<< 第 2 章 サン・パウロ近郊における野菜生産
第 3 章 日本人農家の生産活動
1 集団地づくりと協同組合
日本人がサン・パウロ郊外および近郊で野菜栽培をおこなうにあたり、規模の大小はあっても、集団地をつくる傾向にあった。短期間に 100 家族をこえる集団地を形成したのは、西のコチア村と、東のモジ・ダス・クルーゼス市だった。1920 年代には、ジュケリー、レジストロが大きな集団地となり、サン・パウロ郊外のサント・アマロ、イタケーラにも野菜産地が形成される。それぞれ、生産物の共同出荷を考えるようになった。この考えと組織は、やがて協同組合へと発展する。
1920 年代から 1930 年代にかけて、野菜栽培成功のカギは、生産者協同組合組織[注-25]にあった。組合ができるまでは、青果物卸売市場の委託販売人に搾取され、なかなか利益があがらない。ジュケリー農産組合( 1929 年 12 月設立、1954 年にスールブラジル農業協同組合中央会へ改組)、イタケーラ産業組合( 1931 年に出荷組合として発足したあと、1933 年 1 月、産業組合に改組し登記)、モジ産業組合( 1931 年 10 月に任意組合として発足し、1933 年 8 月にモジ産業組合に改組)がなんとか販売を軌道に乗せた。
任意組合は 1931 年から 1934 年にかけて組織された。コチア蔬菜出荷組合( 1931 年)、イタイン・パウリスタ蔬菜出荷組合( 1932 年)、ボンスセッソ蔬菜出荷組合( 1933 年)。ほかに、設立年度は不詳だが、1933 年から 1935 年にかけて、モルンビー蔬菜出荷組合、フレゲジア・ド・オー蔬菜出荷組合、タボアン農会、リノポリス蔬菜出荷組合、カポテーラ蔬菜出荷組合、ペルース蔬菜出荷組合、グアルーリョス蔬菜出荷組合、フェラース・デ・ヴァスコンセーロス蔬菜出荷組合、スザノ蔬菜出荷組合、バルエリー蔬菜出荷組合、サン・ベルナルド・ド・カンポ蔬菜出荷組合が組織されている。
これらの任意組合は、1937 年までに登記組合(コチア、ジュケリー、イタケーラ、モジ)のいずれかに併合される。最大の理由は販売手段にあった。任意組合は独自の販売施設をもっていない。青果物卸売市場の商人へ出荷するにあたり、小型トラック( 1 トン車)をチャーターしやすいよう収穫物をとりまとめたにすぎない。そのためだけの組織であるから、全体の運賃は節約できても、販売価格で有利な立場を維持することはできなかった。数量がまとまるほど、商人は搾取しやすかったからである。
したがって、取引における力関係は商人のほうが圧倒的に強く、生産農家は弱い立場にあった。この点では、登記組合も同じだが、コチア産業組合だけは例外で、独自の販売所を開設し有利な取引をおこなう。これに刺激され、1937 年以降、ほかの登記組合も商人との委託販売契約を解除し、直接小売商人へ売るシステムを構築した。こうした事情から、1930 年代におけるサン・パウロ近郊の野菜生産は、日本人の組合ぬきに語ることはできない。
[注-25] 生産者協同組合 (Cooperativa dos Produtores) のことを、日本では「産業組合」と呼んでいた。1900 年に制定された法律で、この語を採択したからである。ブラジル在住日本人のうち、移住前に産業組合の組合員だった者、職員として勤務した者もいて、名称は知っていた。だから、1919 年以降、生産者組合の設立を考えたとき、「産業組合」という名を使うことにした。なお、日本で「農業協同組合」 (Cooperativa Agrícola) という名称が採択されたのは、1947 年制定の農協法が最初とされる。なお、ブラジルの農協は、”Cooperativa Agrícola Mista” という名を採択するものが多い。「混合型農協」という意味。販売および購買事業を主目的とし、あるいは信用事業、利用事業もふくめた総合農協という性格を強調した名称である。だが、農協の場合、これらの事業について、たったひとつしか実施しない「専門農協」は皆無といってよい。したがって、”Mista” (混合型)という語に特別な意味はなく、たんなる「飾り言葉」と解釈してよい。
