人文研ライブラリー:日本移民の社会史的研究(3)
アンドウ・ゼンパチ
quinta-feira, 28 de janeiro de 2016

日本移民の社会史的研究
『研究レポートII』(1967年)収録
アンドウ・ゼンパチ

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3.南部における小農植民地

 セズマリアを取得する資格のないものの中には、はるか奥地へいりこんで、私有地になっていない王領の未開拓地―これをテーラ・デボルータ、terra devolutaといった―に定着して小規模の農場や牧畜を営むものがあった。殊に、18世紀の最後の4半期ごろから、ミナス地方の金鉱がさびれだして、失業したものがまだterra devolutaのたくさん残っていた南マット・グロッソやサン・パウロ方面へ南下移動し、開墾しやすい森林でない土地に定着して、農業や牧畜を始めるものが多かった。しかし、彼らは無資力の貧農であるから、企業的な経営はできず、わずかに生活を維持して行くための自給的な農業で、社会の経済的発展にはあまり関りのない存在であった。このような土地所有は、全く不法な占拠にすぎなかったが、彼らを追いたてるものがなければ、そこに永住することができた。今世紀の初期ごろまでは、サン・パウロ州の奥地でカイピーラcaipiraまたはカボクロcabocloとよばれる貧農で、小面積の土地で自給的な農業を行っているものがたくさんいたが、彼らは何代にも亘って不法に占拠した土地を登録によって合法的に所有権を得たものであった。ブラジルにおけるこのような小農の土地所有は、最初は国有未開地の不法な占拠によって行われた。これはまさに、特権階級によって独占されたセズマリア制に対する無産者の、無言の、しかも、ささやかな抵抗であったといえる。
 しかし、このような不法な土地占有は、人口の増加にともなって、国内を市場とする農業や牧畜が有利に行われるようになると、有力な資力のあるものも、先を争って、terras devolutasを勝手に占拠し、開拓するものが現れてきた。
 不法所得ではあっても、セズマリアによって得た巨大な土地を開拓せずに放置している者よりも、はるかに土地の開発と人口増殖のために有益であったので、王室は、このように不法に占有した土地でも実際に開墾している者に対しては、その土地の所有を認めることにした。これがポッセ(posse占有)といわれる制度である。(9)
(註9)1795年10月5日の勅令は、永年ポッセによって土地を耕作しているという事実が明かな場合、その土地の所有を合法的にするために必要な処置を講じさせた。さらに1822年3月14日、王ドン・フエルナンドは法令によってポッセを土地所有の制度として認めた。
Brasil Bandecchi, Origem do Latifúndio no Brasil, pag. 44 および 45.

 ポッセによる土地所有の方が、未開地開発のためには、弊害の多いセズマリア制よりも効果的であると見た王室は1822年7月、セズマリアを廃止した。ところが、ちょうどセズマリアが廃止されたころから、コーヒー栽培が有利な貿易商品となる見通しがついて、リオ・デ・ジャネイロ州およびサン・パウロ州にコーヒー栽培が盛んになると、この地方のterras devolutasは大農場経営のために争って占有され、そのため土地の争奪や境界争いが、血なまぐさい武力行為によって盛んに行われるようになった。そして、以前から、ポッセによって定住している小農民などは、どしどし追い出されて、その土地は強奪された。こうして、また、奴隷制による熱帯産物のコーヒーの大規模な栽培のために巨大な私有地の取得が行われて、1850年ごろには、この地方の土地も、ほとんどが有力者たちの手に握られてしまい、コーヒー栽培に適する地域は何千アルケールという大コーヒー農場によって占められてしまった。
