ブラジルにおける日系農業史研究:「サン・パウロ近郊における日本人野菜生産販売概史」(7)
中野順夫(ブラジル農業研究者)
terça-feira, 22 de maio de 2018

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第 7 章 生産販売方式の近代化

1 近郊農業と奥地農業
 セアザというあたらしい卸売市場ができたことで、青果物の流通事情は大きく変わった。既述の道路網整備による産地の拡散とあいまって、サン・パウロ市の青果物集散機能も変わっていく。それまでの近郊農業、奥地農業といわれていた区分にも影響。「野菜は都市近郊で、穀物は奥地で」といえなくなってきた。
 野菜果実産地が、遠方へと拡散していくとともに、奥地の生産量が増大。サン・パウロ近郊に残ったのは小規模、零細規模農家である。穀物については奥地が主産地であっても、中核都市の発展により、周辺ではサン・パウロと同じ近郊型農業がひろがっていく。たとえば、リベイラン・プレト、ベロ・オリゾンテ、ブラジリア、ゴイアニア、カンポ・グランデ、クイアバー、ロンドリーナなどである。
 サン・パウロ近郊では都市化と工業化の波によって、農地面積が縮小された。コスト高の問題もあって、野菜果実の生産後退はふせぎようもない。一部の農家は、1980 年代以降、施設園芸への転換をはかってきた。小面積で管理の手間をかけることにより、高品質の野菜を収穫できる。技術面で日系子弟のレベルは高いが、農家数は少ない。1990 年代前半の農業不況期に、資金難と後継者不在で廃業した日本人が多かったからである。したがって、野菜の生産量について、今日の日本人および子弟は「ほとんど戦力になっていない」といってよい。
 奥地農業におけるあらたな変化のひとつは、「地産地消」である。1990 年代半ばころからいわれていたが、21 世紀にはいり、小都市の市役所がとりあげはじめた。農家が圃場で消費者へ直売する方式、あるいはもよりの町に直売所を開設する。農家がグループをつくり共同販売所を開設するケース。市役所が「農家直売フェイラ」を開設するケース。近隣の小都市と共同で、中核都市に直売所をもうけるケース。いずれも、まだテストケースの域をでない。しかし、小都市発展のきっかけづくりにはなる。農家の直売がうまくいくなら、零細農家の経済水準向上を期待できよう。事実、そのために努力する市長の動きが活発になってきた。
 農村地帯の小都市は、農業に立脚しているが、工業化を志向するところもある。ある作物の生産量がふえ、大きな産地が形成されるようなら、農産加工業の進出も期待できる。ただし、野菜の場合は大型工場計画をすぐに実施できないであろう。むしろ、食肉プラントの進出、あるいは輸出果実の産地化で輸出用選別梱包工場への期待が大きい。工場労働者が増えることにより、小都市の消費経済がうながされ、野菜需要も増大する。
 事実、食肉プラントがひとつできることにより、数百人の労働力が外部から流入。砂糖エタノール工場なら数千人がやってくる。農産加工業だけでなく、穀物栽培であらたな産地が形成されると、もよりの小都市は、数千だった人口が 10 年後には数万に増大。無人だった場所に新都市が出現したケースもある。
 このような考察をすると、野菜は国内市場を対象に生産すべきといえる。都市近郊における施設園芸はますます発達すると予測されることから、優良品は都市近郊農家が、中級品および加工原料は奥地の農産企業が供給する。ひとつのパターンであるが、今後しばらくつづくと予測される。奥地といっても、野菜の大きな産地は、ミナス州南部、ゴイアス州南部に集中している。これから増産体制にはいるのは、パラナ州、サンタ・カタリーナ州、マット・グロッソ・ド・スル州、マット・グロッソ州であろう。

2 向上する園芸技術と緑の革命
 ここで、野菜園芸における技術研究について考察してみよう。1930 年代まではヨーロッパおよびアメリカの先進技術をとりいれただけで、ブラジル独自の成果はすくなかった。あたらしい栽培品種の導入にはじまり、化学肥料と合成農薬、農業機械の利用を紹介した点で、たしかに「技術改革」といえるであろう。だが、農業先進国の技術をまねたにすぎない。