2 コチア蔬菜出荷組合
まず、コチア村の野菜栽培農家をとりあげる。日本人のほとんどがジャガイモを栽培。数戸は小規模なジャガイモ栽培のほか野菜もつくり、同地の日本人仲間へ売っていた。域内消費であるから生産量も少ない。ジャガイモ生産者はどんどん規模を拡大し、鼻息が荒かった[注-26]。1 ヘクタールにもみたない小面積の野菜栽培は肩身がせまい。だが、仲川賢一だけは、ジャガイモ農家の生産競争をよそに、野菜をつくり、数十羽のニワトリも飼育。わずかな野菜と鶏卵を生産しながら、技術研究をつづけていた。だれしもが仲川の技術をみとめ、「野菜の先生」と呼んでいた。
そのうち、数人が仲川を先生に「野菜研究会」のような懇談会をもよおした。1928 年には 10 人くらいのグループになる。なかには、ジャガイモ栽培の中規模農家もいた。イモ単作のリスクを野菜で緩和させようという考えである。野菜の販売を有利にするため、彼らは仲川に野菜づくりの秘訣を教えてもらうとともに、販売組織づくりについても相談。グループのテーマはしだいに販売方法に集中されていった。この議論については、ジャガイモ栽培農家も知っていたが、「百姓にあらず」と決めつけた零細農家であるから、見向きもしない。
とりあえず共同出荷体制づくりを検討した結果、1931 年 1 月(日は不明、上旬と推測される)、野菜栽培農家 16 戸による「コチア蔬菜出荷組合」(任意組合)が設立される。生産物を共同販売するほか、生産資材の共同購入もおこなう。初年度( 1931 年)は、市場の様子がよくわからないので、委託販売人新垣亀と契約した。もっとも、市場内の販売ボックス使用権( 10 コント)を取得するだけのカネがないという事情もある。だが、委託販売方式は生産農家にとって不利な点に変わりない。野村芳春、仲川賢一ら出荷組合幹部は、販売に苦労した話がつたわっている。
1930 年から 1933 年にかけて、世界経済恐慌のあおりでジャガイモ相場は低迷をつづけた。コチア組合も大打撃をうけ、経営そのものがあやぶまれる状態におちいる。組合員の間では、「ジャガイモ単作は危険だ」との意見がでて、野菜栽培に走る者が続出。1932 年には、出荷組合加入者が 30 戸をこえていた。彼らは、「コチア組合が野菜を販売すべきだ」と考え、組合理事会へ要請したが、経営危機におちいっていた時期であるから、野菜にまでは手が回らない。また、不況のなかでも大手組合員は資金の余裕があり、野菜部門に手をだすつもりはない。下元健吉専務理事が「蔬菜部設置案」をもちだしても、頭から大反対だった。
いろいろ経緯はあったが、出荷組合は 1932 年 2 月 6 日、サン・パウロ市内バラン・デ・ドゥプラー街 (Rua Barão de Dupurat, 292) に倉庫を賃借。それまでの委託販売契約を破棄して、出荷組合の名で野菜の卸売販売をはじめる[注-27]。一方、コチア産業組合は、同年 5 月 8 日、蔬菜部に設置を決定。コチア蔬菜出荷組合購買部を、コチア産業組合購買部支所とし、生産資材や食料品の配給をおこなう。
1933 年になって、協同組合法の公布[注-28]にともなう組織変更の必要が生じ、コチア産業組合は定款を改正( 1933 年 8 月 20 日招集臨時総会)。組合員の資格をジャガイモ生産者に限定せず、すべての農業生産者が加入できるようにした。そして、蔬菜部は、コチア蔬菜出荷組合の事業をそっくり継承する。
