人文研ライブラリー:日本移民の社会史的研究(4)
アンドウ・ゼンパチ(人文研初代専任研究員)
segunda-feira, 30 de julho de 2018

日本移民の社会史的研究
『研究レポートII』(1967年)収録
アンドウ・ゼンパチ

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5.コーヒー恐慌の影響

 コーヒー恐慌の影響を直接に、しかも悲惨にこうむったものは農場で働いていたコローノであった。農場によっては一年以上も賃銀が払えないのがあった。1899年に、ブラジル駐在の日本公使が“イタリア公使から聞くところによるとイタリア人コローノの過半に達する30万人のものが賃金をもらっていない”と日本政府へ報告している。(12)
(註12)ブラジルに於ける日本人発展史 pag. 246.
 また、大農場地帯の中心都市リベイロン・プレートでは、農場を逃げだした移民の群がサンパウロ市へ行く旅費をえるために、三々五々、街頭を物乞いして歩いていた。そして、ブラジルを見かぎって本国へ引きあげるものや、さらにアルゼンチンへ渡航するものがおびただしかった。本国へも帰れず、アルゼンチンへも行かれない者は、サンパウロ市の町はずれのあちこちに集団して移民部落を作った。そのため、1890年ごろは人口わずかに6万あまりの小都市であったサンパウロが10年後の1900年には4倍の24万にふくれ、1910年には35万の大都市になったのだが、不景気の最中に急激に増加した人口を吸収する仕事はなく、貧しいイタリア移民がいちばん多く集った東部のBrás, Belenzinho, Moócaなどは失業者と貧困の地区になった。もっとも、“サンパウロ市の中心地区にはイタリア商人が早くから進出していて、イタリアの商品を売る店や銀行もあり、商業面での活躍は盛んであった。1906年のサンパウロ市の人口はほぼ30万ぐらいだったが、その半数はイタリア人で、金持から乞食に至るまで、経済状態は種々雑多であった。”(Os Italianos no Brasil, pag. 230)
 このころ“サンパウロ市に新聞売子や街頭の靴みがきが出現したが、ほとんどがイタリア移民の子供であった。そして大人たちは花、果物、野菜、魚などを売り歩いていた”。(Ernani Silva Bueno, História e tradição de São Paulo, vol. III, pag. 1131)
 1901年にSão Pauloの工場調査を個人的に行ったAntônio Francisco Bandeira Juniorの発表によれば、紡績、帽子、靴、飲料、金属、家具、食料、織物など165工場で働いていた労働者は“男、女、子供など5万をこえるが、ほとんどイタリア人である。” “ブラジル人は不幸にして、10%以下である”と書いている。
 また、一方、農場主の困窮も甚しかった。恐慌前の10年間は、未曽有の黄金時代で、一農年が終って決算した金を英貨ポンドの金貨で支払ったという。まるでうそのようなことがあった。コローノは受けとった金貨を帽子や手の中でチャラチャラならしながら包みきれぬ喜びを顔面にたたえて興奮していたそうだ。(Jorge Tibiriçá, vol. II, pag. 361)
 このような、すばらしいコーヒー・ブームで、われもわれもと、コーヒー輸出業者や金融業者から資金を借りて、コーヒー栽培をやったものが多かっただけに、晴天の霹靂のように、突如として襲来し、しかも10年間もつづいた恐慌には手の打ちようがなかった。農場主も中には“次期の収穫を抵当に仲買商人から2割4分という高利を借りるという騒ぎであった。”(ブラジルに於ける日本人発展史上巻、pag. 246)
 そして、コーヒーの買付と輸出を掌握している商人は、みんな外国の商業資本家であったが、彼らは極力コーヒーの買付値段を引きさげて農場主をいっそう苦境に追いつめた。