 ところが、1950 年代以降、ブラジルにおける研究も進み、数多くの栽培品種が作出されたほか、土壌改良や緑肥利用など、ブラジルの土地気候条件に適合する技術開発がおこなわれた。1960 年代、重化学工業や機械工業の発達にともない、肥料、農薬、農業機械が国産化されると、農業技術の研究も、地方ごとの自然地理条件や社会経済条件におうじて多様化する。20 世紀半ばまでの技術研究は初歩的なものだったが、1960 年代以降は、熱帯農業分野において、世界的に評価されるハイレベルを志向した。
 野菜果樹栽培では、東北ブラジル海岸地方、サンタ・カタリーナ州の高原を対象とする研究がはじまった。だが、野菜に関するかぎり、サン・パウロ州の研究機関がリード。これにリオ・デ・ジャネイロ州、ミナス・ジェライス州がつづく。リオでは、国立リオ大学、州立リオ大学の農学部が野菜果樹研究の中心となる。ミナスでは国立ヴィソーザ大学農学部、Epamig (ミナス・ジェライス州農事研究公社)における野菜研究が目をひいた。
 これら研究機関では野菜の品種改良で日系研究員の活躍がめだつ。また、日本人農家も改良種の作出に協力。1950 年代から 1980 年代にかけて、日本人農家や日系研究者が作出した野菜果実の新品種はかなりある。トマト、ピーマン、カリフラワー、オクラ、クリ、グアバ、イタリアブドウ、等々。もっとも高く評価されているのは、トマトの改良品種「サンタ・クルース」である[注-63]。
 生産資材の国産化と技術研究の進展により、ブラジル南部地方における園芸農業は急速な進歩をとげる。とりわけ、肥料農薬とトラクター[注-64]が、小規模農家にまで普及した点は重要である。
 1968 年から 1972 年までの 5 年間は、ブラジル経済の高度成長期であり、「ブラジルの奇跡」と呼ばれた。政府は IMF (国際通貨基金)や BIRD (国際復興開発銀行、通称「世界銀行」)をはじめ、先進国の大手銀行による借款を利用し、農業融資枠を拡大。国内の農業機械メーカー、肥料メーカー、農薬メーカーは、このチャンスをのがさずに売りこんだ。とりわけ、アメリカ資本のメーカーが業績をのばす。なぜなら、ロックフェラー財団による農業振興プログラム、「緑の革命」が実施されたからである。
 この革命は、中小農家の技術をレベルアップさせるためのものだった。これは表向きの理由で、ホンネは、アメリカ資本のメーカーが製造する資材や機械の販売促進である。もちろん、オランダ、ドイツ、スイスなど、ヨーロッパ諸国から進出したメーカーも、チャンス到来とばかりに販売競争へ参入。化学肥料と農薬は短期間に小規模農家にまで普及。小型、中型トラクター( 90 馬力以下のもの)も、1970 年代をつうじていきわたった。
 いったん機械作業になれてしまうと、手間のかかる有機農業への転換はむずかしい。ブラジルではほとんど無視されていた。1990 年代にはいり、世界的に環境保護問題が論議されるようになったことから、ブラジルでも有機農業に対する見方がかわる。1990 年代半ばから 2000 年代半ばにかけてのおよそ 10 年間、ブラジルでも有機農業が急速にひろまった。主として野菜果樹栽培に適用しているが、面積からいうと大部分は牧野造成(ウシの放牧)である。
 有機農業は規制がきびしく、作物の大規模栽培には不適とされる。したがって、化学肥料や農薬を「必要におうじて使用するも可」とする方式がひろまりつつある。「エコ農業」 (Agricultura ecológica) と呼ばれ、日本では岐阜県の「グリーン農業」がもっとも進んでいる。
 病虫害対策は、今日なお合成農薬依存であるが、有機農業の影響をうけ、天敵利用の分野で 1970 年代からさまざまな工夫がなされてきた。また、害虫をあつめるための誘因剤と誘因装置、忌避剤として機能する植物の混植も、ブラジルだけの特異な技術が開発されている。いろいろな意味で、1960 年代はブラジル農業の大きな転換期であり、野菜部門も例外ではない。技術研究成果をふまえ、生産性と品質の点で急速に向上した。
