ブラジルにおける日系農業史研究:「サン・パウロ近郊における日本人野菜生産販売概史」(1)
中野順夫(ブラジル農業研究者)
terça-feira, 10 de janeiro de 2017

<< 序へ

第 1 章 ブラジルにおける野菜普及前史

1 ポルトガル人による野菜の導入
 日本人の間で、「ブラジル人の野菜摂取量は少ない」という話を聞く。ほんとうに少ないのかどうか。これは比較の問題である。今日の日本人とブラジル人を比較するなら、たしかにブラジル人の摂取量は少ないであろう。だが、19 世紀前半における状態は、かなりちがったものになる。日本人の大半にとって、野菜といえば漬け物のほか、みそ汁の具材くらいしか摂取しなかったからである。この点で、現代の日本人自身に誤解があるようだ。
 ブラジル人は、20 世紀半ばころまで、キャッサバ (Manihot esculenta Crantz) とインゲン (Phaseolus vulgaris L.) を主食にしていた。ほかにも、カボチャ、サツマイモ、タロイモ (Taioba) 、ソラマメ、ヒラマメ、オクラ、ケール、レタスなどを副食として調理していたことから、幕末の日本人とくらべ、野菜の摂取量は多かったと推測される。19 世紀における野菜消費は、世界的にみても低調だった。そのなかで、比較的よく食べていたのは、イタリア人、ポルトガル人、中国人、そして中近東諸国(アラブ系人種)である。ブラジル人は、先住民(インディオ)の食習慣を基調に、16 世紀後半からは、ポルトガル人とアフリカ人の食習慣をとりいれた。いわば、混交型食生活をいとなんできたといえる。
 ポルトガル人開拓者は、本国で栽培していた野菜の種子をもちこんだ。1550 年ころから 1650 年ころまでのおよそ 100 年間に、60 種類あまりの野菜が導入され[注-1]、たいがいは今日まで栽培がつづいている。アフリカ人も豆類のほか、オクラ、コリアンダー、各種の香料植物をもちきたった。先住民は、キャッサバとインゲン、それに野生動物の肉を加えた簡素な食事だったが、野菜の導入によりブラジル植民地の食生活はゆたかになった。
 だが、食卓がにぎやかになったのは、貴族および地主階級だけである。奴隷や農民には関係ないことだった。彼らは、キャッサバ粉( Farinha de mandioca 、キャッサバのイモから水分とともにデンプンを除去したあとの残渣を炒った粗粉)を主食とする、インディオの食生活を踏襲していたからである。一方、アフリカ人は小さな菜園をつくり、故国からもちきたった野菜をいくらか栽培し、自分たちの料理をつくっていた。
 サン・パウロ市では、郊外に散在するポルトガル人零細農家が野菜を栽培。市街地の富裕家庭へ売っていた。ただし、種類はかぎられている。需要が多いのは、レタス、パセリ、キャベツ、ケール、カボチャ、キャッサバ、サツマイモ、パースニップ、食用トウモロコシなど。大邸宅をかまえる貴族は、裏庭に菜園をもっていたので、外部から購入する量は少ない。また、郊外に別荘 (Chácara) をもつ貴族は、ポルトガル人園丁 (Jardineiro) をやとい、野菜果樹栽培を担当させた。ほとんど自給していたので、植民地時代のサン・パウロ市では、野菜がさほど売れるわけではない。需要がふえるのは 19 世紀後半にはいってからである。
[注-1] 1549 年、ブラジル植民地に総督府(サルヴァドール市)が置かれ、ポルトガルからあらたな開拓者がやってきた。かれらは籾米のほか、各種の野菜種子をもちきたった。たとえば、つぎのようなものである。今日の主要野菜類リストとくらべ、欠けるものは、ジャガイモ、トマト、ピーマンなどわずかなものであることがわかる。
[葉菜類] ケール、レタス、キャベツ、タイサイ (Acelga) 、ハクサイ、ペッパーミント、ハナハッカ (Orégano) 、ウイキョウ (Erva-doce) 、ヒメウイキョウ (Aneto, Endro) 、コリアンダー、バジル (Manjericão) 、ネギ、ニラ、パセリ、セロリ、ウォータークレス、ホーレンソウ、シュンギク、シソ、ローゼル (Quiabo-azedo) 、ヒメローゼル (Vinagreira) 、チコリ、エンダイブ、コンフリー、カラシナ、ロケット (Rúcula) 、カリフラワー。
[果菜類] キュウリ、カボチャ、ナス、ミドリナス (Jiló) 、ニガウリ (Melão-de-são-caetano) 、ハヤトウリ (Chuchu) 、パースニップ (Mandioquinha) 、スイカ、メロン、イチゴ、ソラマメ、ヒラマメ、エンドウ、インゲン、ライマメ、カウピー。
[根菜類] タマネギ、ニンニク、ダイコン、ハツカダイコン、カブ、ニンジン、テーブルビート (Beterraba) 、サツマイモ、サトイモ、ヤマイモ、ショウガ、ワサビダイコン (Raiz forte) 。


