ブラジルにおける日系農業史研究:「サン・パウロ近郊における日本人野菜生産販売概史」(6)
中野順夫(ブラジル農業研究者)
sexta-feira, 27 de outubro de 2017

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第 6 章 野菜流通における日本人

1 日本人委託販売人の台頭
 第二次世界大戦後にサン・パウロ市場で野菜需要が増大した背景には、委託販売人の増大という事情もある。とくに、日本人の進出がめざましい。同じことは、フェイランテについてもいえる。フェイラでは 1930 年代半ばから、日本人の野菜販売商が増えはじめていた。サン・パウロ郊外へむかって労働者階級の居住区域がひろがるにともない、市営フェイラもどんどん増設されていく。そこで野菜を売るのは、主としてポルトガル人と日本人。1950 年代にはいると、日本人の数がさらにふえていく。日本人フェイランテは消費者に信用されていた[注-56]。
 日本人は計量やツリ銭をごまかさない。この点は、メルカード・グランデでも同じ。野菜を仕入れるフェイランテ自身、日本人卸売商と取引したがった。コチア産業組合は 1930 年代後半、まだ野菜需要がわずかだったころに、日本人フェイランテをとりこんで販路を拡大した。これがひとつのモデルケースとなり、青果物卸売市場の商人も、できるだけ日本人の小売商へ売りこもうとする。委託販売人同士の競争は、日本人のほうが有利だった。信用度が高かったほか、「同じ日本人同士」という親近感もある。
 1950 年代から 1960 年代にかけて、サン・パウロ市の青果物取引を牛耳ったのは日本人といってよい。とりわけ、日本人が設立した「五大組合」と呼ばれる農協(コチア、スールブラジル、産組中央会、モジ、バンデイランテ)は、取引量が大きかっただけでなく、販路拡張によりサン・パウロ州内の地方都市、さらに他州でも野菜の新規需要を喚起。生産販売促進の原動力として機能した。
 1960 年代になると、この機能がひろく知れわたり、日本人農家といえば「野菜づくり」というイメージが強かった。同時に、青果物卸売市場でもフェイラでも、野菜販売商人といえば、まっさきに日本人が連想された。サン・パウロ市民にとって、それほどに野菜と日本人は密接な関係にあると思われていた。このイメージがあまりにも強かったことから、日本人農家と流通業者に対する大きな誤解が生じたのも事実である。
 当時よく聞く話に、「サン・パウロ市場へ供給される野菜の 80 % は日本人が生産している」というのがある。これを裏づけるため、主要品目ごとに数字をあげる研究者もいた。だが、根拠はない。というよりも、「まちがった根拠による数字あそび」というほうがあたっている。野菜の生産統計がなかった時代であるから、「日本人の生産シェア 80 パーセント」というのは、 あくまでも推定値にすぎない。生産量をしめす統計数字が存在しなかった時代、なにを根拠に算出したのか信憑性にかける。
 サン・パウロ市における野菜類の卸売取引で、日本人のシェアをしめす数字が、いくつかの刊行物に記載されている。いずれも、どのような調査結果なのか説明されていない。市営青果物卸売市場( 1966 年からは Ceagesp )における販売量を、主たる根拠にしたのであろうが、信憑性にとぼしい。卸売取引にかかわる委託販売人の 8 割までが日本人だったので、その販売量を基準値とした可能性が大きい。しかし、品目によっては、日本人の販売シェアがもっと大きなものもあれば、小さいものもある。たとえば、ジャガイモ、トマト、キュウリ、ナス、キャベツ、ハクサイ、ネギなら、販売シェアも比較的高かったであろう。だが、カボチャ、キャッサバ、ズッキーニ、パースニップ、タマネギ、ニンニク、オクラ、ミドリナス、ケール、ブロッコリーなら低かったはず。
 さらに、ある品目の販売シェアが 60 % あったとしても、そのすべてが日本人農家によって生産されたわけではない。委託販売人が日本人だったからといって、取引相手である農家がすべて日本人だったわけではなかったからだ。取引量の多い商人は非日系農家との取引量も多い。たとえば、最大手であるコチア産業組合の場合、1960 年代をつうじて、非日系組合員が増大。ジャガイモ販売で、第三者取引(非組合員から買付)は非日系農家が増えつつあった。
 こうした事情を考慮すると、日本人の生産シェアが 80 % だったとするのは疑問。もっと小さなシェアだったと推測される。ただし、1950 年代から 1960 年代にかけての 20 年間だけを対象とするなら、日本人が野菜生産の主力だったということはできる。それには、次項で述べる「日系農協の競合」と「サン・パウロ州内における野菜産地の拡散」が大きくかかわっている。
