人文研ライブラリー:日本移民の社会史的研究(2)
アンドウ・ゼンパチ
terça-feira, 08 de dezembro de 2015

日本移民の社会史的研究
『研究レポートII』(1967年)収録
アンドウ・ゼンパチ

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2.巨大私有地の発生

 ブラジルの農業による開発は、そもそもの初めから、巨大私有地、すなわちlatifúndioを取得して行われたが、この土地所有形態は、ブラジル全土を400年にわたって支配してきたものである。
 ブラジル発見後に行われた沿岸の探査によって、発見当時、島だと思われていた土地が、意外にも広大な大陸であることが確認されたが、それと同時に、ここの土人すなわちインジオはまだ石器を使用している未開人で、あこがれの金銀の細工など身につけておらず、金銀の所在は知るよしもなかった。そして、貿易資源となるめぼしい物産としては、ただインド物産の一つである赤色染料になるブラジル樹、pau-brasilが南緯5º~22ºの熱帯および亜熱帯地域の沿岸の森林におびただしくあることが判明しただけだった。
 新大陸はポルトガル王室の所有となったが、ブラジル発見は世紀的宿望のインド航路が達成された直後であったため、パウ・ブラジル以外に有望な物産のない新大陸は王室の欲望を引きつけるだけの魅力がなかった。王室はただ、パウ・ブラジルを王室の専売品として、一定の商人に利益の5分の1を納付させる条件で特許して、これを伐採させただけで、発見後30年間もほとんど放置同様にして、新大陸の開発など念頭になかった。
 ところが、ポルトガル人がインド貿易だけに熱中している間隙に乗じて、東邦貿易に立ちおくれたイギリス・オランダ・フランスの商人がブラジル沿岸に侵入して、しきりにパウ・ブラジルを盗みとっていたが、特に、フランス人の活動は積極的で陸地侵略の危険さえ感じられた。そこで、ポルトガル王室は、この危険からブラジルを防衛するために、植民による開発を企て、ブラジル全土を、といっても、当時はトルデジーリャ境界線によってポルトガル領となる範囲は限定されていたが、30ないし100レグア(1レグアは6キロメートル)の幅で、海岸から奥地へトルデジーリャ線まで並行して東西に貫く15の帯状の領地に区画し、貴族や国家的功労者にこの地の用益権と統治権を世襲的に与えて、彼らの費用で土地の開発を行わせることにした。これがカピタニア制とよばれたものである。カピタニアとはカピトン(領主)の権利に属する土地という意味である。この権利を与えられる上にいろいろ規定があったが、その中で社会史的に見て最も重要なことは、領主は、カトリック教徒で資力のある植民者が開拓の目的で未開拓地の分譲を願い出た場合には、これを与えなければならないということである。この分譲される土地をセズマリアsesmariaといい、300年にわたってこの制度は続行されてlatifúndioとよばれる巨大私有地的土地の所有形態を確立し、ブラジルの社会経済上の発展にいろいろ重要な影響を与えるものになった。
 カピタニアは、幾多の特典や特権をつけて与えられたが、渡航費や開拓費に莫大な資金を必要とした上、開拓の成果に不安を感じて、これを受ける希望者はあまりなかった。ことに有力な貴族はインド貿易に関係してブラジルなど見向きもしなかったので、結局、これをもらったものは、1~2の者を除いてはあまり資力のない小貴族ばかりだった。それで彼らの中には、渡航や開拓の費用をポルトガルやオランダの銀行やユダヤ商人から借りてきたものもあったが、資金が思うようにできなかったものもあった。また、当時のポルトガルの人口は200万人をこえていなかったのに、インド貿易で海外へ出る者や、リスボンやポルトなどの港町に集るものが多く、農村は人口の不足に悩んでいた時だったので、政府は農民の海外移住を許さず、領主に伴われて植民者としてブラジルへ渡ったものは、若干の騎士や各種の職人の外は、流刑人や犯罪釈放者など強制的に移住させられたものが多かった。