2 植民地時代の農業
 植民地時代のブラジルで、野菜果樹栽培は「農業の亜流」といってよい。1534 年に開拓がはじまったとき、最初の経済手段となった生産物は、木材と野生動物の毛皮だった。ポルトガル本国へ輸出することにより、開拓地の農場主はかなりの利益をえた。やがて、サトウキビ栽培による砂糖製造がはじまる。これにつづくタバコ栽培、ワタ栽培は、ほとんど自給用だった。16 世紀半ばすぎ、本国への輸出可能と知ってからは、経済目的の生産にはいった。だが、なんといっても砂糖輸出の利益が大きい。砂糖といっても粗糖 (Açúcar bruto) [注-2]である。
 18 世紀後半、コーヒー(バイア南部)とカカオ(リオ郊外)が台頭しはじめる。19 世紀にはいり、コーヒー栽培がサン・パウロのプロヴィンシア (Província de São Paulo) [注-3]へひろまると、生産量は急速に増大。1850 年代には、砂糖を抜いて輸出のトップにおどりでた。以後、1960 年ころまで、「コーヒー時代」がつづく[注-4]。砂糖時代からコーヒー時代へと移行する途中、17 世紀に東北ブラジル地方では牧畜が振興。18 世紀半ばになると、南端のリオ・グランデ・ド・スルでも、ウシの大規模な放牧がおこなわれる。18 世紀をつうじて、牧畜はアマゾン地方をのぞく全域にひろまった。
 農作物のなかには、とうぜん野菜果樹もふくまれる。だが、牧場地帯の住民は、野菜をいくらも食べない。インディオの食習慣を踏襲していたので、キャッサバ粉、インゲン、狩猟肉だけで満足する。「味けない野菜類」が割りこむ余地はほとんどなかった。ときたま食べるのは、カボチャ、タロイモ、ニシインドコキュウリ (Maxixe) 、パパイア(在来種の未熟果)。ほかに、トウガラシ、肉桂、ペッパーミントなど、香辛料やハーブに属するものである。
 海岸線から50 ないし 100 キロメートルの地帯をのぞき、植民地時代の内陸地方では、インディオの血をひく混血人種が大多数をしめていた。だから、食習慣もインディオ時代のものを踏襲していたと考えてよい。つまり、野菜は香辛料とイモ類をのぞき、カボチャ、食用トウモロコシなど、数種類にかぎられていた。したがって、内陸地方では、20 世紀半ばまで、野菜需要はきわめて少なかった。
 消費地は海岸地帯であり、それも、南から北へ、サントス、リオ・デ・ジャネイロ、サルヴァドール、レシフェの 5 都市に集中。なかでも、人口がもっとも多いリオの需要が傑出していた。内陸地方といえば、サン・パウロ市だけが特異な事情にあった。以下、リオおよびサン・パウロの野菜消費について考察しよう。
[注-2] 粗糖 (Açúcar bruto) は、サトウキビの搾汁をにつめて生じた糖蜜を、型枠に流しこんでつくる。自然冷却により固化させたあと、型枠から取りだしたものをいう。型枠は丸木をくりぬいてつくる。口の直径は 12 cm 内外。深さ 20 cm 内外。円錐形の底部に丸みをもたせる。取りだした粗糖は、細長い山型になっている。この形は、15 世紀当時のパンに似ていた。両端がややとがったパンを、中央から半分に切るとこの形になる。ポルトガル人は、15 世紀半ばすぎ、アソーレス諸島およびマデイラ諸島で砂糖製造をはじめたとき、型枠のことを「パン・デ・アスーカル」 (Pão de açúcar) と呼んでいた。パンに似た形の砂糖をつくる型枠という意味。だが、まもなく粗糖そのものも、この名で呼ばれるようになる。なお、リオ市の観光名所「パン・デ・アスーカル」の岩山について、「砂糖パン」とするのはあやまり。砂糖をまぜたパンではなく、「パン型の砂糖に似た岩山」である。