[注-63] トマトの改良品種「サンタ・クルース」 (Tomate Santa Cruz) は、第二次世界大戦前に日本人が発見した自然交配種である。1870 年代にイタリア人がもちこんだのは、「レイ・ウンベルト」という加工用品種だった。その前からサン・パウロ郊外のポルトガル人が栽培していたのは、シャカレイロとよばれる自生種である。生田博(「山本喜誉司賞の歩み」、p. 194 )は、「品質が悪く果肉が柔らかく輸送に耐えなかった」と記述。したがって、イタリア人が栽培したトマトはほとんど加工原料とされた。それでも、収穫したトマトの一部をサラダ用として販売。イタリア人労働者階級のあいだにサラダがひろまっていく。一方、モジ・ダス・クルーゼス市に集中した日本人のなかで、トマトの自然交配種(シャカレイロ × レイ・ウンベルト)をみつけた者がいた。残念ながら名はつたわっていない。モジ管内在住者だが、現在のモジ・ダス・クルーゼス市なのか、あるいはスザノ市( 1949 年 12 月 24 日にモジ市から分離されスザノ市となる)なのかも不明。このトマトが、1939 年半ばころ、コチア産業組合リオ販売所へ出荷された。安達茂一郎主任の目にとまる。形、色、ツヤ、そして味のよい品物があることに気がついた安達は、販売上の経験から、「このトマトなら高く売れる」と判断。サンタ・クルース植民地の組合員に栽培させようと考えた。1 箱だけ売らずに残す。これを、サンタ・クルース植民地の篤農家、渡邊一に渡し、種子増殖を依頼した。渡邊は懇意にしていた飛田茂太郎と折半。ふたりで種子増殖をはじめる。1940 年は種子増産で暮れた。1941 年 3 月から、植民地のコチア組合員がいっせいに栽培を開始。収穫は 7 月から 8 月にかけて、冬場の供給不足時期にあたる。その前から試験販売をつうじて、リオ市場の受けがよいことはわかっていた。安達は「トマテ・サンタ・クルース」( Tomate Santa Cruz 、サンタ・クルース産トマト)の名で売りだすことにした。収量は 1,000 本あたり 300 箱( 1 箱 22 kg ~ 23 kg)。収量もさることながら、形状、色彩、光沢、肉質、味の点でもそれまでの在来種とはちがう。さらに、形と大きさがそろっているので箱詰めも容易。日もちがよいうえ、輸送中の品傷みも少ない。当時のトマトとしては、最高の条件をそなえていた。サン・パウロ近郊から送付されるものよりも良質で、リオ市場の商人は争うようにしてこれを求め種子を増殖した。もともと、モジ地方からきたトマトだったが、リオにおける成績を知ったコチア産業組合蔬菜部は、種子をとりよせサン・パウロ近郊の組合員に採種させた。サン・パウロ市場でも品質が認められ、近郊のトマトづくりは「サンタ・クルース種」一色になってしまう。そして、パラナ州からリオ・グランデ・ド・スル州にまでひろまった。こうして 1943 年以降、サン・パウロ市場でも同じトマトが販売される。そのころになると、ブラジルの研究機関も放ってはおかない。IAC (サン・パウロ州農務局カンピーナス農事研究所)の専門家がとりあげ、品種固定の確認試験に着手。サンタ・クルース植民地で日本人がこぞって栽培した 1942 年ころ、すでに品種特性は固定されていたようである。IAC では、サンタ・クルース種 (Variedade Santa Cruz) と命名した(年月日不詳、1950 年代初めと推測される)。以後、この品種はサン・パウロ州内はもとより、ブラジル全国にひろまっていく。そして、サンタ・クルース種を母体に、さまざまな品種が作出されていった。トマトの品種改良史に記録される、ブラジルで「もっとも代表的な品種」である。だが、サンタ・クルース種はビールス病に弱い。1960 年代、IAC 研究員だった永井洋は、トマトの耐病性品種作出ととりくむ。そして、1969 年、生食用トマト「アンジェラ種」 (contra-variedade Ângela) を作出。Y ビールス抵抗性遺伝子、萎凋病抵抗性遺伝子が組みこまれた。在来品種(サンタ・クルース系)よりやや大型果で生産性が高い。以後、アンジェラを母体とする品種改良が進む。ブラジルのトマト品種は、上記のとおりモジ方面に日本人が発見し、リオで安達が種子増殖を考えた。同じものがリオからサン・パウロへもどり、日本人が増産した結果、卸売市場を席巻。さらに、耐病性品種を作出した永井洋も日本人( 1935 年、東京都生)である。日本人が関与した品種改良で、サンタ・クルース種トマトほどひろくいきわたり、永続したものはほかにみあたらない。最大の功労者ともいうべき、最初の発見者は、名も残さないままうずもれてしまった。だが、日本人の功績として事績は永遠に残るであろう。