 このような悪条件のもとで、とにかく、各カピタニアに植民地の建設が始まったが、カピタニア間のへだたりが大きすぎたため、どの植民地も全くの孤立状態におちいり、フランス人の海賊に悩まされる一方、現地における土人奴隷による労力の補給が思うようにならず、逆に土人からはげしく襲撃されたりして、開拓事業は困難をきわめた。また、北部のパライーバ、リオ・グランデ・ド・ノールテ、パラーおよびマラニョンのカタピニアの領主となった貴族たちは、共同して船12隻に騎士120名を含む1.500人の植民者を率い、充分な武装をととのえてブラジルへ向ったが、彼らは、最初から金銀鉱をねらっての奥地探検を目的としていたので、植民事業は着手されなかった。(4)
(註4)Roberto C. Simonsen, Historia Economica do Brasil, Tomo I, 1944, P. 136
 このような事情で、中部のペルナンブーコと南部のサン・ヴイセンテの二つ以外はどれも不成功に終り、カピタニア設置後20年たっても、植民者の数はブラジル全体で3.000にみたなかった。
 そこで、ポルトガル王室はブラジルの開発を王室の事業としてやることにし、カピタニア自治領制を総督による中央集権的統治に切りかえることにした。かくて、初代総督Tomé de Souzaは1549年、兵士400名と製糖工場の技師および各種工場の職人などの外に、600名近い犯罪釈放者を引きつれて来てカピタニーア・バイーアを接収して、ここに総督府をおいて、開拓事業の立てなおしに着手した。そのためカピタニアは封建的自治領の性格を失って、総督政府の統治下におかれた。ただし、世襲的に領主と称える権利は取られなかったから、領主は地方長官のようになった。そういうわけで、あるものは賠償によって、18世紀の中ごろには、全部のカピタニアが王室へ回収された。
 総督政治になって、製糖および牧畜によって開拓を行うものに対するセズマリアの譲与には、いろいろの規定があり、時代によって、また地方によって、その規定も種々変更されたが、この制度は、1822年7月まで継続されたもので、ブラジルにおける農業、牧畜による開拓の基礎となったものである。セズマリア譲与の条件としての主な規定を要約すると次のようなものであった。
1.セズマリアを譲与された者は、一定の期間内に(ふつう3~6年以内)これを開拓しなければならぬ。(砂糖、綿あるいは牧畜場などで)
1.一定の期間内に開拓されない土地は没収され、開拓の意志あるものに下附される。
1.セズマリア所有者は、カトリック教団に十分の一税を払う以外に、地租を支払う義務はない。(ただし、1699年から支払うようになった。)

 カピタニア制時代に、植民事業が失敗した原因の一つは、砂糖工場その他の労働はインジオを捕えた奴隷によってやらせたのだったが、狩猟採集の原始的な生活をしていたインジオには規則的な、しかも激しい労働は全く適さなかった。そのため死亡率も多く、逃亡もヒンパンで、それを補充するため、土人狩りが盛んになったが、このことがインジオの怨みを買い、農場がしばしば彼らから襲撃されることになったということである。
 ところが、総督政治になったころから、アフリカのコンゴおよびアンゴラ地方がポルトガル人によって征服され、この地方の黒人狩りと奴隷としての輸出が組織的に行われるようになって、砂糖農場では、手をやいたインジオ奴隷を黒人奴隷に代えることができるようになった。かくして、砂糖製造はようやく軌道にのり出した。
 砂糖を主要産業としたブラジルの農業開発はヨーロッパにおける需要の激増につれて盛んになっていった。そして、ブラジル北東部のバイーア州のRoconcavoから以北のリオ・グランデ・ド・ノルテ州のNatalへかけての海岸に沿った50~300キロ(平均80キロ)の幅の森林地帯はマサッペ、massapéとよばれる粘土質のすばらしい腐蝕土で、さとうきびの栽培には最も適していたし、またヨーロッパ市場へも近かったので、砂糖製造を企てたものは、みんなこの地方をねらってセズマリアを取得した。