[注-56] 日本人は 1920 年代からフェイラに参入していたが、市役所に登録していたかどうかは疑問。1934 年から登録義務の取り締まりが強化されたので、おそらく、そのころに登録しはじめたと推測される。1930 年代は市営フェイラの数が急増した時期であり、日本人フェイランテもふえていく。1960 年代には「日本人がフェイランテの 7 割を占める」と評されたが、統計数字がないため真偽のほどはさだかでない。それはともあれ、フェイラで野菜を売る日本人は、いずれも信用度が高かった。ポルトガル語会話がへたなので、商売で信用をえるのはむずかしいはず。だが、小売市場における日本人にほぼ共通するのは、(1) 野菜の値段はほかの商人よりちょっとだけ安い。(2) 値段はおなじでも値引きしたり、なにかちょっとしたものを「オマケ」としてつけてくれる。(3) 数量やツリ銭をごまかさない。(4) 早朝から売り場の準備をして開業時間が早い。(5) あいそがよい。このうち、値引きとゴマカシ問題は重要である。どちらも植民地時代に定着。フェイランテとなった日本人は、計量もツリ銭もごまかさない。良質のものと不良品をまぜて高く売るようなこともしない。だから、ヨーロッパ人フェイランテよりも人気があった。

2 日系組合による競合
 ここでいう日系組合とは、日本人により設立された農協のうち、サン・パウロ市または近郊都市を本拠地とするものをいう。第二次世界大戦終結後 1960 年代末までのざっと 25 年間を対象とするので、該当するのは五大組合。サン・パウロ市の青果物卸売り市場で、これら 5 組合が販売にしのぎをけずった。そして、コチアがダントツの伸びをみせ、これにスールブラジルがつづく。1940 年代から 1950 年代にかけて、コチアを追い上げていたモジ産業組合は、1960 年代にはいりしだいに後退。バンデイランテも似たような経過をたどる。
 一方、産組中央会は、1942 年の改組以来、主としてサン・パウロ州西部地方の日系組合を傘下におさめてきた。主たる生産物はコーヒー、ワタ、雑穀、鶏卵、ブロイラーであり、野菜果樹は少ない。したがって、サン・パウロ市場における野菜販売量もほかの組合とは比較にならなかった。奥地の日系農協は、鶏卵生産が増大したものの、野菜果樹はしだいに減少。1960 年代ともなると、同中央会の取引量はとりたてていうほどのものではなかった。
 このような経緯から、1970 年の時点で日系農協の勢力図をながめると、コチアとスールブラジルが業績を拡大発展させ、ほかは衰退していったといえる。日系農協同士の競合結果であるが、それにとどまらず、農協と委託販売人の競争をも考慮しなければならない。野菜販売戦線における業績低下をきたした組合の場合、委託販売人との競争に敗れたという面もある。
 委託販売人は、通常、個人商店である。ところが、1950 年代の野菜需要増大期に、生産農家との取引を拡大した商人のなかから、販売組合を組織する者があらわれた。日本人が組織した代表的なケースは、マウアー産業組合である。サン・パウロ近郊、とくにマウアー市を中心に、リオ・グランデ・ダ・セーラ市、リベイラン・ピーレス市、サント・アンドレー市の日本人農家を組合員とし、市営青果物卸売市場で新興勢力をきずきあげた。
 一方、野菜の大産地だったモジ・ダス・クルーゼス市では、農家数が増大するにつれて、条件のよい土地が値上がりし、入手しにくくなってきた。つまり、既存の農家にとって、作付面積の拡張が困難になった。1960 年代にはいると、工業化による地価上昇問題も生じた。
 安価な土地を取得できなければ、産地として頭打ちになるのはどの作物にも共通する。野菜の場合、モジ市だけが適地ということではないから、農業開発が遅れた西南方面へひろがっていった。サン・パウロ市の北方、マイリポラン市、フランコ・ダ・ロッシャ市は、全般的に起伏がはげしく、道路事情も悪い。西側のイタペセリカ・ダ・セーラ市からコチア市にかけては、全般的に砂質土壌で野菜栽培の適地が少ない。したがって、東南および西南近郊をのぞき、1930 年代に日本人が野菜づくりをおこなった一帯は、好適地をほぼ使いつくした感じになってしまった[注-57]。
 日系組合の組合員は、産組中央会をのぞき、サン・パウロ近郊に集中していた。都市化と工業化の波をかぶり、コスト高で採算性がおびやかされたわけである。そのような状況下で日系組合同士が競争しても、ともだおれになってしまう。事実、収益性が低下したモジ産業組合とバンデイランテ産業組合は、1960 年代後半に組合間競争から脱落した。では、野菜販売シェアを拡大したコチアとスールブラジルが、利益を享受したのかといえば、そうでなかった。