[注-64] ブラジルの農業界では、1920 年代にキャタピラ式トラクター(ブルドーザー)を使っていた。20 馬力から 30 馬力のカナダ製小型ブルドーザーである。サトウキビ、トウモロコシ、コメなどの大規模栽培(数十ヘクタール)で、主として耕起作業に使用。1930 年代にはいり、フォードがタイヤを使ったホイルトラクターを開発。スピードと価格の点でキャタピラ式にまさっているため、ブラジルでも 1935 年ころから輸入しはじめた。しかし、馬耕、牛耕とくらべ高価な機械であるから、主としてサトウキビと陸稲栽培に適用。その結果、サン・パウロ州北部の米作地帯で、日本人の小規模栽培はコスト高となって衰退する。1950 年代にはいり、陸稲のほかトウモロコシ、コムギ、インゲン、ラッカセイの作付面積が拡大されたとき、アメリカから安価な中古トラクターが輸入された。大規模農場ではこれを購入し作業能率を高め、コストダウンをはかる。穀物栽培部門で機械化できなかった日本人は、1950 年代から 1960 年代にかけて撤退。1960 年代にホイルトラクターが国産化されると、コーヒー栽培でも使用。霜害( 1963 年、1966 年、1969 年)でコーヒーをやめた農家の多くは、雑作(穀類、ワタ)に転向した。日本人の穀物生産は、このときからはじまったといってよい。1970 年代をつうじて、中型ホイルトラクター( 50 馬力から 80 馬力)は野菜果樹栽培部門でも普及される。


3 どんどん変わる青果物卸売事情
 技術の向上にともない、青果物卸売取引にも変化がみられる。1950 年代にはいると、野菜の等級がさだめられた。といっても、明確な基準が決まったわけではない。卸売市場の商人が、それぞれの観点から、特級品、一級品、二級品、三級品、くず物というクラスわけをしただけ。卸売市場としての統一基準はなかった。だが、等級を設定したことにより、取引価格の設定が容易になった点はいなめない。そして、商人間の価格差がしだいに小さくなり、1950 年代後半には、卸売市場内で「相場」というものが定着。そうなる過程でリードしたのが日系農協(とくにコチア産業組合)である。
 青果物卸売市場では相対取引[注-65]であり、今日まで変わらない。だが、サン・パウロ市における野菜の集散機能は変わった。1966 年、セアザの開業により、青果物卸売取引は、すべて新施設に集中。道路網の整備とあいまって、地方の仲買商が買付のためやってくる。サン・パウロのセアザは青果物の集散センターとなった。
 これをまねて、ほかの州でも、州都に州営または市営の農産物卸売センターを建設。いずれも名称をセアザ (Ceasa - Centro de Abastecimento S. A.) とした。サン・パウロ州内では州都にかぎらず、地方の主要都市にもセアザが開設され、卸売取引のネットワークを構築。他州のセンターとも連携したことにより、青果物流通事情は、1970 年代から 1980 年代にかけて大きく変わった。
 ひとつは、サン・パウロ市の集散機能が、各地のセアザへ分散したこと。一極集中ではなく、産地から各地のセアザ(消費都市)への直送がさかんになった。運賃コスト引下、輸送のスピードアップというメリットが生じ、地方都市における青果物流通は促進される。この過程で、主要都市に販売所をもうけていた日系組合(コチア、スールブラジル)のはたした役割は大きい。産地からの直送方式は、これら 2 組合が先鞭をつけリードした。追随する大手卸売商は、地方都市の仲買商と契約。サン・パウロの商人を中心とする青果物集散ネットワークを構築した。
 つまり、日系二大組合と同じ販売網をもつことになり、1980 年代をつうじ、農協と大手商人の間で、はげしい販売競争が展開された。競争は消費をうながし、さらに農家に増産を強いる。こうして、青果物の基本的流通経路は定着した。リーダーシップを発揮したのは日系農協である。だが、競争に勝ち残ったのはサン・パウロ市場における大手業者だった。敗れたコチアとスールブラジルは、野菜部門の累積赤字が重くのしかかり、経営が悪化。ほかにも重大な原因がいくつかあり、1994 年、解散へとおいやられる。