 しかし、砂糖工場といっても、広大なさとうきび畑を作らねばならなかったし、都市はなかったのだから、農場経営に必要なもの一切と、ほとんどすべての生活必需品を農場内で自給しなければならなかったから、製糖工場の外に、大工工場、皮工場、鉄工場、煉瓦工場、襲撃に備えて作った城のような農場主の大邸宅、数十頭の労役牛、数十名から200名ぐらいの黒人奴隷(18世紀には1.000名の奴隷を使った農場もあった)。各工場で働く多数の職人や奴隷の監督などが必要だったから、小資本のものにはセズマリアを取得する資格が認められなかった。それゆえ、セズマリアを与えられたものは資力のある貴族や金持に限られることになった。
 セズマリアはふつう原則として、3平方レグアの面積であった。(5)
(註5)レグアには面積と距離と二つある。距離の1レグアは6キロメートルである。面積のレグアは正しくはlegua de sesmariaとよんだ。
 1レグアは6.600メートル平方の面積で、43.560km²すなわち4.365ヘクタールに当る。それゆえ3平方レグアは約13.000ヘクタールという厖大な土地である。当時、一つの砂糖農場を経営するのには、これだけの面積が必要だとされていたのであるが、実際には必要以上の土地を家族の者ひとりびとりの名儀で取得したり、その他の非合法的な手段で10レグア、20レグアという巨大な土地を私有することが一般に行われるようになった。土地そのものにはまだ経済的な値打はなかったが、広大な私有地を所有していることが社会的な地位を高め、権勢を強めるようになって、広大な私有地の取得はいろいろの手段を弄して行われたし、また、武力によって他人の土地を奪取して私有地を拡張したものさえいくらもあった。
 北東部の奥地は牧畜で開発されたが、牧場地帯では、ひとりに3レグアという規定は全く空文にひとしく、広漠たる面積の土地がごく少数の有力者の手に握られてしまった。たとえば、バイーア州では、初代総督Tomé de Souzaと親しかったGarcia d’Avilaの牧場は、後に彼の子孫によって拡張された土地を合わせると、サン・フランシスコ川に沿って260レグア、すなわち10.325.6km²で、岐阜県の面積にひとしい厖大なものであった。また、Antonio Guedes de Britoの牧場は160レグアであった。また、ペルナンブーコ州でも、Nicolau Aranha Pachecoは1658年に家族の者の名儀で400レグアを、その翌年さらに100レグアを獲得している。
 このように北東部では、不法に広大なセズマリアが少数の有力者に与えられたが、彼らはいずれも探検隊を組織して奥地へ侵入し、抵抗するインジオを追い払って開拓のために土地を確保した功労者であったし、また、海岸地帯では海賊を撃退したり、オランダ人との戦争で功をたてた者で、いろいろな手でセズマリアを願い出れば、政府は彼らの希望を拒むことはできなかったのだ。もちろん、単なる情実関係で規定以上に与えられたものもたくさんあった。
 北東部にくらべると、当時の南部であったリオ・デ・ジャネイロやサン・パウロはヨーロッパ市場へ遠く、砂糖農場経営上の諸条件も悪く有力な植民者からはふりむかれなかった。サン・パウロ州のごときは、標高800メートルの山脈が海岸にせまって屹立して交通を阻止していたため、広大なセズマリアを得て農業を営んでも、その産物を輸出することが不可能であった。それゆえ、北東部へ割りこめないような資力の少いものが、金鉱探しの探検隊を組織する拠点として、この地方のセズマリアを貰いうけたにすぎなかった。それゆえ、ほとんどが1レグアあるいはそれ以下であった。広大なセズマリアを取得したものもあったが、ぜんぜん開拓のしようがなく、分割して売却したり、遺産相続で分けたりして、私有地の面積は縮少していった。これは、あらゆる手段で土地の拡大を行った北東部とは反対の現象であった。しかし、19世紀になって、リオおよびサン・パウロ州にコーヒー産業が勃興するにおよんで、この地方にもコーヒー農場のプランテーション経営のために、latifúndioが出現するようになった。(6)