[注-3] プロヴィンシア (Província) は、通常、「県」と訳される。日本で明治になって採択された郡県制度の「県」に似ているからである。地方自治に関するブラジルの地域区分は複雑で、時代により、カピタニア (Capitania) 、プロヴィンシア、エスタード (Estado) と変わっていく。カピタニアは植民地時代の地域区分。カピタン・モール (Capitão-mor) が支配する地という意味。1532 年、ポルトガル宮廷はブラジル植民地の開拓を決定。宮廷には資金がなかったため、貴族階級のなかから希望者をつのり、カピタン・モールの資格をあたえた。植民地を、緯度に平行して 16 に区分。各自に 1 区域を譲渡。土地は宮廷に属するが、開拓権と統治権を付与し自費開拓を義務づけた。しかし、インディオの襲撃をうけ開拓が困難だったことから、1549 年、総督府を設置し統治権を一元化した。帝政時代になり、1824 年の憲法でプロヴィンシア制度が採択される。それまでのカピタニアをプロヴィンシアとした。境界線は緯度に平行ではなく、当時の状況にあわせ、ほぼ今日の州境とおなじ線で画された。1891 年の共和憲法により、プロヴィンシア制度を廃止。あらたにエスタード(州)とする。地域割りと州境はプロヴィンシア時代とほぼ同じ。県と州の相違点で最大のものは自治権。エスタードは州議会が制定する憲法を有する。

[注-4] ブラジル経済は、植民地時代から農産物輸出でささえられてきた。主要輸出産品が砂糖だった時期を「サトウキビの時代」と呼ぶ。砂糖にかわりコーヒーが最大の輸出産品になったので、1850 年代から 1950 年代までのほぼ 1 世紀を「コーヒーの時代」と呼んでいる。ただし、サトウキビの時代といっても、18 世紀前半は、金輸出がトップになったため、この時期を「金の時代」 (Ciclo de ouro) とする学者もいる。さらに、18 世紀半ばから 19 世紀末まで、ウシの放牧が拡大された。牛肉輸出はされなかったが、国内経済の発展に大きな影響をおよぼしたことから、「ウシの時代」 (Ciclo de boi) という区分を設定することもある。1960 年以降は工業化が進み、工業立国へと移行した。つまり、「農業の時代は終わった」と解釈され、農業を前提とする時代区分はなされていない。