 São Paulo州以南のParaná、Santa CatarinaおよびRio Grande do Sulの3州は温帯に位置しているため、輸出商品となる熱帯作物ができず、Rio Grande do Sul州の南半部での牧場経営以外には農業開発を企てるものがなかった。大面積のセズマリアを所有したものでも、最初から開拓の目的はなく、虚栄と誇示のために取得したので、いつまでも未開発のまま放置していた。したがって、人口はきわめて稀薄で、領土防衛上の危険も充分にあった。
 そこで、ポルトガル王はこの地方の開発を産業開発を妨げる大私有地制よりも、自家労力によって農業を営む多数の農民に小面積の土地を与えて、集団植民地を作らせて人口の増殖と産業の振興を計ることにした。これは、従来のブラジル開拓の方針を一変した画期的な植民政策であった。
 そこで、かねてから人口過剰に悩む貧農で充満していたポルトガル領のアソーレス群島から、18世紀の中ごろに貧しい小作人の家族者五千数百名を国費で誘入して、この地方の沿岸各所に、60家族を単位として分散させて植民地を開設した。そして、植民地建設と農業経営に必要なものを補助されて、各植民地は活発に開拓されていったが、ヨーロッパへ輸出できない小麦、大麦、果実、野菜などを売りさばく市場がないことと、1家族に与えられたセズマリアは、小面積といっても、4分の1レグア平方で、272.25ヘクタールもあり、各戸が孤立状態になった。(10)
(註10)4分の1レグア平方のセズマリアは、data de campoとよばれる面積で1.650メートル平方、272.25ヘクタールに相当する。
 こういうわけで、彼らの生活は原始的な自給経済に後退せざるをえなかった。その結果、農業をすてて、牧場地帯へのがれたものが多く、小セズマリアによる南部地方の最初の植民計画は失敗に終った。
 ポルトガル王はブラジルが植民地であった間は、頑強に外国移民の入国を拒んで、人口が稀薄で開発がおくれているにもかかわらず、ブラジルへの植民はもっぱらカトリック教徒のポルトガル人に限定していた。そのため、特に温帯地方の南部の開発はほとんど進展しなかった。
 1807年の暮、ナポレオンの軍隊がポルトガルへ侵入したとき、ポルトガル王はフランス軍に屈服することをさけて、ブラジルへ逃がれ、リオ・デ・ジャネイロにポルトガルの首都を移した。そして、時の摂政Dom Joãoは、万一ポルトガル本国がフランスに奪われるようになれば、ブラジルをポルトガル王国の本国とするつもりで、ブラジルを縛っていた植民地的なきずなをことごとく解いて、近代国家として発展ができるように、あらゆる措置をとった。その主なものは、300年間、外国船に対して閉めていた港を開放して自由な貿易を認め、すべての製造工業を自由にし、また、宗教の如何にかかわらず、諸外国移民の入国を許し、彼らに自営農ができる程度の小セズマリアを与える法令を発布した。
 そして、外国移民によって南部を開発するための植民地の設立を国の補助によって積極的に行う計画をたてて、その宣伝をドイツその他北欧諸国で行った。しかし、ヨーロッパがナポレオンの勢力下にある間は外国移民を誘入することができず、ただアソーレス群島からポルトガル移民1.500家族を主として、リオ・グランデ・ド・スール州に入植させたにすぎなかったが、1814年のウイーン会議が終って、ヨーロッパに平和が回復されると、新大陸への移住者は続出して、近代移民の流出期が始まったが、大部分は北米合衆国へ渡ってブラジルへ来るものは少かった。ブラジルには恐しい熱帯病があること、工業の発達がおくれており、カトリック教国で、奴隷制度が支配的であることなどが、そのころ、おびただしく海外へ出ていた新教徒の多い北欧の移民をひきつけなかった。それでも、19世紀中に、ブラジル政府の補助をえて南部諸州に移住してcoloniaとよばれる植民地を設立したドイツ人、イタリア人(主にイタリア北部のもの)、ポーランド人、ウクライナ人、フランス人、オーストリア人、ロシア人などが数十万に達した。