 青果物卸売業界における競争をつうじ、サン・パウロ州内のセアザでは、日系卸売商の数が減少。1960 年代に委託販売人の 8 割をしめていたシェアは、1980 年代半ばに 7 割となり、1990 年代半ばには 6 割に減じた。数のうえで過半数といっても、日系二大組合が消滅したあと、取引量において 50 % を割り、主導権を維持できなくなった。代わって、非日系大手商人グループが、セアザ内部のリーダーとなる。
 他方では、あらたな流通経路が構築され[注-66]、青果物はセアザをとおらず、農家から直接小売商人へ、あるいはセアザ外の商人へ流れるようになった。なかでも、フェイランテが直接農家から仕入れるケースが増え、優良品はたいがい彼らにおさえられる。つまり、セアザには残りものが出荷され、全体的な品質低下をまねくにいたった。この傾向は 1980 年代半ばにはじまり、1990 年代半ばのセアザは、「安かろう、悪かろう」というイメージが定着。主たる供給先も、値段を最優先させる「場末のフェイラ」(顧客は低所得層)か、地方の小都市における仲買人へと変わってきた。さらに、地方都市では地産地消の傾向が強まり、農業ばなれのはげしい日系人は、生産および流通部門から遠のいている。
[注-65] ブラジルにおける青果物卸売取引は、19 世紀末のメルカード・グランデ以来、相対取引(あいたい・とりひき)である。売り手と買い手が直接交渉する方式であり、競(せ)りはおこなわれない。セアザの施設ができてからも、この取引方法は変わらず今日までつづく。1989 年、オランブラ農協(サン・パウロ州オランブラ市)が花の競り市を開設。1995 年からは野菜の競りもはじめた。これにつづき、第二オランブラ農協(サン・パウロ州パラナパネマ市)も 21 世紀にはいるとすぐ、花の競り市を開設した。これらふたつのケースをのぞき、青果物はすべて相対取引である。

[注-66] Ceagesp の集散機能に関する別の問題として、青果物流通経路の多様化がある。生産農家から委託販売人をへて、小売業者へ流れる経路は存在するが、あらたな取引方法がいくつもでてきた。サン・パウロをはじめ、大都市および中都市では、小売商人が直接農家から買いつけ、フェイラで販売する方法がふえてきた。他方では、スーパーマーケットが小売市場を支配し、それぞれの規模が大きくなったことから、フェイラと同じく直接農家から仕入れる方式を採用するケースもある。さらに、大口需要者として、大工場の社員食堂や、大型ホテル、大学の学生食堂、市役所管理下にある施設(学校、病院、老人ホーム、保育園、幼稚園など)がある。かつては小売商人の領域だった仕事が、1990 年代をつうじて大きくかわった。これらの施設へ食材を納入するため、専門業者があらわれ、しだいに取引シェアを高めてきた。こうした施設は今後とも増えていくので、食材の需要増はおおいに期待できる。だが、専門業者がシェアを拡大すると、セアザからフェイランテへ流れた野菜果実の数量減をまねく。実際、流通経路の多様化がはじまった 1980 年代後半から、大口需要者へ配給する野菜果実の量は減ってきた。セアザを経由しない取引が増えてきたからである。だが、サン・パウロ市の消費人口は増大しつづける。セアザの配給シェアが縮小されても、入荷する野菜の数量はたえず漸増傾向にある。


4 日系組合の衰退
 農協がアグリビジネスの新時代をむかえた今日、日系農協はどうなったのか。1960 年代以降の事情を考察すると、ひと口にいうなら、衰退の一途をたどったことになる。日本人が最初に協同組合を設立したのは 1919 年のことだった。その後、1941 年(太平洋戦争勃発)までに、200 あまりの組合(多くは任意組合)が設立された。任意組合であれ登記組合であれ、たいがいは数年で解散。第二次世界大戦後まで残ったのは、産組中央会傘下単協をのぞくと、数えるほどしかない[注-67]。
 2016 年現在、登記上の日系組合数は 60 あまりだが、清算組合もあるので、実際に営業を継続するのは 40 にみたない。そのうち半数は経営に問題がある。生産販売実績を伸ばしているのは、10 組合内外にすぎない。このような状態では、日系農協が発展しつづけているとはいえないであろう。