野菜だけを栽培する農家も、コチア産業組合の組合員となる。出荷組合の販売所を利用していた各地域の日本人農家も、コチア組合員として迎えられた。こうした手続きがうまくいったのは、猛烈に反対していたジャガイモ生産組合員の意識が、大きく変わったからでもある。それは、1933 年 7 月 13 日および 14 日と 2 晩つづけて発生したひどい降霜の副産物でもあった。サン・パウロ近郊のジャガイモ農家は、ほとんどが大損した。もちろん、野菜農家も被害をこうむった。だが、生き残ったわずかなトマトが、7 月末から 8 月半ばにかけて出荷されたとき、市場でうばいあいとなって相場は暴騰。比較的軽微な被害ですんだコチア村のトマト栽培農家は、かなりの利益をあげることができた。
「野菜といえども、こんなにもうかるものか」と、認識をあらためたジャガイモ専門農家は、ようやく野菜栽培について考えるようになった。彼らの風向きがかわったことは、コチア蔬菜出荷組合にとって予想外のこと。販売の赤字で肩身のせまい思いをしていた立場を、いっきょに好転させるチャンスともいえる。そして、1933 年の大霜害は、コチア産業組合へも、事業発展のあらたなきっかけをあたえた。
[注-26] 1920 年ころのサン・パウロ近郊では、5 ヘクタールも栽培すると、「大百姓」とみられた。コチア村ではすでに 10 ヘクタール規模が数戸あり、組合を設立した 1927 年ころには、「普通の規模」になっていた。ほかの集団地では、 1 ヘクタールから 3 ヘクタール規模が多かったので、コチア村だけが特別に大規模だったといえる。そうした環境のなかで、1 ヘクタールにもみたない野菜づくりは、肩身がせまかった。ジャガイモの大手農家は、「イモつくりにあらずんば百姓にあらず」と広言してはばからない。だからこそ、コチア村では野菜栽培が発展しなかった。事情が変わるのは1927 年ころからである。仲川賢一という青年がいた。資金力がとぼしく、ジャガイモ栽培は無理との判断から、若夫婦で野菜だけを栽培していた。ひじょうに研究熱心で、良質の野菜をつくろうとこころがけ、さらに生産性の追求もした。野菜を手がける零細農家から「先生」とみなされ、やがてはじまる野菜の直売では責任者となった( 1933 年から 1934 年にかけてコチア産業組合蔬菜部主任をつとめる)。
[注-27] コチア蔬菜出荷組合がバラン・デ・ドゥプラー街に開設した販売所は、サン・パウロ近郊の日本人農家が、卸売販売のため開設した最初のケースである。同じ販売倉庫内で購買事業もおこない、これが大きな武器となった。同年 1 月に 29 人だった出荷者は、5 月末時点 38 人に増えていた。いずれもモイーニョ・ヴェーリョ在住者であるが、このあと、エメボイ(現エンブー・ダス・アルテス市)をはじめ、サン・パウロ市の西北から西にかけての郊外、タイパース、フレゲジア・ド・オー、ジャグアレー、リオ・ペケーノ、ヴィラ・ソニア、カンポ・リンポといった地区で野菜栽培をしていた日本人が加入しはじめる。販売所の利用と同時に、生産資材を安く入手できるのが魅力だった。出荷組合は任意団体であるから、非組合員でも購買商品を購入できる。卸売市場の商人と委託販売契約をむすんでいる日本人が、出荷を終えたあと、コチア蔬菜出荷組合購買所へ立ち寄り利用するようになった。
[注-28] ブラジルに協同組合組織の考えが導入されたのはかなりおそく、1880 年代である。最初に紹介されたのはドイツのライファイゼン組合をモデルとする農村信用協同組合だった。だが、ブラジルの小規模農家、零細農家には理解しがたいものであり、だれもとりあげようとはしない。1890 年代になって、鉄道会社やガス会社、市役所などの共済組織が、購買組合について検討しはじめる。たいがいはシンジケート組織として登記。リオ・グランデ・ド・スル州では酪農組合がいくつか設立されたが、いずれも未登記で営業していた。1907 年 1 月 5 日、大統領令第 1637 号 (Decreto-Lei Nº 1637) により、職業シンジケート (Syndicatos Professionaes) および協同組合 (Sociedade cooperativa) に関する規則が制定された。