前回は第二次世界大戦が勃発するまでの推移を略儀ながら述べさせて頂いた。今回は戦時中、そして戦後のブラジルの剣道について少々語りたい。
戦時中は剣道は『軍事訓練』と見られ、事実上禁止されたが、それでも人目を忍んで稽古に励んだ人も少なからず居た。今年(2008年)惜しくも他界された木村三男〔きむら・みつお〕先生も夜中に剣を振るい、普段は豚脂で明りを灯した養蚕所などで研鑽を重ね、満月の夜には野外で少数人の同志と共に鎬を削った。
そして1945年8月、ブラジル在住の同胞社会は終戦を迎え、俗に言う『カチマケ騒動』が始まる。この話題は以前、禁句扱いされていたが、数年前、カチマケ騒動の象徴となった臣道聯盟に焦点を当てた『Corações Sujos』(『穢れた心』)と言う本が発行され、大反響を起こしたので、この騒動は再度注目の的となった。近年、色んな観点から討議、分析されたので、ここでは詳しい説明は敢えて省かせて頂く。
ブラジルの剣道も当然ながらその渦中に巻き込まれた。あまり知る人はいないかも知れないが、有名な臣道聯盟の前者とも言える秘密結社『興道社』関係者の多くは剣道に携わっていた。『剣道』は日本伝統武道の一つなので、戦捷派の方が盛んに奨励した、と思われるかも知れないが、剣道の指導者の中には所謂認識派に属していた人物も多い。戦前剣道の最高峰であった菊地英二も認識派として檄文を発表している。
終戦後、一早く剣道が活発に再開したのは中央線である。スザノ市在住の大浦義右〔おおうら・よしすけ〕が佐藤武雄〔さとう・たけお〕等と共に戦後最初の剣道大会を開催したのが終戦後から半年過ぎた1946年2月11日である。小さい大会であったが、その意義は深い。それから除々に剣道は各地でまた復活し、特に奥地では盛んに稽古された。現ペレイラ・バレット市であるチエテ植民地では数百人が竹刀を持って鍛錬に明け暮れた。
稽古者の数が増えるに連れ、組織化運動が始まった。一番最初に出来たのは伯国中央線柔剣道連盟で、1947年には既に大会を催している。全盛期には十数支部を持ったが、1970年代には解散した。
若者を束ねた全伯青年連盟が結成された後、1950年には第一回全伯柔剣道大会がパカエンブー競技場で華々しく開催された。しかし、翌年には日伯産業振興会主催の同じく第一回全伯柔剣道大会が同じパカエンブー競技場で行われ、これによって毎年『全伯柔剣道大会』が二回も開かれる大珍事が起きた。
これでは駄目だ、と言う事で1954年の聖市創立400年祭から全国の剣道家を纏める組織を作り上げる為、色々な人物が奔走を始めた。その中には戦前からの剣士は勿論、戦後再会された移民としてブラジルに根を下ろした人物も居た。後者の場合、二次世界大戦で陸軍飛行士としてレイテの激戦を生延び、渡伯後福博剣道部を創立した谷口又夫〔たにぐち・またお〕、同じく陸軍兵であった穎川輝邦〔えいかわ・てるくに〕等が居た。
同時に日本とも頻繁に交渉があり、1951年には後の全日本剣道連盟の常任理事となった森下泰〔もりした・たい〕が来伯、1952年から1953年には中原實〔なかはら・みのる〕がブラジルで教えた。特に達士九段と呼ばれた中原がブラジル剣道界に及ぼした影響は途轍もなく大きく、各地で剣道熱が上がり、剣士達の腕も格段に上達した。
剣道愛好家達の努力は1959年、『全伯国剣道連盟』として実った。全日本剣道連盟最初の海外支部である。同連盟とは密接に連絡を取り合い、1962年には菊地英二〔きくち・えいじ〕、杉野千治〔すぎの・せんじ〕、そして安藤美代治郎〔あんどう・みよじろう〕がブラジル初の剣道教士の称号を貰い、藤原浩雄〔ふじわら・ひろお〕フレデリッコが錬士となった。翌年には大麻勇次〔おおあさ・ゆうじ〕範士十段が率いる全日本剣道連盟派遣の剣道使節団が来伯し、ブラジル剣道界が大いに沸いた。
また、1967年には第三回国際社会人剣道世界大会が開かれ、ブラジルからは杉野千治と児島昭徳〔こじま・あきのり〕が参加した。3年後には第一回世界剣道選手権大会が東京武道館で盛大に行われ、ブラジルは精鋭の選手団を送った結果、団体戦で見事第三位に輝いた。その大半はブラジルで剣道を積極的に指導していた方であり、聖武館創立者の戸井田富寿〔といた・とみとし〕、興武館創立者の清原義賢〔きよはら・よしかた〕、振武館創立者の木村三男、バストスの長橋智〔ながはし・さとし〕、聖市の東耕章〔ひがし・こうしょう〕、大累一郎〔おおるい・いちろう〕、藤原浩雄、村上勲〔むらかみ・いさお〕等が名を連ねていた。
1980年代に入ると、パウリスタ剣道連盟が発足した。これはブラジル政府公認の全国規模の組織を作るための布石であって、ここで一旦全伯国剣道連盟はパウリスタ剣道連盟にバトンタッチした形となる。1982年にサンパウロで開催された第五回世界剣道大会もパウリスタ剣道連盟が主催者となった。
技術面では国士館がブラジルに支部を設け、精鋭の剣士達がブラジルで長期間に渡って指導を行い、数多の優秀な伯国剣士を育成した。その結果、1982年の世界大会ではブラジルは第二位を勝ち取り、決勝戦では杉野栄治が日本の選手を下すなど並大抵ならぬ結果を残した。
1998年には晴れて政府公認の『ブラジル剣道連盟』が発足、2002年にはブラジルを中心に『南米剣道連盟』が正式に創立された。これによって組織的に基盤が整ったともいえよう。
しかし、バブル崩壊による日本からの援助の打ち切り、そして多くの伯国剣士を日本に向かわしたデカセギ現象によって、ブラジル剣道界は幾らか衰退、縮小してしまった印象もまた否めないであろう。これからの課題としては如何にして現在の剣士の技術向上と精神の涵養を図るか、そして如何にして剣道という貴重な日本の伝統文化をブラジルで正しく広めて発展させるか、と言う二点があると思う。
以上、非常に簡潔ながらブラジル剣道の歴史について述べさせて頂いた。至らない点は数多くあると思うが、色々とご指摘頂ければ幸甚の至りである。また、このテーマを語れる場所を与えて下さった佐々木様と人文研の方々に改めて御礼を申し上げたい。
著者について
小林ルイス
日系三世。サンパウロ大学で工学を専攻、博士号をとる。現在、ブラジル剣道の歴史の調査を行っている。