 既述のとおり、1950 年代から 1960 年代にかけて、サン・パウロ市の青果物取引で、日系五大組合が主導権をにぎっていた。といっても、カルテルを構成したわけではない。おたがいにはげしい競争を展開しながら、販売シェアを伸ばしていった結果、青果物取引のリーダー格にのしあがったということである。
 それほどの勢力をほこった日系農協と日系農家が、なぜ後退していったのか。野菜部門に焦点をあてながら、衰退原因をさぐってみよう。日系五大農協が活躍した 1950 年代から 1960 年代にかけて、たしかにサン・パウロ近郊には日本人農家が集中していた。日本人の集団地は、ジャガイモ産地の移動と拡散にともない、半径 100 キロメートル圏内から、さらに遠く 200 キロメートル圏内へと拡大された。ジャガイモに付随して、トマト、ピーマン、ニンジン、キャベツなどの野菜生産もおこなわれる。日本人農家の移動により野菜産地が拡散していった。その多くは五組合の組合員でもある。だからこそ、日系農協と日系農家が、青果物供給の中心勢力となり、取引市場における影響力を強めたといえる。
 ところが、1960 年代後半の農協受難期[注-68]に、それぞれ大きな痛手をこうむった。1980 年代に存続したのは、コチアとスールブラジルの 2 中央会のみ。それぞれ事業拡張をつづけたが、新規投資の主たる対象は、穀類、コーヒー、ワタなどであり、野菜果実は付帯事業のようにみられていた。ダイズは時代の花形商品。コーヒーとワタも輸出商品で、これらを手がける組合員は多い。だが、両中央会とも、野菜果樹栽培組合員は、サン・パウロ近郊農業の衰退とともに減少。さらに、コスト高の問題もあって、組合員にとっても組合にとっても利益は薄い。組合の方針が変わってとうぜんであろう[注-69]。
 野菜、果樹、養鶏が、日系農協の「 3 本柱」といっても、生産販売の現場でシェアが後退。農産企業との競争でおくれをとったわけである。そうなると、これらの部門に対し、生産意欲もおとろえる。それよりは、時代の脚光をあびる輸出農産物の生産、そしてセラード開発に集中するほうが得策であろう。こう考えたのも自然のなりゆきというもの。したがって、方針転換そのもので、組合幹部を批判することは妥当でない。批判するなら、転換後の組合経営技術であろう[注-70]。
 コチアとスールブラジルが解散したため、野菜の生産販売における日系農協の影響力も消滅した。だが、影響力はとつぜん消えたわけではなく、じつは、1970 年代後半から徐々に進行してきた。たんに、「日系農協の数が少なく農家数も減少した」という単純な問題ではなかった。野菜果実に関するかぎり、サン・パウロ市場ではコチアとスールブラジルの販売力が大きかったことから、流通部門にも影響をおよぼした。Ceagesp における毎日の相場設定にあたり、両中央会への入荷量が重要な尺度となっていたからである。
[注-67] 第二次世界大戦後まで存続した組合は、中央会組織の単位組合をのぞくと、十指にみたない。戦後、あらたに設立された日系農協は 100 組合あまり。そのうち 60 組合ほどが、スールブラジル農業協同組合中央会、サンパウロ産業組合中央会、コチア産業組合中央会に加入。これら三中央会の解散にともない、大半が解散した。残りの半分は 1980 年代から 1990 年代にかけて設立され、そのうち穀類またはコーヒー生産を事業の中心とするところはほぼ存続。ほかの組合についてみると、消滅したか、登記上は存続しても事業を停止したところもある。2016 年現在、事業活動を継続する日系組合は、ざっと 40 を数える。