 1904年から1908年まで、サンパウロ州統領をつとめたJorge Tibiriçáも大農場を所有していたが、政界の有力者である彼もこの恐慌には参ってしまい“農場を抵当にして銀行や仲買商人から借金してコローノの賃金を払った。賃金を払わないとコローノたちは、すぐ他へ移動してしまうのだ” “Jorge Tibiriçáは農場売却をさけるために、農場内の土地をコローノに分譲してやり、その代りにコーヒー樹の手入を無償でやらせた。また、夫人はもと奴隷でチーズ作りの上手な女中を使って、牧場でとった牛乳からチーズを作り、それを販売して借金の利子を払っていた。名門の農場主の夫人がこんな労働に従事したことは世間を驚かせた”(13)
(註13)Rodrigo Soares Junior, Jorge Tibiriçá, pag. 372~3.
 この苦境が切りぬけられずに、高利貸の手に渡った農場はいくらもあった。1906年に、面積約2万5千ヘクタール、コーヒー樹200万本の屈指の大農場が借金を払えずに身売りしている。
 コーヒー恐慌が10年にも亘って長びき、大農場が深刻な打撃をうけた根本的な原因は、そもそも奴隷制に基いて、latifúndioの上に築かれた農場が、賃金制による労働に変ったために、種々な内的矛盾を生じていたことと、コーヒーのplantation的な栽培が、コーヒー樹そのものの性質から近代化して行く時代に不都合なものになってきたことであった。
 もともと、コーヒー樹の栽培は、除草にも果実採取にも機械が使えない。除草はエンシャーダ、enxadaという草けずり用の鍬を使い、果実の採取は、細い枝についている実を手でこぎ落して採るので、一人の労働生産量は奴隷の場合もコローノの場合もほとんど変らない。むしろ、奴隷の方が、きびしい監督と強制のもとで働かせれば、コローノよりも生産量が多かった。(14)
(註14)Roberto Simonsen, Aspetos da História Econômica do Café, Revista do Arquivo Municipal, No. 65, pag. 195及び202.
 また、肥料を与えて土地の生産力を強化することも広大な農場では不可能であった。そして、コーヒー樹の生産量は、ふつう樹令10数年をすぎると著しく減退する。しかし、サンパウロ州の大農場地域の土壌は、テーラ・ロシャ(terra roxa, 紫赤土)というコーヒー樹成育に最良のものであったために、肥料を与えずに、しかも生産量の衰えを軽減することができたのであった。
 19世紀の中ごろまで全盛時代を保っていたリオ・デ・ジャネイロ州のパライーバ川流域に栽培されたコーヒー樹にくらべると、サンパウロの農場のものは、樹木の最盛期に4倍の生産量があった。
 それゆえ、Paraíba川流域の農場では、1888年、奴隷解放令が出たころは、略奪農による地力の消耗と樹の生産力の減退が甚しく、奴隷労力によって辛うじて経営を持続していたのだったが、解放後、賃金を払うコローノを使用しては、全然、経営はなりたたず、この地方のコーヒー農場は、消滅してしまった。サンパウロ州の農場がコローノを使用しても、経営できたのは、農場が新しく、その上、terra roxaというすばらしい土壌のおかげであったが、それでも、恐慌によって弱点をさらけ出した。
 そして、コーヒー樹は簡単に植えかえができない。植えつけてから結実するまでに4年から5年かかる。したがって農場内の品種改良も容易にはできず、また、景気が良くても急にコーヒー樹を増加することもできないし、不景気になっても樹数を減少して経費を縮少することもできない。生産力の旺盛な樹令のものが多ければ、不景気になっても生産過剰を制止することができず、値段は下落するばかりである。