3 共和革命前後の野菜流通事情
 植民地時代のサン・パウロ市における野菜消費量は、きわめて少なかった。なにしろ、19 世紀初めまで、人口が 1 万にみたなかった小さい町である。帝政時代になってからも、しばらくは、人口の自然増による消費増はあったが、急激にふえることはない。野菜類の需給事情がかわるのは、19 世紀後半のことである。
 ヨーロッパから移住者がやってきて、消費人口が増大したのは 1870 年代以降のことだった。サン・パウロ市の場合、需要増の前に、流通部門における顕著な変化がおこる。つまり、市営小売市場 (Mercado) が開設されたこと[注-5]。それまで、近郊の農家が富裕家庭と個別に供給の約束をしたり、戸別訪問で売り歩くという販売方法が定着していた。それとは別に、主としてアフリカ人女性が路上を売り歩くという方法も、17 世紀以来つづいてきたが、その数は少ない。これら「流し売り商人」は、キタンデイラ (Quitandeira) と呼ばれる[注-6]。
 さらに、フェイラ・リヴレ (Feira livre) [注-7]という小売市場もあった。広場または街路に立つ露天市である。サン・パウロ市でも 17 世紀いらい散在した。売手が勝手に商品(主に食料農産物)を路上に並べて、通行人に売っていたので、一種のフリーマーケットとみることもできる。ただし、1914 年、サン・パウロ市役所が公設野外市としてからは、フェイラの立つ場所を指定。フェイランテ( Feirante 、フェイラの商人)も登録制となったので、自由参加できなくなった。たんなる露天市ではないため、日本語の適訳はみあたらない。以下、露天市を「フェイラ」、露天商を「フェイランテ」と記述する。
 私設フェイラは数えるほどしかなかった。19 世紀半ば、中心部に存在したのは、セテ・カジーニャス街 (Rua das Sete Casinhas) とキタンダ街 (Rua da Quitanda) のみ[注-8]。ほかに、遠隔地へつうずる道路の要衝として、ラッパ(北方からくる荷駄隊が市街地へはいる前に休息する場所)、ピニェイロス(西方からくる荷駄隊が最後に休息する場所)、ヴィラ・マリアナ(サント・アマロまたはサントスからサン・パウロ市街地へはいる直前の休息所)である。これら、郊外 3 個所の休息地には集落ができ、商店も開設される。19 世紀初めころには物資交換の取引場所となっていた。
 19 世紀半ばまで、サン・パウロの市街地は小さなものだった。中心部というのは、現在のセー広場 (Praça da Sé) からアニャンガバウ (Anhangabaú) までの区間にすぎない。帝政時代前半、貴族階級の没落により分譲された屋敷跡には、商店や住宅が建築された。インペラトリス街(現キンゼ・デ・ノヴェンブロ街)とサン・ベント街は、端から端までポルトガル風の建築物がならび、繁華街に変貌。これら 2 本の街路とジレイタ街で画される区域は、「三角地帯」 (Triângulo) と呼ばれ、商業中心地となった。
 そのなかに、上記のセテ・カジーニャス街とキタンダ街がある。18 世紀後半から野菜の路上販売をおこない、市議会の退去命令にもくっせず商売をつづけてきた。19 世紀半ばになると、すっかり変貌した三角地帯のなかで、これら 2 個所だけが異質の光景をみせる。頑として動かない住民を退去させるため、市議会では、1773 年、生鮮食品専門市場の開設を決定。場所はカルモ坂 (Ladeira do Carmo) [注-9]。カジーニャス市場 (Mercado das Casinhas) と呼ばれた。カジーニャス市場では食料となる農畜産物を販売。家屋(店舗)がちいさいため、戸外にも商品を並べて売る。野菜屑や腐敗果実などが路上に散乱し、いつも腐臭がただよう不衛生な場所となった。
