発生について自粛した。営業終了後は、市役所の清掃班がやってきて、路上の大きなゴミをあつめ、散水して元のきれいな街路にする。
[注-20] 1910 年代のフェイラは、市営といっても、今日のような販売用屋台はもうけられていない。路上に商品をならべるだけ。したがって、無許可の農家が勝手に野菜、果実、花などを売る。1920 年ころには、日本人農家も、不定期ながらフェイラに野菜をならべて販売した。一方、市営フェイラとは別に、人の集まる広場では「夜店」がならび、ときどきサーカスもあった( 1910 年代~ 1920 年代)。これもフェイラと呼ばれる。アロウシェ広場、レプブリカ広場、アニャンガバウ、カルモ低地などである。
[注-21] スーパーマーケット (Supermercado) はアメリカで発生。ブラジルでは、1952 年、サン・パウロ市で開設された「シルヴァ・セ」 (Sirva-se) をもって嚆矢とする。場所はコンソラサン街とアラメーダ・サントス通り (Alameda Santos) の角。セルフサービス方式もブラジルでは初めてだった。サン・パウロ市民にはなじみにくかったが、1960 年代にはいりスーパーマーケットが続々と開設され、急速に慣れてしまう。当時は「安値」をアピールしたので、消費者はスーパーマーケットへと流れた。
5 サン・パウロ市営青果物卸売市場
ところで、メルカード・グランデの卸売機能はどうなったのか。1907 年の改築からあと、小売業者は排除され、実質的な市営青果物卸売市場[注-22]となった。青果物といっても、野菜類と果実類に大別される。果実のなかでもオレンジ、バナナ、スイカは需要が多いだけに、販売ボックスにおけるスペースも大きい。したがって、メルカード・グランデの改築で一時休業したとき、卸売商人は近くに専用倉庫をかまえた。
メルカード・グランデへ仕入にくるのは、メルカジーニョとコンコルディア市場の小売商人。そして、中心街から排除され郊外へ移動したキタンデイラである。1914 年、小売市場が閉鎖されたあとは、フェイラの商人がメルカード・グランデを利用した。第一次世界大戦後、フェイラもキタンデイラも、旧中心部ではなく「 19 世紀に郊外と呼ばれていた地区」で商売をおこなった。
第一次世界大戦のころ、郊外というのは、現在のドン・ペドロ二世公園 (Parque Dom Pedro II) より東側、イピランガ大通りおよびコンソラサン街より西側、マウアー大通りより北側、パウリスタ大通り、ペドローゾ街、サン・ジョアキン街より南側である。高級住宅区は西から西南方向へひろがった。北から東、東南方向は、町工場と労働者階級居住区。南側の開発はおくれており、1940 年代になって成金族の住宅建築がはじまる(現在のアラメーダ・サントス通り、レボウサス大通り、ブラジル大通り、ブリガデイロ・ルイス・アントニオ大通りで画される地区)。
フェイラはまず北から東の工場労働者居住区で増設された。したがって、野菜果実の品質はあまり問題にならない。ポルトガル人農家が生産するものでまにあっていた。高級住宅街で優良品を要求するのは、1930 年代、日本人農家が増えてからである。それまでは、メルカード・グランデも、従前とおなじ考えで商売をつづけてきた。
委託販売がいつごろから定着したかは、はっきりしない。おそらく、メルカード・グランデの改築( 1907 年)後と推測される。サン・パウロ郊外には、旧貴族階級の別荘がいくつもあった。1890 年代から 1900 年代にかけて、多くの貴族が没落したとき、新来移住者のうち資金力のある者(イタリア人、ドイツ人、ポルトガル人)が購入。小規模(数ヘクタール)ないし中規模( 10 ha ~ 20 ha )の野菜果樹栽培をはじめる。それまでのポルトガル人農家とちがい、自家消費のあと残った収穫物を売るということではなく、最初から「カネもうけのための販売」を目的とした。したがって、取引の安定を考えねばならない。そのために、メルカード・グランデの卸売商人と委託販売契約をむすんだ。
1910 年前後のメルカード・グランデには、すでにイタリア人、ドイツ人がいて、大きな商売をおこなっていた。ポルトガル人は数こそ多かったが、取引量は少ない。あとから参入したイタリア人やドイツ人におされて、市場内のリーダーシップをとることはできなかった。時代遅れのポルトガル人に代わり、新来商人が市場を牛耳ったのもとうぜんであろう。青果物卸売商として日本人の参入はずっと遅く、1928 年に新垣亀が委託販売人となる[注-23]。その後、1931 年から日本人がふえはじめた。