コーヒー値段の下落
189414$916
189513$475
189612$959
18979$359
18988$375
18998$034
19008$817
19015$617
19024$901
19035$004
19046$365
19057$145
19064$856
19073$770
19083$585

 このようなコーヒー栽培上の種々の悪条件は大農場ほど大きく、もはや、時代的に大企業の対象としての魅力を失ってしまった。かつては“フアゼール・フアゼンダス、fazer fazendas”(大農場経営)という言葉が企業家にとって唯一の有利な事業であったのだが、それがこの恐慌によってくつがえされた。
 その結果、大農場新設ブームは終止符をうたれることになったのだが既設の大農場は、その存続のために、農場主たちが知恵をしぼって案出したのが、1906年から実施された価格維持のための政府によるコーヒー買上げ政策であった。しかし、政府の金庫に莫大な買上げ資金がなく、ドイツ、アメリカ、イギリスなどのコーヒー輸出会社からの借入金でまかなうことになったのだが、この年の収穫は前年度の2倍という全く未曽有の大豊作で、1俵3500レイス前後という底をついた値段におちたが、5百万俵に達したストックも全部、政府が買いあげたので、農場主は10年ぶりにやっと息をつくことができたのだった。また、コローノも収穫が平年の倍もあったので採取賃が多く、久しぶりに多額の金を手にしたイタリア人のコローノたちは、続々帰国した。そのため、この年も移民の出国者数が入国者数よりも多くなった。
 政府はコーヒーの買い上げを行う一方、1907年から2年間、新しくコーヒー樹を植え付けることを禁止した。コーヒー恐慌によって大農場経営の将来性に疑問を抱き始めていた企業家たちは、投資の対象をゴヤス州およびマット・グロッソ州での牧畜やサンパウロ市の商工業面へ変えるようになった。(15)
(註15)Caio Prado Junior, História Econômica do Brasil, pag. 272.
Nelson Werneck Sodré, Formacao Histórica do Brasil, pag. 313.

次の表は1849年からの工業面への投資率を示す。

Antes de 18491.4
De 1850 a 18540.2
1855 a 18590.2
1860 a 18640.4
1865 a 18690.6
1870 a 18742.3
1875 a 18791.3
1880 a 18843.2
1885 a 188911.2
1890 a 189411.8
1895 a 18995.0
1900 a 19046.0
1905 a 190912.4
1910 a 191418.5
1915 a 191924.2
 1.3
 100,0

 恐慌中にコローノの農場退去者が激増したことは農場主をうろたえさせたが、どうにも引き止め策はなかった。当時は、小農として独立する道がまだ開けていなかった。そして、帰国者もまたおびただしく、1900年、1903年帰国またはアルゼンチンへ渡航するための出国者の方が入国移民より多かった。
 1889年から1906年の間に、ブラジルに入国した移民は、1.681.920で、その内、1.039.987がサンパウロに来た。この内、主なものは、イタリア人が587.097、スペイン人が149.158、ポルトガル人が、73,534であった。

 入国出国 
190022.80227.91727.917(-)
190171.78236.09935.683 
190240.38635.5004.886 
190318.16140.20022.039(-)
190427.75137.3009.549(-)
190547.81739.9007.917 
190648.42947.500929 
190731.68143.90012.219(-)
190840.22538.4001.825 
190939.67434.5125.162 
 387.698381.228  

 恐慌中にブラジルを引きあげた移民が、30万近くもあったが、1902年にイタリア政府が、ブラジル行コローノ移民の出国を、一時禁止したことは、コローノの大部分がイタリア移民であっただけに、農場主にとって打撃は甚大であった。
 コローノが農場を引きあげて、彼等の母国に大量に帰るのを阻止するために、São Paulo州政府は、農場におけるコローノに対する警察権の濫用及び暴力行為や私刑を行うことを禁じて、コローノの人権を尊重するようにさせたが、永年の奴隷制度になれた農場主には、近代的な人権尊重の観念はうすく、コローノを農奴同様に扱う態度は依然として変らなかった。
 また、コローノを農場に落ちつかせるために、州政府の補助によって誘入される移民は、3人以上の労働力のある、12才以上45才までの男女家族を原則として、浮動性の強い単独者を極力さけるとともに、出稼を目的としたイタリア移民が、故郷へ莫大な金額を送っていることに驚いた州政府は、彼らの送金を防止し、彼等を出稼移民から永住の植民に転じさせることを考えた。そして、農場でのコローノ契約を完全に終了したものに、安い値段で土地を分譲して、独立自営農になれる道をひらいてやることにした。この目的で1905年から1913年までに、州内の各地10カ所に植民地が設立された。