 一方、郊外で小さな菜園をいとなむ農家が、生産物をはこび、自分で売るようになってきた。初めは荷馬車で市街地を巡回したが、そのうちに、カジーニャス市場付近の街路に馬車をならべるようになり、あるいはアニャンガバウの低地(サン・ジョアン街付近)にもたむろした。これが交通の障害となってきたのである。なにしろ、カジーニャス街の幅員は 6 メートル。戸外に商品をならべたので、通行できるスペースは 4 メートルほどにすぎない。野菜を供給する農家の荷馬車と買い物客が障害となった。ブラス方面へいくため、ここを通り抜けようとする馬車は、かなり難儀した。
 このような事情を考慮し、市役所は常設市場について検討。1867 年、カルモ湿地 (Várzea do Carmo) [注-10]に常設市場を開設した。「メルカード・グランデ」 (Mercado Grande) と呼ばれた。「大きな市場」という意味。ブラジルで最初の公営常設市場である。場所はカルモ低地わきの名もない空き地だった[注-11]。市場ができてから、メルカード・グランデ広場 (Largo do Mercado Grande) またはメルカード広場 (Largo do Mercado) と呼ばれるようになる。
 それとは別に、郊外の農家が直売するため、1872 年、別の施設を建築した。ロウレンソ・グノコ街(現ビテンクール・ロドリーゲス街)をはさみ西南側に、カイピーラス市場 (Mercado dos Caipiras) を開設。レンガづくりの柱に瓦屋根を乗せただけの建物。壁はない。郊外および近郊の農家が野菜類を搬入して販売した。
 だが、路上をながす物売りはたえない。1870 年代後半からイタリア人移住者がふえ、サン・パウロ郊外へ住みつくようになった。ほとんどが貧民である。物売りか靴磨きをはじめた。靴磨きはサン・ジョアン街の坂(現在のリベロ・バダロー街とアニャンガバウの間)に集中。物売りは野菜果実にはじまり、やがて新聞、パン、牛乳、魚へと手をひろげる。
 在来の物売り女(黒人)にくわえて、イタリア人の流し売りがふえたため、サン・パウロの市街地はさながら「移動市場」の観をみせていた。イタリア人は荷馬車を使う者が多い。戸別に売り歩くだけでなく、特定の場所にとまり、同業者がちょっとしたフェイラをなす。1880 年代は路面電車が走りはじめた時期でもあり、交通に支障をきたした。イタリア人も物売り女も、至急に路上から排除しなければならない。市役所と市議会の緊急課題となった。
[注-5] 小売市場はポルトガル語で「メルカード」 (Mercado) という。ラテン語の "Comerciar" (商品を売る)に由来し、古代ギリシャ時代から存在した。古代ローマ時代に発達したが、ローマ帝国の滅亡にともない消滅。代わって、イラクからシリア、トルコにかけて中近東地域で繁栄する。ポルトガルでは、中世( 1162 年)の文書に "Mercátus" の名がみられるところから、アラビア人の影響をうけ小売市場ができたと考えられる。この市場は、毎年 1 回あるいは隔年に立つ不定期露天市だった。13 世紀にはヨーロッパ各地にひろまるが、先鞭をつけたのはポルトガルのようである。12 世紀に、毎週 1 回の定期市として定着[注-7 参照]。19 世紀に入ると、露天の定期市から常設市場(食料品専用の販売施設)が派生した。