卸売商人は、フェイランテなどサン・パウロ市内の小売商を相手にするだけでなく、サントス、カンピーナス、リオとの取引もあった。とりわけ、農業生産の少ないリオでは、キンゼ・デ・ノヴェンブロ広場の卸売市場で、しばしば野菜の供給不足がおこる。この補給を担当したのがサン・パウロ市の商人だった。1920 年代には、メルカード・グランデに近いパリ駅から、汽車でリオ市場(マウアー駅)へ送付する量が増えていた。
さらに、近郊農家のうち、セントラル鉄道沿線(イタケーラ駅からロレーナ駅の区間)の生産者は、大半がリオ市場の商人と取引した。サン・パウロへ出荷するのも手間はおなじ。リオ市場の価格は高く、運賃差を控除してもなお純益は大きい。1920 年代後半、モジ・ダス・クルーゼス市に日本人が集中しはじめると、野菜類のほとんどをリオへ送った。
サン・パウロ市の人口増で近郊にイタリア人、ポルトガル人ら野菜栽培農家がふえ、1910 年代には大きな野菜産地となっていた。生産物を売りさばくため、メルカード・グランデが青果物卸売市場として機能したほか、リオ市場への供給源ともなったわけである。サン・パウロの卸売市場は、野菜果実の集散基地としての性格を強めていく。たんなるサン・パウロの市場ではなく、ブラジルの二大都市における台所をまかなう重要な流通施設でもあった。この集散機能は、1930 年代をつうじて、日本人が参加したことにより、ますます重要性を帯びたものとなる。
日本人は生産および流通の両面で活躍。サン・パウロ近郊に集中し、1910 年代後半、ジャガイモの大産地をつくりあげたあと、1920 年代後半は、各種野菜の増産に献身する。生産の主力はイタリア人、ポルトガル人であっても、あらたな栽培品種を日本から導入し、普及させた点で顕著な活動をみせる。日本人の生産量はまだわずかだったが、栽培品種数をふやしたことにより、味や香り、色彩の相違で食卓をにぎわせた。
卸売市場では、1934 年に、委託販売人(およそ 50 人)のうち、20 人が日本人だった。1939 年には 30 人をこえ、市場内の主導権をにぎる[注-24]。日本人の数がふえたのは、サン・パウロ近郊における日本人農家の野菜生産量が増大したからである。1933 年末に、在サン・パウロ日本国総領事館勧業部調査によると、ジャガイモ農家をふくめ、サン・パウロ市および近郊一帯で野菜類を栽培する農家は、2,000 戸近くあった。これがひとつにまとまるなら、大きな生産力となるであろう[ひとつにまとめて連合会を組織する構想については後述]。
[注-22] 市営青果物卸売市場という名は存在しない。1867 年の開設以来、1937 年の閉鎖まで、メルカード・グランデが正式名称だった。しかし、1930 年代前半、市場内に日本人の卸売商がふえる過程で、メルカード・グランデを略して「メルカード」と呼び、さらにエントレポスト( Entreposto 、青果物卸売市場)とも呼ぶようになる。この名は、コチア産業組合の内部資料にみられるが、1930 年代に日本人の間で使われたようである。
[注-23] メルカード・グランデへ、青果物委託販売人として参入した日本人は、新垣亀が最初とされる。だが、同じころ今村宇八も参入しており、どちらが先かは不明。ただ、今村の商売はのびず、新垣が販路をひろげたことから、日本人の間で名が知られるようになった。
[注-24] 青果物卸売市場(メルカード・グランデ)内の主導権について、エピソードがある。1933 年、コチア産業組合は卸売市場内のボックス使用権を取得し、蔬菜部販売所を開設した。1934 年 4 月末から 5 月末にかけて、サン・パウロ近郊の日本人野菜栽培農家があつまり、共同販売について協議。コチア蔬菜部販売所を、サン・パウロ市における共同販売所とした。コチアは現役委託販売人のうち、入荷量が多く信用度の高い 5 人をえらび、固定給で販売を担当させる。日本人の野菜がコチア販売所へ集中しはじめると、ほかの日本人( 15 人)の店では入荷量が減少した。これを不満とする委託販売人は、ほかの仲間(ポルトガル人、イタリア人、ドイツ人ら)と結託。市役所へはたらきかけ、コチア蔬菜部の妨害をなす。入荷税の監督をコチアに対してだけきびしくした。コチアは卸売市場からでて、別に販売倉庫を開設したが、市役所の入荷税はつきまとう。理由は、「非組合員の野菜も販売しているから」というもの。市場外の取引で「市営市場入荷税」を課せられたのはコチア産業組合だけ。そうなるようしむけた日本人委託販売人の政治力は絶大だったといえる。結局、この問題は、1935 年 4 月から 6 月にかけて、コチア産業組合が非組合員を加入させたことで解決した。
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