[注-68] 1966 年から 1969 年は、ブラジルにおける農協の受難期といわれる。とくに、サン・パウロ州の農協がうけた打撃は大きい。1966 年の協同組合法改正による制約。1967 年に実施された ICM (商品流通税、青果物にも課税)。1966 年から 1967 年にかけての養鶏不況。1968 年から 1969 年にかけてのジャガイモ不況。1966 年および 1969 年に南部地方を襲ったひどい降霜。1964 年に樹立された軍事政権は、工業優先、農業軽視の政策を実施し、農業融資をいちじるしく制限した。金融難のなかで農家と農協は、法的制約および農産物相場の下落に直面したわけである。ジャガイモ栽培と養鶏を手がける農家のなかから、倒産、廃業が続出。農協も課税問題でゆれうごく。日系組合のうち、バンデイランテ産業組合、モジ産業組合、産組中央会、コチア産業組合中央会は、この時期に財務内容が悪化し経営基盤がゆらぐ。ツナギ融資(手形借入)に依存し、金融費用が膨脹したからである。堅実経営のスールブラジル農業協同組合中央会だけは、資金繰りをつづけることができた。バンデイランテ産業組合は 1970 年に経営破綻をきたす。1979 年、産組中央会が解散。つづいて、モジ産業組合も事業を停止した[閉鎖年度不明]。

[注-69] 1980 年代にはいると、日系二大組合(コチア産業組合中央会、スールブラジル農業協同組合中央会)は、生産の 3 本柱としてきた野菜類、果樹類、養鶏から、穀類を主柱とする新方針にあらためた。それには、ブラジル政府のセラード開発政策が大きく関与している。日伯政府間協定により、協力事業としてプロデセール( Prodecer 、セラード開発計画)が 1978 年にスタート。パイロット事業につづき、1983 年からは本格的な開発をめざす、第二次計画がはじまる。コチアもスールブラジルも、ブラジル政府および日本政府から強い要望をうけ、プロジェクトに参加した。当時は、農協がセラード開発に投資するのは、「背伸びしすぎ」という批判もあった。その是非は論議のわかれるところだが、いったん参加すると、組合幹部も組合員も、「開発」という言葉に酔ってしまったようである。本来の事業である小規模組合員の仕事、つまり野菜、果樹、養鶏という部門がおろそかになってしまった。組合幹部は「決してそうではない」と弁明していたが、結果をみると、そう解釈されてもしかたない。すでに述べたとおり、野菜果樹は近郊農業の衰退とともに、産地が遠方へ移動。運賃問題や品質問題が生じた。養鶏は早くからサン・パウロ州西部地方の生産が大きかったので、近郊における衰退はさほど影響しない。だが、採卵養鶏では、両組合(コチア、スールブラジル)と大手採卵養鶏業者(主力は日系人)の競合がはげしい。ブロイラー養鶏は、同じく両組合と大手企業(ペルディガン、サディア)との競争になっていた。1980 年代はじめの養鶏不況以後、組合養鶏は後退しはじめる。逆に、大手採卵養鶏場とブロイラー企業が業績をのばし、組合のシェアをうばっていく[養鶏については、中間報告シリーズ③「ブラジルにおける日系養鶏史」( 2016 年 12 月 20 日提出予定)参照]。

[注-70] 農協の経営技術についてみると、半世紀をこえる実蹟をほこるはずの両中央会とも、じつに稚拙なものだった。主たる素因は、経営陣の代替わりとみられる。コチアの場合、1960 年代に代替わりしてより、経営方針のあやまりから、財務破綻寸前においこまれた。1970 年、政府の特別融資によりクビはつながったものの、経営技術はレベル低下がつづき、さまざまな内部問題を改善できなかった。それが 1994 年まで存続したのは、奇跡というしかない。おそらく、「大コチア」の看板にものをいわせ、銀行融資をうまくひきだしたことによると推測される。スールブラジルの場合、中沢源一郎理事長の存命中( 1983 年死去)、堅実経営の方針を維持していたので、無理な投資をしなかった。理事長が交代した時点で、すでに役員の多くが代替わりしていたことから、方針転換にさほどの時間を必要としない。穀類部門の強化策、そして第二次セラード計画への参加とつづく。1986 年、クルザードプランが実施され金融政策は一転。高金利時代へと突入し、金融難がはじまる。スールブラジルが、セラード開発計画のため土地(ミナス・ジェライス州グアルダ・モール市)を取得したときは、高金利時代となって資金繰りに蹉跌を生じた。財源として予定した、フランカ市のコーヒー農場がうまく売却できなかったからである。売却代金がはいるまでのツナギ融資( 60 日の手形借入)を銀行からうけた。この元利が雪だるま式にふえて、資金繰りに重圧となってのしかかったわけである。以後、堅実経営は維持できず、スールブラジルもまた借金経営に変わった。


5 これからどうなるか?