 両組合とも、卸売市場内の商人や新興販売組合と競争しなければならなかった。サン・パウロ近郊における生産拡大に期待できなければ、もっと遠方の産地から野菜果実の出荷をうながさねばならない。日系組合にかぎらず、第二次世界大戦後に、州内各地で続々と設立された農協は、大手商人と生産物集荷の競争を展開。野菜の生産販売はあらたな局面をむかえた。それには、サン・パウロ州内における幹線道路の整備がともなう。
[注-57] サン・パウロ近郊で野菜栽培面積を拡張できない理由として、都市化の問題もある。1956 年以降、クビチェック大統領が推進した工業化政策で、サン・パウロ市の南部に隣接する地域が工場地帯となった。サント・アンドレー市、サン・ベルナルド・ド・カンポ市、サン・カエターノ・ド・スル市である。イニシアルをとって、「 ABC 地帯」と呼ばれる。少し遅れて、1960 年代半ばに工場進出がはじまったジアデーマ市をふくめ、「 ABCD 地帯」ともいう。自動車会社をはじめ、部品下請け工場が集中。短期間に工業地帯となった。この影響で、中小企業がグアルーリョス市に工場を建設。さらに、スザノ製紙(スザノ市)の設備拡張により、モジ・ダス・クルーゼス市へむかい労働者住宅がふえていく。一方、サン・パウロ市内の工場労働者居住地は、東部のペーニャ区からイタケーラ区、イタイン・パウリスタ区、サン・ミゲール・パウリスタ区へとひろがる。1930 年代に郊外だったタツアペーからヴィラ・マチルデ地区は、1960 年代に宅地と化した。さらに、イタケーラ区からフェラース・デ・ヴァスコンセーロス市、イタクアケセツーバ市、ポアー市、アルジャー市、スザノ市へと、セントラル鉄道にそって東進しつづける。野菜産地だったスザノ市、モジ・ダス・クルーゼス市も市街地が拡大され、市域全体の地価上昇をまねく。1970 年代にはいると、農村労働者が激減。この点でも、小規模野菜果樹栽培はコスト高となり、農家経営は困難になってきた。

3 州内に拡散する野菜産地
 サン・パウロ市を中心とする国道および州道の整備は、1960 年代をつうじてかなり進行した。それにともない農家は拡散し、あちこちにあらたな野菜産地が形成される。幹線道路として、国道 116 号線のリオ市=サン・パウロ市=クリチーバ市(パラナ州)が敷設された。つぎは、サン・パウロ=サントス間(州道 150 号線)とアニャングエラ道路(州道 330 号線)のサン・パウロ=リベイラン・プレト間。この道路がリメイラ市で西北へ分岐し、アララクアラ市まで舗装される(ワシントン・ルイス道路)。さらに、国道 381 号線(サン・パウロ=ベロ・オリゾンテ間)、州道 280 号線(サン・パウロ=バウルー間)の敷設に着工。
 これらの舗装道路が完成し、あるいは工事の進行にともない、野菜果実は遠方の産地からサン・パウロ市場へ送付されるようになる。1970 年ころには、ピンダモンニャンガーバ市からロレーナ市(東部)、イタペチニンガ市からイタペーヴァ市、グアピアラ市(西部)、リベイラン・プレト市からアララクアラ市(北部)、ウバツーバ市からサントス市、レジストロ市、イグアッペ市(南部)が、野菜供給の条件をそなえるようになった。輸送距離が 200 キロメートルから 300 キロメートルの範囲までひろがったわけである。
 ミナス・ジェライス州南部は、19 世紀後半からコーヒー産地として知られていたが、1960 年代以降、ジャガイモをはじめとする各種野菜類、果実、花卉類の産地づくりが進行。西のピエダーデ市からサン・ミゲール・アルカンジョ市、イタペチニンガ市、カポン・ボニート市は、ジャガイモ、タマネギ、トマトなど野菜を中心とする産地に変貌。
 北のリベイラン・プレトは、「ブラジルのカリフォルニア」と呼ばれるとおり、熱帯から亜熱帯にかけての作物なら、たいがいのものを栽培できる。1930 年代にコーヒーからサトウキビへ転換。さらに雑作が普及。1960 年代末にアニャングエラ道路が舗装されると、野菜の新興産地となる。ワシントン・ルイス道路(州道 310 号線)も同じで、リオ・クラーロ市、サン・カルロス市、アララクアラ市でも野菜栽培が拡大。それより奥、マタン市、タクアリチンガ市、カタンドゥーヴァ市はオレンジ産地となった。