(註6)Roberto C. Simonsen, Historia Economica do Brasil, Tomo I, pag., 332のA, Propriedade ruralを見よ。
 しかし、サン・パウロ州以南は、気候が温帯に属しているため、パウ・ブラジルも生えておらず、輸出向の熱帯作物もできず、この地方にセズマリアを貰いうけるものはなかった。そして、17世紀中は、今日ブラジルの最南部になっているリオ・グランデ・ド・スール州は、トルデジーリャス境界線の外になっていたために、当然スペイン領であったから、サンタ・カタリーナ州が当時のブラジルの最南部になっていた。ポルトガル王は、この最南部の開発を国防上からも考慮して、サン・パウロ州にいる植民者をサンタ・カタリーナ州へ移住させることを企てた。そして、希望者にはだれにでもセズマリアを与えることにして移住を勧誘したので、サン・パウロでは、地理上の悪条件のために農場経営の発展の見込がなく、北東部の繁栄を見て歯ぎしりしていた連中の中には、一旗あげんものと、農奴や奴隷を引きつれて移住して行ったものもあったが、ここでは輸出向の産物が思うようにでず、国内市場がぜんぜんないために、作物を商品として売ることもできず、けっきょく自給経済の状態を続けるだけで、非常な困窮におちいってしまった。こういう事情で、この地方にはlatifúndioへ発展する可能性がなかったし、また小地主の自営農もなりたたなかった。
 サンタ・カタリーナの南に隣接するリオ・グランデ・ド・スールの西南部はアルゼンチンのパンパ大平原に続いている草原で最良の牧畜地域であるが、この平原には、16世紀にスペイン人がヨーロッパから連れてきて放した牛馬が、自然繁殖して18世紀の初めごろには至る所に野生の牛や馬や羊のおびただしい群がいた。このころのある旅行者が“その数は数百万頭におよぶ”そして、“馬などは一万頭ぐらいが一つの大群をなしていることは珍しくなかった”と書いているほどである。
 それゆえ、北東部や中央西部の牧畜のように、牛馬のぜんぜんいない所へ、雄牛1頭、仔牛10頭、馬ひとつがい、夫婦者の奴隷一組を一団としたものを、あちこちに点々と入れて、その繁殖を待っていたのとはちがって、ここでは、ただ野生の牛馬を捕えるだけでよかった。それゆえ、18世紀になって、ミナス地方に金鉱ブームが起きると、金山地帯の輸送用に多数の馬が需要されたが、これに目をつけて、トルデジーリャス線を突破して、どしどし、リオ・グランデへ入りこみ、主に馬を捕えてはミナスの金鉱へ売りさばくことを始めたのが、サン・パウロの植民者であった。リオ・グランデ州の牧畜はこうして始まったのだが、スペイン領への侵入であったから、アルゼンチンやウルグワイのスペイン系植民者との間に激しい土地の争奪戦が数十年にわたってくりかえされた。しかし、ブラジル人の勢力が強く、いつもスペイン系の植民者を追い払って土地を確保するとともに、セズマリアを獲得して牧場を経営するようになった。それゆえ、この地方に牧場経営のためのセズマリアを取得したものは、土地争奪戦で手柄をたてた軍人と牛馬の捕獲をやったサン・パウロの植民者で、北東部のように貴族的な家柄のものではなかった。しかし、セズマリアは規定の3レグアは、ここでもやはり無視されて、家族のものだれかれの名儀で取得した15~18レグア程度のものは、いくらもあったし、中には200レグアという巨大なものも現れた。
 18世紀の初頭から、中央部の山岳地帯に待望の金鉱が続々発見されたが、金鉱地域のセズマリアは、ひとりに僅か6ブラサ(1ブラサは1.45ヘクタール)しか与えられなかった。しかし、18世紀の末に金鉱が衰えて、牧畜・農業の時代になると、ここでも、sesmariaはレグアが基準になった。“ミナスの農場は、ふつう、牧場をあわせもっているが、その平均面積は、Eschwegeによれば、幅2レグアに長さ3レグアすなわち6平方レグアである。牧場は当時平均して9レグア平方(81平方レグア―訳者註)”(7)であった。
(註7)Oliveira Vianna, Populações Meridionais do Brasil, 1º Vol, 1922, 2ª edição, pag. 128.