6.メザーダ賃金制

 コローノを農場にひきつけ、そこに落ちつかせるために、将来独立農になれる希望を与えるようにしたが、賃金を近代的にすることについては、全然考慮されなかった。前にも述べたように、大農場の生産関係を近代化することは種々の点で困難で、時代的に矛盾を孕む大農場の経営を持続していくためには、前近代的な生産関係をしゃにむに続けていくより外に道がなかった。
 そこで恐慌後においても、賃金制度は分益制の失敗後に案出されたメザーダ制(sistema de mesada, 月割制)がそのまま存続されたのである。
 メザーダ制は、コローノひとりの受持樹数を1千本を単位として、その手入賃と採取賃を与えるものであったが、恐慌後は労働力が三人以上ある家族を単位として受持樹数をきめた。この制度は封建的な雇役制と資本主義的な賃金制とをまぜあわせた過度的なもので、恐らくサンパウロのコーヒー農場で始めて行われた他に類のない珍しい制度であろう。(16)
(註16)Leoncio Basbaum, História Sincera da República de 1889 a 1930, pag. 171.
 一家族を単位とするメザーダ制では、その家族の稼働力の状態及び数によって、一農年(コーヒーの収穫が終った10~11月から1年間)に引きうける樹数をきめる。成年の男子なら、ふつうひとりで2.000本で、無理をすれば3.000本の手入を担当出来るが、よほどがむしゃらに働かなければならない。妻は家事もやらなくてはならないから1.000本ぐらいしかできない。また、12~13才位の少年少女では、1.500本位程度になる。したがって一家族でひきうけられる樹数は、だいたい5.000本から9.000本とまちまちになる。
 コーヒー樹の主な手入は、ふつう収穫が終った10月~11月から、翌年採取が始まる4~5月ころまでの間に4回、エンシャーダ(enxada)という除草鍬で、雑草をけずりとるのである。除草はコーヒー樹の栽培上もっとも重要なことで、年中樹間に雑草を生さぬようにすることが、若樹の成長をよくし、果実の生産力を強めるので、除草が完全にされるかどうかはその年のコーヒー産額に大きく影響する。
 除草は大体6ケ月間の仕事であるが、これに対する賃金は、1.000本について年間いくらという計算である。すなわち、手入賃は6ケ月の月割にされないで、12ケ月割にして支払われる。だからコローノは、6ケ月間除草で働いても、その間に受取る金額は、総額の半分で、あとの半分は、4~5月から始まって、10~11月に終る果実採取期に毎月支払われる。
 また果実採取賃は、手入を受持った樹から採取した果実を、50リットル入1袋につき、いくらという計算であるが、この収入は、まったくその年の果実のなり具合で決定されるのであるから、豊作の年は賃金が多くなるかわり、不作の年は惨めである。それに採取賃の総収入は、除草賃の総収入の、ふつう4ないし6分の1ぐらいで、採取賃だけではとうてい生活を維持することができない。コローノ家族の生計費は、メザーダで最少限度にまかなわれるので、採取賃は何年に一度という大豊作の時でない限り、メザーダ収入の補助費になる程度である。それゆえ、メザーダ制では、夫婦者に13~14才位の年少者1名という稼働力の弱い家族にとっては、採取賃を入れても最低の生活を維持する収入しかえられない。まして、夫婦だけの労働力で、手足まといの幼児でもあれば、収入はいつも赤字になる。
 ある農場主が彼の農場で働く夫婦者と2名の幼児を持つ家族の一年間の収支計算を示しているが、それによると、その家族の年間支出は784$000(784ミルレイス)に対して、除草賃、採取賃に臨時の日給労働賃を合せても、やっと640$000で、140$000の赤字になっている。(1922年当時の計算である。当時は2$000が邦貨1円に相当した)

3.000本の手入賃450$000 
果実採取賃70$000 
臨時日給労働賃その他120$000 
 合 計640$000(17)

(註17)Augusto Ramos, O café no Brasil e no Estrangeiro, 1925. – São Paulo.
 臨時日給労働賃は、農場の雑役に臨時に働いた時のものであるが、これは不安定であらかじめはっきり予定はできない。果実採取賃もその年の果実のなり方次第で多くも少くもなる。一定した収入は手入賃だけである。
 また、2人の成年男子とひとりの妻で3人の稼働力があり、子供がふたりいる家族の生計費は、1:130$000(1コント130ミルレイス)で、この他にコーヒー樹間に米や豆を植えて食料品をえている。その家族の収入は、