 もっと近い、半径 100 ないし 100 キロメートル圏内でも事情はどんどん変わっていった。ジュンディアイー市からカンピーナス市にかけては、野菜類のほか果樹と花卉類の生産がふえる。西北方向に位置するインダイアツーバ市は、1960 年代前半におけるトマトの大産地。フェルナン・ディアス道路(国道 380 号線)にそったアチバイア市はイチゴと花卉類の産地。その先、ブラガンサ・パウリスタ市はジャガイモ。西のソロカバ市を中心とする一帯は、オレンジとライム(酸味の強いタヒチ種)の産地。海岸線のカラグアタツーバ市からウバツーバ市は、サントス市場へ供給する野菜産地。レージス・ビテンクール道路(国道 116 号線)の沿線では、サン・パウロ市場へ供給する野菜栽培が、サン・ロウレンソ・ダ・セーラ市から西南、ジュキチーバ市、レジストロ市へとひろがる。こうした新興産地形成は、1970 年代にはさらに加速化され、サン・パウロ州内にとどまらず、他州へとひろまっていく[注-58]。
 野菜の多くは「日もちがしない」ことから、メロンのように 3,000 キロメートルもの遠方からトラック輸送できるものは少ない。しかし、2,000 キロメートル圏内なら可能。ジュアゼイロ=ペトロリーナ地方のタマネギは、国道 116 号線(リオ=フェイラ・デ・サンターナ間)が開通したことにより、1968 年ころから、リオ市場およびサン・パウロ市場へ送付されるようになった。1980 年代は、ミナス・ジェライス州西北部のジャガイモ、ニンジン。1990 年代はシャッパーダ・ディアマンチーナ(バイア州中部高原)のジャガイモ、ニンジン、タマネギなども、サン・パウロ市場へ供給される。
 これら遠隔地における野菜栽培は、ほとんどが農産企業によるもので、数百ヘクタールから 1,000 ヘクタールの作付である。日系組合は、1970 年代から 1980 年代にかけて、農産企業と競合。しだいに押されて、販売シェアを低下させていく。コチアとスールブラジルが、1988 年ころから急速に資金繰りを悪化させたのも、野菜果実、そして鶏卵、ブロイラーの販売戦線におけるシェア後退が、ひとつの原因とみられる。
[注-58] 1960 年代以降、野菜の新興産地はサン・パウロ州にとどまらず他州にも出現した。パラナ州北部のロンドリーナ市からアプカラーナ市の一帯でも野菜果樹栽培が発展。さらに、ゴイアス州南部はジャガイモ供給源、南バイアのカラヴェーラス地方(現テイシェイラ・デ・フレイタス市を中心とする国道 101 号線付近)はメロン、カボチャ、トマトの供給地となった。もっと遠方、アマゾン地方では、ベレン近郊在住日本人農家がメロン栽培を手がける。1971 年から地元農協(カスタニャール農協、パラエンセ産業組合)をつうじて、サン・パウロ市まで 3,000 キロメートルの距離をトラック輸送しはじめる(当時のベレン=ブラジリア間は、まだ半分以上が未舗装だった)。一方、サン・フランシスコ川沿岸のジュアゼイロ市(バイア州)およびペトロリーナ市(ペルナンブコ州)では、SUVALE (サン・フランシスコ川流域経済開発事業団)による農業開発がはじまり、日本人(主としてコチアとスールブラジルの組合員)も進出。それまでのタマネギ産地が、熱帯果樹栽培に変貌した。とくに、イタリアブドウ、メロンの産地として、ほかとはまったくちがう「時期はずれ」の出荷で注目された。メロン栽培は、リオ・グランデ・ド・ノルテ州モソロ市の農産企業も参入。カシューナッツ生産を目的としたが、1970 年代後半に、カシューナッツの木が生育途上にある間、メロンを植えて資金繰りの助けとした。1 回の作付面積が 1000 ヘクタールを単位とし、1980 年ころには 10,000 ヘクタール規模まで拡張。収穫したメロンの大半をサン・パウロ市場へ送付したため、相場は急速に低下。それまで、サン・フランシスコ川沿岸地方および南バイアにおける生産で利益をあげていた、コチア産業組合中央会とスールブラジル農業協同組合中央会も、モソロ地方の安価なメロンには太刀打ちできなくなった。その間隙を縫って、サン・パウロ市から進出した日本人卸売業者が、各産地のメロンを買い集めしだいに勢力を拡大していった。これもまた、サン・パウロ市場における両組合の販売シェア低下を加速化される一因とされる。

4 サン・パウロ市場の青果物集散機能
 野菜の生産販売にとって、1950 年代は「飛躍の時期」とみることもできる。1940 年代は、「コチアのひとり勝ち」といった観があった。50 年代はほかの日系農協も事業を飛躍発展させた。野菜販売で組合間の競争が展開される。委託販売人という個人商人もかなりふえたが、取引量において日系組合の相手ではない。だが、新規参入した卸売商人の大半が日本人だったことから、日本人同士の競争へと突入。野菜をもとめて、しだいに遠隔の産地と取引するようになった。その結果、野菜産地が拡散していった事情はすでに述べたとおりである。
 ジャガイモやトマトの産地が移動したのに付随して、ほかの野菜もサン・パウロ市場へ出荷された。トマト栽培の主力が日本人だったので、とうぜんであろう。日本人の多くは、トマト単作をさけ、ナス、キャベツ、キュウリ、ニンジンなど、別の野菜も栽培した。これらをトマトといっしょに送付。サン・パウロ市場の集荷機能はますます高まった[注-59]。