ただし、細則がわずかしかなく、「組合組織は、シンジケートとするか株式会社とするか、いずれか一方を採択すべし」ということしか規定していない。だから、コチア産業組合の場合、設立当初は「株式会社」とした。設立時の名称は、「有限責任株式会社コチア・バタタ生産者産業組合」 (Sociedade Cooperativa de Responsabilidade Limitada dos Produtores de Batata em Cotia, Sociedade Anônyma) 。本レポートでは、「コチア産業組合」としているが、この名を採択したのは、1933 年 8 月 20 日(臨時総会を招集し定款を改正した時点)である。1932 年 12 月 19 日付大統領令第 22239 号 (Decreto-Lei nº 22239) により、初めて協同組合法が制定された。それにしたがい、株式会社を協同組合にあらためた。
3 在サン・パウロ日本帝国総領事館勧業部
降霜でトマト相場が暴騰。1933 年 7 月後半から 11 月まで高相場がつづく。霜害をうけた農家は、損失をとりもどそうとあせる。無理な算段で植付資金を用意し、作付面積を拡張した。それまでトマトを栽培したことのない農家も、「トマトはもうかる」と知って作付をはじめる。日本人はもとよりポルトガル人、イタリア人もトマト作付レースに参加。同年 8 月から 9 月にかけて、サン・パウロ近郊では、トマト圃場が急増した。そして、12 月、収穫がはじまると供給過剰で相場は下落。翌年 1 月から 2 月にかけて、サン・パウロ市場もリオ市場も、トマトの洪水といった観を呈する[注-29]。
極端な生産過剰であるから、相場の低迷はとうぜんだが、借金をかかえこんだ農家をどうにかしなければならない。これを憂慮したのが、在サン・パウロ日本帝国総領事館勧業部[注-30]だった。総領事館は本来、領事事務をあつかう在外公館であるが、19 世紀以来、先進国の領事館は非公式な経済調査を最大の業務としてきた。日本も明治になって外国へ設置した領事館は、この任務を第一義としている。勧業部主任は農業技師の江越信胤。
それまでに各種の農業調査をおこなってきたが、サン・パウロ近郊農業には強い関心があった。1933 年の霜害についても調査し、技術的アドバイスもしていた。営農の多角化を勧めているうちに、同年 12 からトマト相場が下落。年が明けると、どうにもならない状態になった。勧業部としては、至急に邦人農家救済対策[注-31]を考えねばならない。サン・パウロ近郊農家の霜害を知って、手をこまねいているわけにはいかず、江越主任は適切な手段がないかと考えた。浮上したのは、近郊農家の大同団結である。
勧業部の調べによると、当時のサン・パウロ近郊で野菜栽培に従事していた日本人は、およそ 2,000 戸とされるが、ジャガイモ専業農家もふくむので、野菜農家は「ざっと 7 割」とみられる。それぞれ勝手な思惑でトマトを栽培したため、相場暴落をもたらした。一致団結して生産をコントロールし、共同販売をおこなうなら、このような事態を回避できる。だから、統一行動ができるような組織づくりを考えた。
だが、大同団結といっても、かんたんではない。すでに協同組合と任意団体としての蔬菜出荷組合が存在する。コチア産業組合のように、ジャガイモ生産農家と野菜栽培農家の対立という問題もあった。組合だけの組織については、サン・パウロ州内全域を対象とする日本人の協同組合を糾合した統一機関を設置することはできる。事実、勧業部の指導により、1934 年 4 月 23 日に「日伯産業組合中央会」(理事長=佐々木光太郎、専務理事=下元健吉)が発足した。つぎは、近郊農家の統合である。勧業部が考えたのは、「サン・パウロ市近郊蔬菜業者連合会」[注-32]だった。