 これらのコロニアでは、地方によって、いくらか相異はあったが、だいたい、一家族に割り当てられた土地(lote)の面積は約50ヘクタールであったが、後になると約25ヘクタールが標準の面積になった。
 ブラジルの未開発開拓は、19世紀の末ごろまでは、以上述べたように、北部の熱帯およびリオやサン・パウロ州の亜熱帯の地域は巨大私有地における黒人奴隷の使役によって行われたので、自営農の小土地所有は、国策上南部の温帯地域に誘入された外国移民のために設けられた植民地以外には、まだ社会的に発生される段階に達していなかった。
 それが、19世紀の終りごろから、コーヒー農場へ契約労働者として来た移民が、農場での契約期間をすませて、彼ら自身の資力と国策とは関係なく、移民たちの自由な意志によって、サンパウロ州で、小面積の農地を取得することができるような社会経済的な条件が現れてきた。

4.奴隷制からコローノ制へ

 1850年に奴隷の輸入が禁じられて、労力の不足をいちばん痛切に感じたのは、当時ブラジルに産業の王座にあったコーヒー農場であった。当初の間は北東部の砂糖地帯や、かつて金鉱で栄えたミナス地方から黒人奴隷を買い取っていたが、次第にその入手が困難になり値段も高くなってきた。
 São Pauloの有力な農場主(fazendeiro)で上院議員でもあったNicolau de Campos Vergueiroは、奴隷輸入禁止前に、当然来るべき労働力不足に対処するため、1840年にポルトガルから労働移民90家族を彼のIbicaba農場へ連れてきたが、これが奴隷労力の補充としてコーヒー農場へ入れられた最初の移民であった。そして、奴隷禁止がいよいよ避けられない情勢を察知して、移民誘入事情を目的としたヴエルゲイロ商会Vergueiro & Cia.を設立し、1847年には、ブラジル政府の補助をえてドイツ移民80家族400名の誘入に成功した。
 そして、10年後の1858年には、ヴエルゲイロ商会の手を経て約400家族3.000名(このうち約1.000名のドイツ人、1.000名のドイツ系スイス人、その他に数百名のポルトガル人と、少数のフランス系スイス人とベルギー人であった)が26の農場に就働していた。
 かくして、奴隷輸入禁止後、ブラジルに2種類の移民が来るようになった。すなわち、南部開発のための国策による自営開拓植民で永住を目的とするものと、コーヒー農場で働くコローノcolonoと呼ばれる契約労働移民で主として出稼を目的とするものである。
 初期コローノ移民の労働条件はパルセリア、parceriaといって、農場主はコローノが採取したコーヒーを販売して、その純益の半分をコローノに与える分益制であった。そして、渡航費および最初の収穫までの生活費や諸雑費は農場主からの借金となるので、これは収入から差引かれた。しかし、収穫物の値段は、コローノにとって不利になるように計算されたし、農具や食料品その他の生活必需品は農場主の手を経て不当な値段で買わされた。それゆえ、コローノ移民は農場に着いたとたんに、1~2年では払えないような莫大な借金に縛られることになった。
 パルセリア制度は奴隷制から資本主義的な賃金制への過渡的なもので、農場主側にとっては、コローノの労働を搾取するのには都合がよく、その上、当時はまだ奴隷も使用していたので、農場主には、コローノ移民の人権尊重などという考えはなく、どの農場でもコローノの不平不満はたえなかった。
 その結果、イピカーバ農場に就働していたドイツ系スイス人は「コローノ制は白人の奴隷の労働である」と叫んで、1856年の暮から3ヶ月にわたって契約と待遇改善を要求する争議をつづけた。この争議はイピカーバ農場主だけでなく、その他の農場主に対しても大きな衝撃を与えた。
 争議の指導者であったトーマス・ダハッツがヨーロッパへ帰って出版した「ブラジルにおけるコローノの記録」という本で、コーヒー農場の実情を詳しく紹介し、コローノ労働は文明人にとって屈辱そのものであるとして、コローノ移民としてのブラジル渡航にきびしい警告を与えた。