 サン・パウロ市およびリオ市を基点とし、アマゾン地方をのぞく各州都へつうずる幹線道路網が整備されたのは 1960 年代から 1970 年代のことである。それまでは、生鮮食品が域内流通に依存していたのもしかたないことだった。つまり、青果物について、サン・パウロ市の集荷分散機能も、道路網の発達に依存していた。トラック輸送に好適な舗装道路が延長されるとともに、青果物取引の事情も変わっていく。
 トラック輸送は鉄道よりも便利であるが、舗装道路を必要とする。舗装工事はカネがかかり、国道といえどもかんたんには改装できない。ましてや、州道ともなれば、1970 年代まで、資金を準備できたのはサン・パウロ州、パラナ州、リオ・グランデ・ド・スル州くらいなもの。ほかは国庫補助に依存しなければならなかった。したがって、道路事情もまずサン・パウロ州から改善されていった。それにより、青果物産地が州内に拡散し、サン・パウロ市場の集荷機能が高まったわけである。産地の分散は、ジャガイモとトマトが早かった。ほかの野菜類についてみると、大半が 1970 年代以降のことだった。
 分散機能の発達も国道の整備と関連する。116 号線(ポルト・アレグレ=サン・パウロ=フェイラ・デ・サンターナの区間)、101 号線(サルヴァドール=ジョアン・ペッソア間)、380 号線(サン・パウロ=ベロ・オリゾンテ間)、050 号線(ウベラーバ=ウベルランディア間)、153 号線(ウベルランディア=ゴイアニア間)、060 号線(ゴイアニア=ブラジリア間)、369 号線(オウリーニョス=マリンガー間)、277 号線(クリチーバ=フォス・ド・イグアスー間)は、1970 年までに完工していた。
 したがって、サン・パウロ市からこれらの国道工事が進むにつれ、沿線都市へ各種の商品をトラック輸送することができた。この点、1960 年代は、流通面における変革期といってよい。青果物については、サン・パウロ市場の分散機能が拡大したことになる。1970 年代から 1980 年代にかけて、道路網がさらにひろがり、産地事情も変わってくる。この 20 年間は、青果物が主要産地から主要消費都市へ直送されるようになった。そして、地産地消傾向も強まってくる。1990 年代になると、サン・パウロ市場の集散機能は急速に縮小され、入荷した生産物の多くは、大サン・パウロ圏および州内主要都市で消費されるようになった。
 道路網の発達は、沿線の中小都市に経済発展をもたらした。都市化が進むとともに、中都市では軽工業も発達。あちこちに、軽工業団地が造成されたことで、人口集中もうながされる。こうして、地方都市もまた消費都市へと変貌。この傾向はサン・パウロ州以南の地域で、1970 年代からはじまっていた。1990 年代には中央高原にひろがり、21 世紀は東北ブラジル内陸地方の小都市が同じ傾向をたどり、農業生産および農産加工を主力に経済発展しつつある。
[注-59] トマトの改良品種「サンタ・クルース」 (Tomate Santa Cruz) は、第二次世界大戦前に日本人が発見した自然交配種である。1870 年代にイタリア人がもちこんだのは、「レイ・ウンベルト」という加工用品種だった。その前からサン・パウロ郊外のポルトガル人が栽培していたのは、シャカレイロとよばれる自生種である。生田博(「山本喜誉司賞の歩み」、p. 194 )は、「品質が悪く果肉が柔らかく輸送に耐えなかった」と記述。したがって、イタリア人が栽培したトマトはほとんど加工原料とされた。それでも、収穫したトマトの一部をサラダ用として販売。イタリア人労働者階級のあいだにサラダがひろまっていく。一方、モジ・ダス・クルーゼス市に集中した日本人のなかで、トマトの自然交配種(シャカレイロ x レイ・ウンベルト)をみつけた者がいた。残念ながら名はつたわっていない。モジ管内在住者だが、現在のモジ・ダス・クルーゼス市なのか、あるいはスザノ市( 1949 年 12 月 24 日にモジ市から分離されスザノ市となる)なのかも不明。このトマトが、1939 年半ばころ、コチア産業組合リオ販売所へ出荷された。安達茂一郎主任の目にとまる。形、色、ツヤ、そして味のよい品物があることに気がついた安達は、販売上の経験から、「このトマトなら高く売れる」と判断。サンタ・クルース植民地の組合員に栽培させようと考えた。1 箱だけ売らずに残す。これを、サンタ・クルース植民地の篤農家、渡邊一に渡し、種子増殖を依頼した。渡邊は懇意にしていた飛田茂太郎と折半。ふたりで種子増殖をはじめる。1940 年は種子増産で暮れた。1941 年 3 月から、植民地のコチア組合員がいっせいに栽培を開始。