[注-29] 1933 年暮れからトマト相場が下落しはじめ、1934 年 1 月にはいるとすぐ、供給過剰で暴落。いくつかの刊行物に紹介された記述を総合すると、つぎのようである。トマトの卸売価格は、特級品(ポルトガル語でエスペシアル)が 1 箱 4 ミル・レイス、1 級品(同プリメイロ)が 2 ミル・レイス。さらに下がって 800 レイス( 0.8 ミル・レイス)となり、「箱代にもならない」といわれた。そのころの箱代は 600 レイス( 0.6 ミル・レイス)。下元健吉専務理事は、「せめて箱代だけは払ってやりたい」と提案。実際の取引価格に上乗せした。野菜農家は喜んだが組合は欠損となる。「箱代にもならない」とか「運賃もでない」というのは、ブラジルにおける口ぐせのようなもので、農産物相場が極端に低いときの慣用語とされる。
[注-30] 日本帝国外務省がサン・パウロ市に開設した総領事館( 1915 年開設)は、領事事務のほか管内在留邦人保護と経済調査を主たる任務とした。経済関係はブラジルとの通商を前提とする調査、そして、邦人(大半が農業者)支援を目的とする農業調査である。通商調査のなかには、コーヒーや原綿の生産状況もふくまれており、農業関係に重点がおかれていた。そのため、1921 年 12 月、海外興業株式会社を退職した江越信胤(東京帝国大学農学部卒農学士)をまねき、事務嘱託という資格で農業担当者とした。1924 年 8 月、江越技師を日本帝国外務省嘱託とし、改めて在サン・パウロ総領事館勤務を命じる。同時に、江越を主任とする農事部を開設。当初は江越ひとりだけだったが、まもなく北村豊造(農林技手)が派遣され助手となった。1929 年 5 月 8 日、日本帝国政府は、外務省拓務局を廃止し拓務省を新設。初代拓務大臣は田中義一首相が兼任。同年 6 月 10 日から業務を開始するとすぐ、在サン・パウロ日本帝国総領事館農事部を拓務省へ移管。勧業部として発足した。このとき、江越以下、農事部所属館員は、外務省から拓務省へ移籍。あらためて、拓務省派遣サン・パウロ駐在官として業務を継承した。
[注-31] 困窮する邦人農家救済対策もまた、勧業部の仕事である。1925 年から1926 年にかけてコーヒー相場が低迷したとき、ノロエステ鉄道沿線の日本人農家が、救済策として帝国政府の特別融資を要請した。さらに、アルタ・ソロカバナ鉄道沿線のコーヒー栽培農家も同調し陳情。当時のブラジル駐在大使、田付七太は現地視察したあとすぐに本省へ報告電報を打つ。同時に、特別融資の必要性について意見具申。帝国議会もこれを承認し、1927 年度予算に総額およそ 85 万円あまりを計上した( 1927 年 9 月に融資実務を開始)。一般に「八五融資」(または八五低資)と呼ばれる。困窮者むけの長期低利融資だが、利用者の大半は比較的資金余裕のあった「地方ボス」だった。生活に窮する小規模、零細規模の農家にはまわらず、無意味な結果に終わる。それでも、形式上、救済策にはちがいない。これが前例となっているため、サン・パウロ近郊農家の霜害を知った勧業部が、傍観することはゆるされなかった。
[注-32] サン・パウロ市近郊蔬菜業者連合会は仮称である。当時の刊行物には、「聖市近郊邦人蔬菜業者連合会」「聖市近郊蔬菜栽培業者連合会」「サンパウロ近郊邦人蔬菜栽培業者連合会」といった名がみられる。一般に「蔬菜栽培業者連合会」または略して「連合会」を使っていたようである。
4 日本人農家連合会構想