 この結果、ドイツではブラジル行コローノ移民の募集を禁止し、その他の国々でも、ブラジル行移民に制限を加えたので、ブラジル南部の植民地を建設する開拓移民さえも激減してしまった。このころは、ヨーロッパからの移民流出は年々増大しつつあったのだが、それにもかかわらず、ほとんどが北米合衆国へ渡り、一部がブラジルを横目で見てアルゼンチンへ行ってしまうようになった。
 黒奴の輸入が断絶してから、農場主にとって、コローノ移民は奴隷労力の補充のために欠くべからざる重要なものであった。しかも、コーヒー栽培は輸出の激増につれて飛躍的な発展期に入り、1850年には世界的な産地ジャバを追いこして、全世界の産額の50%をブラジルが占めるようになった。それゆえ、労力の需要も年々増大するばかりで、その補充は、さびれた金山地帯や不景気になった砂糖地帯および棉花地帯から買い集めていた。1850年から70年にかけてコーヒー地帯へ売りこまれた数は毎年3万に及んでいるが、奴隷の値段は年毎に高価になって、むしろ移民を誘入する方が費用が安くなるほどであった。
 農場主は移民の誘入にやっきになった。そして、国家の財政の大部分を負担し、政治的に強い発言力をもった農場主は、移民の誘入と奴隷の確保とがコーヒー農場に有利になる政策を政府にとらせるために、あらゆる努力を試みた。
 Rio de Janeiro州では、すでに1840年に州の法令で外国移民が奴隷を所有することを禁じたが、1848年には、国の法令によって、すべての植民地で奴隷を使用することを禁じた。
 また、移民誘入政策も、もっぱら農場主の利害を基にして行われたが、それを如実に示したものが、1850年9月4日に奴隷輸入が禁示になった直後の18日に発令された有名な土地法(lei das terras)である。
 この法令は、土地の所得が永年にわたって正規の手続をふまずに行われたものが多く、その結果、所有権が不確定であったり、土地の面積や境界が不明確であったりして、それから生じる混乱や土地争奪などの弊害を一掃するため、合法的な手続きによってそれらの所有権を確立させ、また、セズマリアやポッセによって譲渡または占有された土地でも、未開発のまま放置してあるものは回収して国有にするなど、あいまいな土地所有権を整理する目的の外に、従来、土地の所得は、セズマリアにせよ、ポッセにせよ、無償でされていたのを“未開地、terras devolutasは、購入以外の方法でこれを取得することを禁じる。ただし、外国との国境地帯に限り、国境から10レグア(60キロメートル)の範囲内の土地は無償で譲渡される。”と規定された。
 この規定のねらいは、ひとりでも多くコローノ移民を農場へ誘入したがっている農場主が、移民が農場へ這入らずに、容易に土地を求めて自営農となることを阻止するとともに、農場に就働中のコローノも土地を入手して独立するための農場に定住しなくなるという心配から、外国移民による土地の取得をできるだけ困難にすることにあった。
 未開地を無償で与えることに対する反対は、1842年8月、皇帝の諮問委員会において、次のように皇帝に進言しているのを見ても、農場主の意図ははっきりうかがえる。“土地をやたらに与えることは、他の如何なる原因よりも、今日すでに困難を感じている自由労働者の獲得に影響する。それゆえ、今後は例外なく土地は有償で与えるべきである。かくすれば、土地の値段が出て、資力のない移民は容易に土地を得ることができず、その資金をえるために、まず労働者となって働くことが望ましい。”(11)
(註11)J. Fernando Carneiro, Interpretação da política imigratória brasileira, II, Digesto Economico No.45, pag. 127~8.