収穫は 7 月から 8 月にかけて、冬場の供給不足時期にあたる。その前から試験販売をつうじて、リオ市場の受けがよいことはわかっていた。安達は「トマテ・サンタクルース」( Tomate Santa Cruz 、サンタ・クルース産トマト)の名で売りだすことにした。収量は 1,000 本あたり 300 箱( 1 箱 22 kg ~ 23 kg)。収量もさることながら、形状、色彩、光沢、肉質、味の点でもそれまでの在来種とはちがう。さらに、形と大きさがそろっているので箱詰めも容易。日もちがよいうえ、輸送中の品傷みも少ない。当時のトマトとしては、最高の条件をそなえていた。サン・パウロ近郊から送付されるものよりも良質で、リオ市場の商人は争うようにしてこれを求め種子を増殖した。もともと、モジ地方からきたトマトだったが、リオにおける成績を知ったコチア産業組合蔬菜部は、種子をとりよせサン・パウロ近郊の組合員に採種させた。サン・パウロ市場でも品質が認められ、近郊のトマトづくりは「サンタ・クルース種」一色になってしまう。そして、パラナ州からリオ・グランデ・ド・スル州にまでひろまった。こうして 1943 年以降、サン・パウロ市場でも同じトマトが販売される。そのころになると、ブラジルの研究機関も放ってはおかない。IAC (サン・パウロ州農務局カンピーナス農事研究所)の専門家がとりあげ、品種固定の確認試験に着手。サンタ・クルース植民地で日本人がこぞって栽培した 1942 年ころ、すでに品種特性は固定されていたようである。IAC では、サンタ・クルース種 (Variedade Santa Cruz) と命名した(年月日不詳、1950 年代初めと推測される)。以後、この品種はサン・パウロ州内はもとより、ブラジル全国にひろまっていく。そして、サンタ・クルース種を母体に、さまざまな品種が作出されていった。トマトの品種改良史に記録される、ブラジルで「もっとも代表的な品種」である。だが、サンタ・クルース種はビールス病に弱い。1960 年代、IAC 研究員だった永井洋は、トマトの耐病性品種作出ととりくむ。そして、1969 年、生食用トマト「アンジェラ種」 (contra-variedade Ângela) を作出。Y ビールス抵抗性遺伝子、萎凋病抵抗性遺伝子が組みこまれた。在来品種(サンタ・クルース系)よりやや大型果で生産性が高い。以後、アンジェラを母体とする品種改良が進む。ブラジルのトマト品種は、上記のとおりモジ方面に日本人が発見し、リオで安達が種子増殖を考えた。同じものがリオからサン・パウロへもどり、日本人が増産した結果、卸売市場を席巻。さらに、耐病性品種を作出した永井洋も日本人( 1935 年、東京都生)である。日本人が関与した品種改良で、サンタ・クルース種トマトほどひろくいきわたり、永続したものはほかにみあたらない。最大の功労者ともいうべき、最初の発見者は、名も残さないままうずもれてしまった。だが、日本人の功績として事績は永遠に残るであろう。

5 CEAGESP の役割
 ところで、サン・パウロ市の青果物取引について、市営市場が 1966 年に州営企業 CEAGESP (サン・パウロ青果物卸売市場・貯蔵会社)[注-60]へ移管されたことは前にのべた。青果物流通問題を論ずるとき、同社を抜きにすることはできない。1970 年代から 1980 年代にかけて、集散機能の中心的役割をになっていた。こうして、青果物市場は機能したが、穀物および水産物については、計画とだいぶちがったものになってしまった[注-61]。
 もうひとつ、ジャガイモや穀類の卸売取引について、Ceagesp の機能は小さい。これらの農産物も入荷するが、サン・パウロ市全体の取引量とくらべ、さほど重要とみなされない。主要卸売業者が、サンタ・ローザ街を中心とする一帯にとどまったからである。これは、セアザ計画のなかで大きな誤算だった。だが、21 世紀の今日になってみれば、かならずしも「マチガイ」とはいえない面もある。
 卸売市場移転の大きな理由はいくつかあった。もっとも大きな問題は、セントロ地区の交通混雑である。カンタレイラ街、バラン・デ・ドゥプラー街、カルロス・ソウザ・ナザレー街は、いずれも幅員がせまく、大型トラックが両側に駐車すると、ほかの車両は通行しにくい。1960 年代後半、車両が急に大型化したことも誤算だった。かなり広域にまで渋滞の影響がおよぶようになり、市役所としては早期に解決しなければならない問題である。さらに、衛生問題もある[注-62]。