7.000本の手入賃1:350$000
果実採取賃240$000
臨時収入460$000
 合 計2:050$000

 この家族は妻を含めて稼働力3名の、もっとも基本的な構成であるが、手入賃だけではやはり赤字になっている。初期の日本移民にはこの型の家族が多かった。しかし妻を入れる3人の稼働力で7.000本を引きうけるのはかなりの重労働である。しかしこの程度の家族で8.000本も9.000本も引きうけた日本人コローノもいた。
 コーヒー樹は植えつけてから4年目から結実する。それゆえ若樹の手入を引きうけたものは採取賃がないので、その代りコーヒー樹間に米や豆などの食料品となる作物を植えることができ、その収穫は全部コローノの所得になるのだが、この場合、1.000本についての手入賃の方は、ふつうよりも安くなる。この樹間栽培(Culturas intercaladas)を、日本移民は“間作”とよんでいるが、採取賃よりもこの間作による収入の方が安定していて、割もいいので、コローノは若樹のある新コーヒー農場に就働することを好むほどである。しかしこの制度は、労働賃金の一部を、すなわち生活手段の一部を、貸与した土地にコローノの労力と負担とで生産したものを現物で与えるもので、やはり農奴制の残存物にすぎない。
 このように、メザーダ制は、最少、3人の労働力をもつ家族を、原則として、単位としているもので、家長がひとり働いたのでは、一家を支えるだけの収入はえられない仕組になっている前近代的な賃金制度である。
 しかも、賃金は現金払いではなく、州政府がコローノの権利を保護するために制定した通帳(caderneta)が、コローノの各家族に与えられ、その貸方にコローノの受取勘定になる金額が記入されるだけである。そして、生活必需品の購買は、すべて農場内にある農場主が経営する売店で、その通帳によって求めなければならない。そして購入した品物の金額が通帳の借方に記入される。この売店の商品は市価よりも何割か高くかけられていて、コローノはそこでも搾取される。そして多くの場合、貸方の金額よりも多くの買物を許してくれるが、コローノに適当の借金をつくらせることは、彼らを農場にしばりつける便法である。決算は農年の契約が終ったとき行われる。その時残金があれば、それを現金でもらって農場を去ることができるが、借金になっていれば、さらに一農年の契約をして、負債を返却するまで働かなければならない。
 また、農場の売店にない品物は、農場の近くにある町の農場の特約店で買うようになっている。この場合、コローノは必要な金額を通帳から引き出すことができるが、現金をもらう場合もあるが、そうでなく農場の名を印刷した名刺大の紙片に、金額を記入したもの、すなわち金券をもらって、これが通用する農場の特約店で買物をすることが多かった。農場主は、かくして、収穫が終った一農年後の総決算の日まで、コローノに対する賃銀は、現金を支払わずにすむのである。
 農場には、また、純然たる賃金労働者も働いている。これらは主として北東部の奥地から出稼ぎにきている極めて貧しい農民で、常雇ではなく、収穫期の仕事の多い時に臨時に雇わる者が多く、コローノが採取した果実の運搬、果実の乾燥場での労働、果実の脱皮工場での仕事、その他種々の雑役に従事する。camaradaとよばれる日給労働者である。しかし賃金が安く、独身者がようやく食べていける程度で、月末にまとめて現金で支払われるが、農場内の宿泊所の食事代にほとんどとられてしまう。
 コローノも収穫期でない農閑期で、除草に追われていない場合には、農場の雑役にcamaradaとして働くことがあるが、この場合は日給がもらえるから、これが臨時収入の一部になる。しかしコローノの家族が病気にかかったりして、規定の除草がおくれている場合、農場主はcamaradaにその除草をさせる。そして、その賃金はコローノのメザーダの中から差引かれる。ところがカマラ―ダに支払う1.000本に対する賃金は、コローノが1.000本について受取る賃金よりも、ずっと高いものになり、コローノの収入はそれでなくとも赤字になりやすいのが、いっそう減少する。