 土地の無償取得を禁止したこの法令も、これまで、度々のセズマリアに関する法規が無視されたように、権力者にとっては、反古同様で実際にはほとんど価値がなかった。そして官有地の横領(esbulho)、詐取(fraude)は、ますます盛んに行われた。“少くともサン・パウロ州においては、伝統的なパウリスタの家族が所有するラチフンジオのある農地の半分は横領や詐取によって取得したものである。”(Leoncio Basbaum, Historia Sincera da República, I, pag. 83~84)
 そして、この法令によって、政府の外国移民誘入の努力が、植民地建設の自営開拓移民よりも、コーヒー農場へのコローノ移民の方へ大きく傾いたことは否定できない。そして、この法令の直後に、外国移民の植民地が最も多く設立されつつあったRio Grande do Sul州は、大牧場主が奴隷を確保するために、州令で植民地における奴隷使用を禁止した。かくして、外国移民による南部の開発はただ家族労働だけで行わなければならず、労力不足のために進展を阻まれる結果になった。
 殊に、fazendeiroのひざもとのSão Paulo州では、それゆえ、植民地の建設は1855年から1889年の30年間に、わずかに14ヶ所の植民地が開かれただけであった。
 奴隷労力の欠乏とヨーロッパ移民の誘入難から、fazendeiroたちはシナのクーリーを入れることを思いついた。クーリーの輸入についてはドン・ジョアン六世時代、即ち、独立前に、大規模な計画がたてられたが、わずか数百名を入れただけで中絶した。その後も、1855年とその翌年にまた、少数のものが輸入されたが、彼らは、ほとんど乞食になってリオの町をうろついていたといわれる。こうした失敗のため、クーリーを黒奴の代用として輸入することは、それきり放棄されていたが、1870年から再び問題にされ始めた。
 しかし、“クーリーの輸入は黒人奴隷に黄色奴隷を代えるものにすぎない”という奴隷解放論者のきびしい反対があった。しかし、農場主側は“クーリーは、わが国現在の状態では、奴隷の労力不足を補う唯一のもので、さしせまって必要なものである”“われわれは、農業を破滅から救う方法としクーリーの輸入以外に方法がない”と頑強に主張して、クーリー輸送の船会社設立の計画まで企てたが、会社の設立が挫折したため、この計画は実現しなかった。
 長年、伝統的に奴隷制度によって支えられてきた農場主は、奴隷制度もできるだけ存続させたかったのだから、欠乏する奴隷労力を補給するためにも、なるべく農奴的な労働者を希望していた。その結果、資本主義的な賃労働に切りかえることができず、コローノ制という前近代的な雇傭制が採用されたのである。
 大きな望みをかけたクーリー輸入の失敗は、農場主を失望させたが、このころ、ヨーロッパ諸国の農村は1870年から始まった農業恐慌にゆさぶられて、窮地に追いこまれた農民の海外への流出が飛躍的に激増し、1871~1880年間に約350万の移民がヨーロッパから出た。さらに、1881~1890年間には、それが倍加して750万弱という記録を作ったほどである。しかし、これら諸国移民の大部分は景気のいいアメリカ合衆国へ流れ込んで、ブラジルへ来たものは僅少であった。
 ブラジルにおけるコーヒー産業の重要性は年とともに、その比重を増大して、コーヒー産業を助長することは、当然国家的な政策であらねばならなかった。それゆえ、クーリー輸入に反対しても、ヨーロッパ移民をコーヒー農場へ誘入することには、政府は全力を注ぐようになった。かくて、ブラジルの移民政策が前と変って、コローノ移民の誘入をもっぱら国策とするようになった。
 ちょうどそのころから、イタリアを初め、スペイン、ポルトガルなど南欧諸国が移民流出期になりだしていた。そこで、ブラジル政府は、移民の旅費を補助することを立前として、南欧からのコローノ移民を大々的に勧誘したところ、目的地の農場まで旅費は一文もいらないということが、貧農の充満していた南部イタリアからおびただしいコローノ移民を流出させるようになった。そして、19世紀の最後の四半期だけで、約80万のコローノ移民を誘入することができたが、このうち、60万がイタリア人であった。とくに、1888年5月に奴隷制が廃止されてからは、移民はなだれこむようにやってきて、19世紀の終りまでの12年間は、コローノ移民の全盛期をつくった。
 充分な労働者がえられるようになるとともに、ぐんぐんのびて行くコーヒーの輸出景気にあふられて、企業家はきそって農場の拡張や新設をやり、1890年に2億2千万本だったサン・パウロ州のコーヒー樹数は、1900年には5億2千万本に達したのだが、向う見ずに行われた栽培の拡張は、1896年から生産過剰となり、それ以後は毎年売れ残りの滞貨は増大するばかりで、1905年には、ついに1.100万俵という記録的なストックになった。これは、じつに一年間の世界消費高の7割に相当するもので、輸出値段は1907年に底をつくまで10年間にわたって暴落しつづけた。
 
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サンパウロ人文科学研究所 Centro de Estudos Nipo-Brasileiros