 これまで述べてきたところにもとづき、将来を考えてみよう。野菜類の生産販売において、日系農家も卸売商人も、企業経営感覚をもって対処しなければ、近い将来の存続があやぶまれる。ブラジル農業が、この 30 年間に大きく変わっただけでなく、ブラジル経済もまた1990 年代の変革期をへて、あらたな方向へふみだした。
 1980 年代まで、まちがいなく経済的発展途上国だったブラジルは、2000 年代になって「準経済大国」となった。2003 年以降、あらたな経済成長期をむかえたのは、アグリビジネスによるものだった。コーヒー、砂糖、ダイズ、大豆粕、オレンジジュース、牛肉、ブロイラーの輸出は、世界的にみてトップ争い参入。これにつづくのは、ワタ、カカオ、豚肉、乳製品、熱帯果実。国内総生産においても、農業部門が工業をおさえトップとなる。
 農産物輸出の増大は生産増をうながし、さらに、生産資材、農業機械にまで影響。農業関連産業もまた、この 20 年間、急速成長をつづけている。1970 年代まで、産業界では「農業は工業に付随する」といわれた。だが、21 世紀のアグリビジネスでは「農業が工業を牽引している」ということもできる。ブラジルの農業は、それほどに強大なパワーがあり、昔とはまったくちがうものになった。今後しばらくは、農業中心の経済発展がつづくとみられる。
 時流というべきであろう。激流ではないが、大きくうねる波に乗れるかどうかが問題。日系農協も日系農家も波に乗れず、流されてしまった。というか、のみこまれてしまったというほうがあたっているかもしれない。かつて、「野菜づくりの神様」とまでいわれた日本人のことは、昔物語となり、思いだされることもまれである。生産力と技術レベルの低下は、いかんともしようがなく、日系農業の底力というものは、片鱗すらうかがうことができない。
 では、これからどうなるのか。日系農業はどこへいこうとしているのか。現状から予測できることはただひとつ。生産部門からの撤退である。といっても、完全撤退とはかぎらない。穀類とワタの生産では、大規模栽培をめざす日系子弟が台頭しつつあるからだ。彼らの生産シェアは、10 % 内外と推測され、決してバカにはできない。今後の数十年間、増産傾向がつづくとみられる。だが、園芸作物(野菜、果樹、花卉類)は、衰退の一途をたどるであろう。
 生産部門から脱落して、あとはどうなるのか。あらたな動きとしてめだつのは、日系子弟による研究部門への進出。農科大学教官、国公立農事研究所の研究員として、日系人の数がかなりふえてきた。さらに、国または州政府、市役所の農業関係機関に勤務する者も多い。なかでも、大学教官または研究員の増大は注目にあたいする。大学といってもサン・パウロ州に集中しており、USP (州立サン・パウロ大学農学部)、UNESP (州立パウリスタ大学農学部)、UNICAMP (州立カンピーナス大学)には、数十名の日系教官がいる。学部長経験者が数人いるほか、国立大学の学長も輩出した。
 そのすべてが優秀というわけではないが、学会で認められる顕著な研究成果がぼつぼつあらわれてきた。大学および研究機関における日系子弟は、今後とも増えていくであろう。そして、それぞれの分野で研究をリードする期待も大きい。父祖は零細農家あるいは小規模農家として、名も知られないまま埋もれていった。だが、子弟は研究者として名をのこす。直接生産活動をおこなわなくても、ブラジル農業の発展に寄与することになる。
 生産の現場で、日系農協の求心力がうしなわれた今日、日系農家はまとまりがつかない。将来ともひとつにまとまるような、組織づくりはできないであろう。それに対し、研究分野における日系子弟は、横のつながりがかなりできているようである。相互協力により、研究のレベルアップをはかる動きも一部にみられ、将来が楽しみな分野でもある。
 さらに、農事指導部門にも日系人が進出。直接、生産農家へ指導している。ほかに、行政機関(農務省、各州農務局、各市役所農事関係部課)にも日系人がいて、農業行政にたずさわっている。大学を卒業し、アグリビジネス関係企業に就職した子弟も多い。大企業の研究室に配属されたり、肥料農薬のセールスマンとなって、農業との関係はつづく。
 このように見てくると、生産部門における日系農家の減少が、かならずしも日系農業の消滅とはむすびつかなくなる。生産活動は低調であっても、ほかの分野、とくに研究機関と行政部門で活動。これらの部門では、今後しばらくは日系子弟の数がふえていくであろう。「農業ばなれ」は事実であっても、別な形で農業にかかわっているわけである。

参考資料 >>


サンパウロ人文科学研究所 Centro de Estudos Nipo-Brasileiros