 カマラ―ダには、臨時の、あるいは短期間の仕事しか与えられないため、彼らは、一つの農場で仕事がなくなれば、仕事を求めてあちこちの農場を歩きまわる者が多い。
 コーヒー農場、すなわちfazendaの経営方法はこれまでに述べたように、奴隷解放後も、その生産関係においては、奴隷制から半ば封建的なコローノ制という資本主義制への過度期的なものに変っただけで、奴隷制時代と同じく利潤を目的とした商業的な経営ではあったが、まだ純然たる資本主義経営ではなかった。
 コーヒーのPlantationによる栽培、すなわちfazendaの経営は莫大な資本を要する事業であるが、だからといって、これが資本主義的経営であるとはいえない。資本主義的経営であるためには、あくまでも、生産関係が資本家と賃金労働者でなければならない。ところがfazendeiroすなわち農場主は、いわゆる近代的な資本家ではなく、近代的な大地主にすぎなかった。しかも殆んどが不在地主で、大邸宅をSão Paulo市に構えて、農場からあがる金で華美な生活を営み、農場の社会的勢力を背景にして政界に活躍することを理想としていた。共和制樹立(1889年)後、1930年までブラジルの政界をリードしたサンパウロ共和党は大農場主たちによって組織されていた強大な政党であった。
 そして、農場主の頭には、“ブラジルは農業国である”という先入観念がこびりついていた。そのため彼らの考え方は、すべてが農業本位であり、したがって大農場本位であったことは、今までにもたびたび述べてある。それゆえ、必要を痛感したことにかぎって農場の近代化も行った。たとえば、コーヒー精選工場に蒸気機関を使用したり、さらにコーヒーをサントス港に輸送するために、農場主の出資によって、パウリスタ鉄道、モジアナ鉄道などの幹線を始め、その他、この2線に接続する支線が、19世紀後半期に、各地で建設された。(18)蒸気を動力とする精選工場と、輸送機関としての鉄道がなければ、大農場の経営は不可能といってよかったのだ。
(註18)農場主の出資によって建設された鉄道については、Roberto Simonsen, Aspetos da História Econômica de Café, Revista do Arquivo Municipal de São Paulo, vol. 65, pag. 187を見よ。
 しかし、農場主たちはコーヒー栽培に関係のない事業、とくに工業に対しては全く無関心であった。それゆえ、コーヒーによって得た利益を工業のために投資することなど考えていなかった。利益の一部はさらに農場の新設のために投じられるだけであった。それに、工業が興ると、多くの労力が工場に吸収されるために、それでなくともコローノ移民が不足しているのが、ますますその補充を困難にするという考えもあって、むしろ工業の発展に対しては反対でさえあった。
 農場は彼らにとっては、社会的な地位を誇示するためにも、政治的に活躍するためにも絶対に必要であった。そして農場が巨大であればそれだけ、社会的地位と政治的勢力とは大きくなった。そして農場から上る利益は本源的蓄積とはならずに、虚栄と贅沢のために浪費されていた。
 コーヒー栽培が肥料を与えない略奪農であったと同じように、農場主は農場の利益を、ただ搾りとる寄生地主にすぎなかった。そして、コーヒー栽培が、latifúndio―不在寄生地主―コロノ制という半封建的な構成の農場で行うことができたことが、都市における工業の発達を阻止し、工業の未発達が農場の近代化を阻止するという悪循環を作っていたのだったが、コーヒー恐慌によって、このような停滞的な状態にひびが入ったといえる。
 日本のコローノ移民が、初めてブラジルの土を踏んだ時期は、歴史的な恐慌もやっと底をついて、恢復期に向い始めた1908年であった。そして、サンパウロ州はこの恐慌を契機として近代化に入ろうとする社会的な変革期でもあった。このことは、後の章で詳しく述べるように、日本移民社会の発展に、種々の点で大きな影響を与えた重要な因子であった。


サンパウロ人文科学研究所 Centro de Estudos Nipo-Brasileiros