日本人農家 2,000 戸の統一組織を、すぐにつくることはできない。連合会構想は将来の課題とし、前段階となる別の機関を設置しようと考えた。1934 年 3 月 19 日、勧業部の江越信胤主任、青木林蔵技手の肝いりで、「サン・パウロ近郊邦人蔬菜業者懇談会」を開催。野菜農家を統合する組織について話し合った。最大の論点は、農家が個別に参加するのか、それとも組合単位の組織にするのか。組合単位の場合、既存の事業体(登記組合および任意団体)だけの統一機関なのか、あるいは、近郊で生産活動をおこなうすべての日本人農家を、いずれかの組合に加入させるよう義務づけるのか。どの案も微妙な問題をふくみ、議論はながびいた。
結論として、既存組合を単位とする案を採択。登記組合はコチア産業組合、モジ・ダス・クルーゼス産業組合、ジュケリー農産組合、イタケーラ産業組合。任意組合はイタイン農産組合(サン・パウロ市内イタイン・パウリスタ区)、モルンビー蔬菜出荷組合(同モルンビー区)、フレゲジア・ド・オー蔬菜出荷組合(同フレゲジア・ド・オー区)、ボンスセッソ蔬菜出荷組合(グアルーリョス市ボンスセッソ区)。
1934 年、サン・パウロ市の人口は推定 90 万。[注-33]。サン・パウロ近郊の日本人農家は、総人口と消費人口、購買力、食習慣といった消費環境条件を理解していたわけではない。だが、市場といえばサン・パウロ市とリオ市だけをターゲットとみなした。そして、どちらかといえば、リオ市場を重視した。需要が大きいのにくわえて、野菜の取引価格が全般的に高かったからである。サン・パウロ近郊農家の統一機関を視野にいれ、とりあえず、二大都市を対象とする販売機構の検討にはいった。
総領事館勧業部の提案をうけいれ、既存組合から 1 名ずつ代表をだして委員会を設置。業務細則を作成することにした。4 月 25 日の委員会で蔬菜共同販売所の設置を決定。サン・パウロ市場ではコチア産業組合の販売所を利用、リオ市場ではモジ産業組合の販売所を使用する。この時点でモジ組合のリオ販売所はまだ存在しなかった。だが、至急に開設するよう決定。
一方、既存施設であるコチア蔬菜部販売所の利用は、まことに手軽な方法であり、格別の問題点もない[注-34]。だが、コチアによる独占事業になりかねない。モジ産組は警戒した。後日、この危惧が現実のものとなり、コチア産組とモジ産組の論争になる[後述]。
ともあれ、1934 年 6 月 11 日(月曜日)、サン・パウロ市場における共同販売所は開業した。野菜農家の大同団結といっても、新規に野菜生産組合を設立したわけではない。野菜の共同販売をするだけである。共同販売所を新規に開設しても、維持管理の組織はできていないし資金もない。コチアをのぞいて、野菜直売の経験もなかった。だから、経験者であるコチアの施設と販売人を使うことにした[注-35]。
[注-33] 人口統計に関する資料調査を終えていないため、1934 年現在の正確な数字は把握できていない。国勢調査は 1900 年、1920 年、1940 年と、20 年ごとに実施された。1936 年ころに 100 万を突破。1940 年の国勢調査では、1,326,261 人とされる(リオ市は1,764,141 人)。これらの数字から、1930 年の人口は 90 万前後と推定される。
[注-34] 野菜の共同販売構想がもちあがったとき、コチア産業組合内部では、独立した販売会社の設立案もでた。しかし、施設や人員の問題もあって、すぐには実行できない。そこで、既存施設としてコチア蔬菜部販売所の利用となった。ただし、ジャガイモ栽培の大手組合員が、すんなりと認めたわけではない。コチア蔬菜出荷組合の累積赤字をひきつぎ、さらに、1933 年度決算で蔬菜部はあらたな赤字を計上。野菜販売をにがにがしく思っていたジャガイモ生産者は、蔬菜部廃止論をぶちあげる。それを、下元健吉専務理事が説得。うまくいかないため、理事会決定の形で強引に共同販売所開設にもちこんだ。