[注-6] キタンデイラ (Quitandeira) は、「キタンダの女」という意味。キタンダ (Quitanda) は、アンゴラ語の “kitanda” で、「物売り」または「市場」という意味。街路で物品を売り歩く女性は、キタンデイラ (Quitandeira) と呼ばれた。もちろん、黒人男も売り歩いたが大半は黒人女である。野菜、果実、牛乳、鶏卵、生鶏、生魚、エビなど、生鮮食品を売る者が多く、一部ではハーブ類、薬用植物もあった。とりわけ、野菜(パセリ、セロリ、ケール、キャベツ、ネギ、オクラ、カボチャなど)を売る黒人女が多かったことから、19 世紀末ころになると、キタンダを「野菜売り」と解釈するようになり、今日では「八百屋」あるいは「果実小売店」をいう。

[注-7] フェイラ・リヴレ (Feira livre) は、通常、露天市または青空市場と訳される。日本では 1980 年ころから「朝市」という言葉が定着したようである。しかし、「午前中だけ営業」という点では共通しても、販売商品や法規がちがうため、「朝市」は適訳といえない。フェイラ (Feira) は、ラテン語のフェリア( Feria 、祭日)がなまったもの。祝祭日に、教会前の広場で物売りがならぶことからはじまり、しだいに「小売市場」の性格を強めていった。露天市は中世の中東地域ではじまったとされる。アラブ文化の影響をうけたポルトガルでは、12 世紀に露天市が立っていた。市の立つ場所はファンガ (Fanga) と呼ばれ、のちに、あらゆる商品が販売されるようになった。ファンガとは「大きな袋」という意味。コムギ、トウモロコシ、豆類、デンプンなどを、大きな袋(容積 60 ~ 80 リットル)にいれて、枡を単位に計量販売した。穀物や小麦粉などの袋がならんだことから、市(いち)のことをファンガと呼ぶようになった。アフォンソ三世王の在位期間中( 1248 年 - 1279 年)に、毎年 1 回あるいは隔年の定期市とし、同時にフリーマーケットとした。売り手の自由参入をうながすため、出店手数料や税金をすべて免除。この措置により、たちまち国内各地に露天市が立ち、名称も「フェイラ・リヴレ」( Feiras livres 、自由に売ることができる露天市)となる。ただし、この名称を使うのはポルトガル語圏のほか、スペイン語圏の一部(チリ、ウルグアイ、メキシコ)にすぎない。ほかの国では、フリーマーケット (Free market) 、あるいは、露天市 (mercados de rua) か露天の公設市場 (mercados públicos de rua) に該当する各国語を使う。自由市といっても、それぞれ市議会が定める法律 (Lei municipal) や市長の政令 (Decreto) により、さまざまな規制がある。また、時代によって規制内容もちがうことから、日本でいうフリーマーケットと、ブラジルのフェイラ・リヴレはかならずしも一致しない。さらに、今日のフェイラは認可制であるため、フェイランテ( Feirante 、フェイラの商人)は市役所に登録しなければならない。この点でもフリーマーケットとはことなる。したがって、日本語の適訳はみあたらず、ブラジル在住の日本人は、ポルトガル語のカタカナ表記で「フェイラ」、商人を「フェイランテ」と記述する。

[注-8] セテ・カジーニャス街 (Rua das Sete Casinhas) とキタンダ街 (Rua da Quitanda) は、ともに 19 世紀におけるサン・パウロ市の中心部にあった街路。キタンダ街は現存する。サン・パウロ市内中心部のセー広場近く、キンゼ・デ・ノヴェンブロ街( 19 世紀半ばにはインペラトリス街と呼ばれていた)からパトリアルカ広場へつうずる短い街路)。19 世紀半ばの繁華街「トリアングロ」( Triângulo 、現キンゼ・デ・ノヴェンブロ街、サン・ベント街、ジレイタ街で画される三角地帯)のなかで、黒人キタンデイラが野菜の路上販売をしていたことから、「キタンダ街」と呼ばれた。いつも悪臭がただよい不潔だったので、上流社会の人間は嫌悪していた。一方、セテ・カジーニャス街には、貧しい黒人が、7 戸つづきの粗末な長屋をつくって住みついた。だから「セテ・カジーニャス」(七軒長屋)と呼ばれた。この場所は現存しない。19 世紀末の建築ブームで消滅し、今日ではビルになっているはずだが、場所の特定はむずかしい。ロザリオ広場 (Largo do Rosário) の近く、現バネスパビル (Edifício Banespa) の近く、アントニオ・プラード広場とコメルシオ街をむすぶ露地(今はビルが建っている所)と推測される。