 こうした都市問題のほか、青果物取引そのものにかかわる憂慮がある。サン・パウロ市の人口は、1940 年代、1950 年代と急増をつづけ、「将来、どこまで増大するか見当もつかない」という状態だった。市民に生活物を配給する卸売市場は、あまりにも小さく、生産物を収容しきれない。もっと大きな施設を用意するのは、市役所にとっても州政府にとっても、至上命令のようなものである。しかし、セントロ地区に近いところで、大きな敷地を用意することはできない。結局、郊外へもっていくことにした。こうして、セアザ計画が作成され、1960 年にスタート[注-63]。
 それよりも、農産物流通事情が大きくかわった要因を分析すると、農協の機能を無視できない。1980 年代以降、穀物部門では、農協の生産シェアがしだいに拡大。2015 年現在、推定 40 % 前後といわれる。それも、大手農協に集中しており、それぞれ独自の販売所をサン・パウロ市内に開設した。取引量が多いので、サント・ローザ街やセアザにこだわる必要はない。大型トレーラーの荷卸し、あるいは積み込みを容易にするスペースがあればよい。しかも、生産量の大半は、産地から消費地へ直送するので、サン・パウロ市内へ送付される量はごく一部にすぎず、巨大倉庫は不要。この点でも、セアザの集散機能は、穀物の流通にとって重要なものとはいえない。
 事実、1980 年代後半から、セアザの集散機能は低下してきた。1970 年代以降、野菜果実の卸売がセアザの主要事業となっていた。それに若干の花卉類がくわわる。ところが、1973 年に、リオ・グランデ・ド・スル州政府は、ポルト・アレグレ市に州営配給センター (CEASA-RS: Centrais de Abastecimento do Rio Grande do Sul) を開設。サン・パウロの場合とおなじく、通称「セアザ」 (Ceasa) で知られる。つづいて、1974 年、リオ市郊外に、州営グアナバラ配給センター (Centro de Abastecimento e de Distribuição do Estado da Guanabara) が落成。通称「セアザ・リオ」 (Ceasa - Rio) 。
 これらふたつの州に刺激され、ほかの州でも州営または市営のセアザが建設された。そして、パイオニアであるサン・パウロの CEAGESP も、カンピーナス市、リベイラン・プレト市、サントス市、バウルー市など、州内 17 市にセアザを開設。この場合、CEAGESP の地方事業所という形で、配給センターのネットワークを構築した。地方都市の場合、野菜果実にかぎらず、穀類業者も入居し、農産物取引の総合センターという性格を強くうちだしている。この点は他の州でもおなじ。
 セアザのネットワークがひろがったことにより、サン・パウロ市のセンターは、集散機能をいちじるしく縮小。1990 年代以降の分散機能は、大半がサン・パウロ市内および周辺地域への配給である。ただし、他州から買付にくるトラックの台数がふえているので、分散機能がおとろえたわけではない。
 また、サン・パウロ近郊における野菜果実生産が減少したからといって、集荷量は増大しつづける。なぜなら、大サン・パウロ圏の人口膨張による需要増がつづき、遠方の産地から送付される野菜は、たえず増大傾向をたどっているからである。
[注-60] 食料配給を担当する州営企業が設立されたのは、1960 年 4 月 4 日。最初の名称は、”Centro de Abastecimento Sociedade Anônima (株式会社配給センター)。略称は Ceasa 。日本人は「セアザ」とカタカナ表記する。配給とは「食料配給」という意味。食料農産物の集散センターである。1969 年、CAGESP ( Companhia de Armazéns Gerais do Estado de São Paulo 、州営サン・パウロ食料備蓄会社)と合併し、Ceagesp ( Companhia de Entrepostos e Armazéns Gerais do Estado de São Paulo 、州営サン・パウロ青果物卸売市場・貯蔵会社)と改称。だが、一般には今日なお Ceasa と呼ばれている。合併相手である Cagesp は、穀物(とくにコムギ)貯蔵のため、大型サイロを建設したほか、水産物用の冷凍庫を保有。ストックすることで、安定供給をはかるのが目的だった。したがって、両者の合併後、青果物だけでなく、穀類、水産物もあつかうようになる。Cagesp は Ceasa の隣接地に貯蔵施設(敷地面積 20 ヘクタール)を所有していた。新会社 Ceagesp の土地面積(当初 50 ヘクタール)は 70 ヘクタールとなる。のちに隣接地を買収し、現在の総面積は 75 ヘクタール。そのうち、半分を青果物市場、のこり半分は、上記のコムギサイロと冷蔵冷凍倉庫のほか、穀物、ジャガイモ、タマネギ、ニンニクの卸売業者が使用。