[注-35] リオ市場はモジ産組(加藤金三郎理事長)が担当。モジ産組は規模からいって、コチアにつぐ第二の農協であり、コチアとの対抗意識が強くプライドも高い。加藤金三郎理事長はもとより、翌 1935 年の役員改選で選出された渡辺孝理事長の個人的性格もあって、「若輩の小生意気な下元健吉」に対する競争意識に燃えていた。野菜の共同販売でコチアの下風に立ちたくない。対等の立場を明確にするため、市場をサン・パウロとリオに二分した。とりあえずこの方式で共同販売を開始し、後日、「聖市近郊蔬菜業者連合会」なるものを設立するつもりだった。暫定措置である共同販売所を利用するため、コチア産業組合へ新規加入する野菜農家の出資金は、連合会を設立する時点でそちらへ振り替えることになった。その旨の通知も、未加入農家に周知徹底させたようである。こうしてサン・パウロ市における共同販売所はスタートしたが、モジ産業組合が担当するリオ販売所は開設されなかった。
5 コチア組合蔬菜共同販売所
コチア産業組合では共同販売に先だち、1934 年 5 月 28 日、第 1 回蔬菜部評議員会を開催(出席者 17 名)[注-36]。ここでいう評議員会とは、1942 年に設置された「地方倉庫管轄区域(=部落)代表による会議」とはちがう。蔬菜部利用組合員代表による会議をいう。評議員は各組合(登録組合および未登録の任意団体)代表または、「組合も任意団体も存在しない地区における日本人野菜栽培農家グループ代表」である。
共同販売所を利用する農家は合計 849 戸。だが、6 月の開設当初、実際に生産物を出荷したのは、ざっと 200 戸。ピークの 7 月末で 641 戸。9 月末には 291 戸(コチア組合員をふくむ)に減少する。その間に、コチア産業組合とモジ産業組合の確執が生じた。両組合の対立をめぐり、反コチア派はモジ側についたため、強大な勢力となる。任意組合の多くが共同販売所方式から離脱した[詳細は後述]。
販売所開設前、5 月 28 日開催の第 1 回蔬菜部評議員会で、共同販売所に関する業務細則および販売方法の説明がなされた。つづいて、6 月 5 日の第 2 回蔬菜部評議員会で、販売人が内定したことを報告。サン・パウロ市営青果物卸売市場の委託販売人 5 名である。固定給による契約であるから、商人としての妙味はない。だが、バックに総領事館がついているので、そのうち、うまい汁をすえるかもしれない[注-37]。
だが、思惑ははずれた。共同販売のリーダーシップをとるコチア産業組合とモジ産業組合が対立したため、組織はすぐに分裂したからである。野菜農家の半分も参加しないうちに、まずコチア(サン・パウロ市場)とモジ(リオ市場)に二分され、さらにサン・パウロ市場では、反コチア勢力が別の組織をつくって対抗した。こうした組合同士の勢力争いは、それぞれの販売力を弱めることになり、間隙をぬって商人も台頭できるようになった。
共同販売所から離脱した組合が、従来どおり委託販売人へ出荷したほか、どんどん増える野菜農家の大半が、同じく日本人商人と委託販売契約をかわした。彼ら商人は、販売所開設前よりもはるかに取扱量がふえて利益をえた。だが、コチア産業組合も損をしていない。それどころか、野菜栽培農家が組合員として加入したため、出資金と販売手数料収入も増大。資金繰りがらくになった。組合員の増大は鶏卵生産増をもたらし、組合全体の事業拡大をうながすという効果をもたらした。
つまり、総領事館勧業部の「日本人農家大同団結」は、生産・販売の協調、さらには農産加工にまで進出しようというものであった。だが、青果物卸売市場の商人とコチア産業組合の利益を増大させたが、本来の目的である「零細規模の日本人野菜栽培農家」にはなんら恩恵をもたらさなかった。勧業部の構想は、画餅に終わったことになる。
最初から連合会という組織をつくるならともかく、組織なしの共同販売所を発足させたところにあやまりがあった。コチア産業組合は販売所の運営責任はあっても、組織の責任者ではない。極端ないいかたをするなら、「販売施設を貸した」ということであり、賃貸料のかわりに販売手数料(販売額の 15 % )をえた。実質的には共同販売ではなく、生産農家の出荷物を組合の販売所が売りさばいたにすぎない。