 また、“マット・グロッソ州(中央部奥地)でもJoão Carlos Pereira Leiteは240レグアの大牧場に60万頭の牛を飼育していた。”(8)
(註8)Virgilio Corrêa Filho, Fazendas de Gado no Pantanal Mato-Grossense, P. 20.
 このようにブラジルの開発は、そもそもの初めから巨大なlatifúndioによって行われた。
 インド貿易が盛んであった間は、ポルトガル人はブラジルには興味がうすかったが、インド貿易をイギリスやオランダに奪われて、16世紀の終りごろから不景気風が吹き始めたころから、ヨーロッパでは、スペイン領アメリカから流れこんでくる莫大な銀のために価格革命が起り、さとうの値段も年々騰貴してブラジルにすばらしい砂糖景気がやってきた。そして、ポルトガルから資本をもった有力者が盛んに北東部へ移住して広大なセズマリアを獲得した。
 18世紀の金時代が出現するまでのブラジルの政治、経済、社会の中心は北東部の砂糖農場地域にあって、その奥地の牧畜地域を含めた約100平方キロという広漠たる面積が、あますところなく少数の有力者だけによって占められてしまった。
 しかし、このような広大な土地を私有しても、それを規定通り開拓して人間を入れることはやらず、未開墾のままにしてあるものが多かった。それゆえ、私有地の不法な拡大は、いろいろな弊害を生じた。そして、無資力者は一片の土地も所有することができず、latifúndioの土地を借りて農奴にひとしく小作人、moradorになるか、ややましな者でも分益農をやるのがせいぜいであった。こんな境遇にあるものが一つのlatifúndioの中に数千人もいたところがあった。
 土地開発の進展を阻止するこのような弊害をなくすために、ポルトガル王は、1699年に新たにセズマリアに関する法令を発布して、セズマリアを譲与しても、定められた期間内に全部の土地を開拓して植民しなければ、未開発の部分は没収して、この事実を告発した者に3レグアを限度として、さらに譲与することにした。また、それまで免除されていた地租を徴収することにした。しかし、大部分のセズマリア所有者は、地租を払うことも、完全に開拓、植民することも、ずうずうしくごまかしていた。
 しかし、不法に広大なlatifúndioが存在しているのに、王室は1780年に、3レグア以下の面積では、農業も牧畜も経営が充分に行われないという理由から、それを所有者が分割して売ったり、また家財相続の場合に分配することを禁じた。この奇妙な法令によって、ますます小土地所有は不可能となり、latifúndioの存続を容易にすることに役立っただけで、産業の発展は逆に阻止される結果に終った。
 王室は1699年の法令以後も、セズマリアの譲渡は面積を3レグアに限定するよう、たびたび命じたが実行されなかった。
 18世紀前半は黄金景気に引きつけられてポルトガルからの移住者も激増したが、ほとんど独身者だったので、彼らと黒人の女やインジオとの間にできた混血の子孫もふえて、17世紀末ごろは奴隷を含めても僅か30万そこそこであった人口が、18世紀の終りごろには250万にふくれた。しかし、民衆の大部分は一片の土地を持っていない貧民で、大私有地の農奴(agregado)か、あちこちのlatifúndioを仕事を求めて渡り歩く貧しい自由労働者かで、さらに都市の浮浪人(vadio ou vagabundo)や無頼漢(malandro)になったものや乞食や盗賊の数もおびただしかった。

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サンパウロ人文科学研究所 Centro de Estudos Nipo-Brasileiros