[注-61] 水産物については、冷蔵施設が貯蔵庫として機能するだけ。日本でいう「魚市場」という卸売機能は発揮されていない。もともと、水産業の発達が遅れていた国であるから、魚介類の卸売商人がサントス市にしかいなかったという問題もある。サントスで水揚げされた魚介類は、流しの物売りがサントス市内で販売し、一部はサン・パウロ市まで運ばれた。常設市場ができてからは、そこでも販売したが入荷は不定期だった。1933 年、パウリスターノ小売市場が開設されると、専門の魚屋が登場。日本人で魚屋を開業した者は、太平洋戦争前にもいた。1960 年代にはいり、サン・パウロ市内に高級レストランがふえ、フランスやイタリア風の魚料理をだす。バール( Bar 、大衆飲食店、1950 年代まではチーズやソーセージなど若干の食料品も販売)でも魚のフライをだすようになり、一般市民の関心をひいた。当時は市営パウリスターノ小売市場の商人が、卸売を兼ねていた。市営市場がラッパ( 1951 年)、サント・アマロ( 1958 年)、サン・ミゲール・パウリスタ( 1967 年)などいくつかの地区にも開設され、魚屋の数もふえた。1970 年代後半には、フェイラでも売るようになったが、卸売機能は発達しない。だから、水産物の流通にあたり、Ceagesp は貯蔵機能と「大卸売機能」をもつだけだった。

[注-62] 青果物販売にかかわる衛生問題は、19 世紀以来の課題でもあった。野菜屑や果実が路面にちらばるだけでなく、すぐに腐敗して悪臭をはなつ。掃除したところで、数時間の効果にすぎない。腐敗物をゴミ箱へいれるなら、悪臭は 24 時間きえることはない。すぐ近くを流れるタマンドゥアテイー川は、雨期になるとしばしば氾濫する。集中豪雨ともなれば、路面から数十センチ、あるいは 1 メートル以上も浸水。現在、ドン・ペドロ二世公園になっている場所は一面の水で、19 世紀末の写真をみると、湖水を思わせる。 水面にうかび流れていく青果物は、湖水全体にちらばり、水が引いたあとは腐敗物が散乱する。近代都市サン・パウロの中心部から、ほんの数百メートル、坂下になる低地が、いつも腐敗物の散乱で悪臭をただよわせるのは、衛生上および美化の観点から好ましくないのはとうぜんであろう。

[注-63] セアザの建設予定地は、レオポルディーナ区ガスタン・ヴィジガル大通り (Av. Gastão Vidigal) に面した空き地( 50 ヘクタール、のちに 75 ヘクタールに拡張)で、州政府が強制接収した。1961 年着工。1966 年 1 月 25 日(サン・パウロ市創設記念日)、落成式を挙行。計画ではその日から営業するはずだった。ところが、卸売業者はひとりも販売ボックスにはいらない。あいかわらず、セントロ地区の市営カンタレイラ市場で営業していた。穀物卸商、ジャガイモやタマネギ卸商も同じ。完工前から、州農務局、管理会社、市役所は業者の説得につとめてきたが、だれも同意しなかった。主な反対理由はつぎのとおり。(1) サン・パウロ郊外の新施設は中心部から遠いため、店主も従業員も通勤がたいへん。(2) 顧客(小売商)の大多数が市街地区域で商売をしており、カンタレイラ街は必要商品の仕入に好都合。(3) 生産物を出荷する農家にとっても、セントロ地区は生産資材の購入に便利である。(4) 地方から買付にくる仲買商は、トラックに農産物を積みこんだあと、セントロ地区まで実車をのりいれなければならない。(5) 新施設のボックス使用権が高い。ほかに、口ではいえないが「脱税の件」もあった。長年の習慣により、サン・パウロ市役所の税務監督官となれあいで、かなりの「お目こぼし」にあずかってきた。新施設は州営企業が運営するので、税務監督の方法もちがうしきびしい。従前どおりの「甘い汁」はすえなくなるであろう。商人側は反対運動を展開してきたが、州農務局は、CEASA およびサン・パウロ市役所と協議し、強制移転を決行した。1966 年 3 月 6 日から 7 日にかけて、集中豪雨によりタマンドゥアテイー川が氾濫。いつもなら、ポンテ・グランデ(チエテ川)に近い市有地を仮市場とするところ、このたびはセアザ施設を仮営業所に指定。浸水したカンタレイラ市場から避難させた。ようやく水が引いた同月 11 日、サン・パウロ市役所はカンタレイラ市場の閉鎖を業者へ通告。州農務局も、セアザでの卸売取引を義務づけた。通告にしたがわなければ行き先がない。青果物卸売商はしぶしぶ承諾した。だが、セアザへ移転しなかった穀物商は、そのままサンタ・ローザ街を中心とする一帯で営業をつづける。

第 7 章 生産販売方式の近代化 >>


サンパウロ人文科学研究所 Centro de Estudos Nipo-Brasileiros