名目だけの共同販売であり、コチアは利益を享受できても、ほかの登記組合や任意団体の利益にはならなかった。それぞれが、出荷農家に対して標準手数料 (15 %) を控除するなら、販売額の 22.5 % を失うことになる。それなら、最初から卸売市場の委託販売人へ出荷するほうがよい。わかりきったことだったにもかかわらず、勧業部はこの点の指導をしなかった。
ともあれ、共同販売所計画は挫折した。だが、コチア産業組合では挫折と考えず、計画続行をこころみたため、モジ産業組合との間で摩擦が生じる。対立抗争は 1935 年暮れまでつづき、1936 年 1 月には、共同販売計画どころか、勧業部が提唱する「サン・パウロ近郊蔬菜栽培業者連合会構想」も消滅してしまう。
最大の問題は、リオ市場における共同販売所開設の可否だった。モジ産業組合がひきうけ、販売所開設の準備をすることになっていた。1934 年 6 月 5 日開催の第 2 回蔬菜部評議員会で、「リオ出荷販売に付ては近日中にモジ産組理事長加藤氏と下元専務の出府調査の上適当の方法を可及的速かに講ずる事」を決定。6 月下旬、加藤金三郎理事長に代わり、モジ産業組合の松村健作理事が、コチアの下元健吉専務理事とともにリオ市場を視察。野菜取引の現状調査にもとづき、共同販売所開設方法について検討するはずだった。ところが、現状調査はおこなったが、モジ組合は販売所の開設については放置。なんら報告がないまま、第 4 回蔬菜部評議員会( 1934 年 9 月 5 日開催)からは欠席する。
これを不満とするコチア側は、リオ販売所の開設を催促したため、モジ側の態度は硬化し、両組合の確執へとエスカレートした。その素因として、モジ産業組合の経営問題があり、さらに、渡辺孝(モジ代表)と下元健吉(コチア代表)の、個人的感情問題もくわわる。
[注-36] 第 1 回蔬菜部評議員会( 1934 年 5 月 28 日)の出席者( 17 名)はつぎのとおり。評議員のほかに組合員が介添えとして出席したところもあり、合計 22 名となった。
地域名(組合名) 農家数 代表者
グアルーリョス出荷組合 40 照沼朝男
カポテーラ出荷組合 40 西江八郎
ヴァスコンセーロス地区 8 重松伝次郎
ペルース地区 5 山藤伝
イタイン農産組合 16 松本龍一
フレゲジア・ド・オー出荷組合 17 古田土沖
リノポリス出荷組合 17 木村貞治
コチア出荷組合 30 村上和一
スザノ地方 8 西岡隆一
バルエリー地方 8 酒井一男
ボンスセッソ出荷組合 12 中矢勝一
モジ産業組合 150 加藤金三郎
イタケーラ産業組合 250 高垣忠兵衛
コチア産業組合 250 山下亀一、下元健吉、仲川賢一
[注-37] コチア産業組合が野菜共同販売所の販売人として雇用したのは、新垣亀、義村酉吉、安田友次郎、西国雄、西岡(名は不詳)。いずれも、メルカード・グランデ内にボックスをかまえる卸売商人だった。自分の商売をつづけるかたわら、共同販売所の指定販売人(定額賃金労働者)となったのはどういうわけなのか。常識的にはありえないが、それぞれ損得勘定にもとづく思惑があった。サン・パウロ近郊に 2,000 人もいる野菜農家が、すべて共同販売に参加すれば、商人への野菜供給はとだえる。それでは商売にならないので、だれしもが指定販売人になろうと考えた。選ばれた 5 人は有利な立場になる。共同販売所は総領事館の肝煎りで発足した。その販売人になるのは「名誉なことだ」というわけである。しかし、指定販売人となっても、自分の商売をやめたわけではない。すべての野菜農家が共同販売に参加するまで、多少の時間がかかるので、その間、商売をつづけながら様子をうかがうことにした。結果的にはそれがよかった。まもなく、共同販売組織に亀裂が生じたからである。
第 4 章 コチア組合対モジ組合の対立 >>