[注-9] カルモ坂 (Ladeira do Carmo) は、現ランジェル・ペスターナ大通り (Avenida Rangel Pestana) の一部に該当。アニッタ・ガリバルディー街 (Rua Anita Garibaldi) との接続点からくだる坂道の区間である。坂の左側、現ロベルト・シモンセン街 (Rua Roberto Simonsen) との角にカルモ教会 (Igreja do Carmo) があり、坂に面してカルモ広場があった。現在は建築物が占有し、教会も広場も痕跡すらとどめていない。1773 年、カルモ坂の左側にそってカジーニャス( Casinhas 、小さな住居をつらねた棟割り長屋)を建築。そこへセテ・カジーニャス街およびキタンダ街の貧民(野菜の路上販売人)と、流しのキタンデイラを入居させ、常設市場にする計画だった。だが、セテ・カジーニャス街とキタンダ街のアフリカ人は移転せず、流しのキタンデイラも、ほんの一部が入居しただけ。だが、いちおう常設市場はできた。まもなく、カルモ坂は「カジーニャス坂」 (Ladeira de Casinhas) と呼ばれ、さらに、カジーニャス街 (Rua das Casinhas) の名が定着。常設市場も、最初はたんにメルカード(=市場)だったが、カジーニャス市場 (Mercado das Casinhas) と名づけられた。

[注-10] 「カルモ湿地」 (Várzea do Carmo) または「カルモ低地」 (Baixada do Carmo) と呼ばれる場所は、現在の「ドン・ペドロ二世公園」 (Paruque Dom Pedro II) とほぼ同じ区域をいう。タマンドゥアテイー川 (rio Tamanduateí) の氾濫原である。この川は海岸山脈 (Serra do Mar) を水源とし、サント・アンドレー市、イピランガ区をとおり、チエテ川 (rio Tietê) へそそぐ。19 世紀末に施行された暗渠工事で、ドン・ペドロ二世公園の区間は地下へ埋没した。それまで、集中豪雨のつど氾濫し、雨期にはあちこちに溜まり水がのこる湿地帯となっていた。カルモ教会前の広場から、カルモ坂(現ランジェル・ペスターナ大通り)をくだった下にひろがる低地だったので、この名がついた。対岸のブラス区では、貧しいポルトガル人やアフリカ人農家がささやかな菜園をいとなむ。そこから東部、グアルーリョス、イタケーラ方面への道路がつうじていたことから、カルモ低地は大きな障害となっていた。これを解消するため、土盛りして馬車道を造成した(現ランジェル・ペスターナ大通りおよびガゾメトロ街)。ちなみに、今日のドン・ペドロ二世公園が造成されたのは、1921 年である。都市美化計画にもとづき、雨期の滞水をふせぐため湿地に土盛りし、花壇も設置した。

[注-11] メルカード・グランデの位置は、現在のドン・ペドロ二世公園わき。ジョアン・アルフレド坂下の右側で、背面はヴィンテ・エ・シンコ・デ・マルソ街とカルモ低地。横長の建物(長さ約 120 メートル)は、パチオ・ド・コレジオをみあげる格好になる。前面は空き地で、郊外から野菜類をはこんできた農家が、馬車やロバをつないだ。このスペースと建物をふくめた敷地全体を、当時としてはめずらしい塀囲いとした。ジョアン・アルフレド坂と反対側はトラヴェッサ・ド・メルカード (Travessa do Mercado) で、こちら側の塀に入口があった。この街路とジョアン・アルフレド坂をむすぶのは、ロウレンソ・グノコ街 (Rua Lourenço Gnocco) 、現在のドトール・ビテンクール・ロドリーゲス街。長年にわたり「メルカード広場 」(Largo do Mercado) と呼ばれていたが、1937 年、市営カンタレイラ市場が開設され、野菜卸売業者が新施設へ移転してからは、フェルナンド・コスタ広場 (Praça Fernando Costa) と改称された。当時のサン・パウロ州農務長官、フェルナンド・デ・ソウザ、コスタの名をとったもの。
 

4 サン・パウロの都市化と野菜需要
 キタンデイラ[注-6 参照]をはじめ、街路をながす物売りの排除はかんたんでない。19 世紀前半、市役所はしばしば取り締まりをこころみた。しかし、うまくいかない。都市美観をそこねるからといっても、物売りには生活がかかっている。生計を保証するため、カルモ坂にカジーニャス市場を開設したが、美観問題は解決できなかった。そのカジーニャス市場を閉鎖し、メルカード・グランデを新設した。それでも、流しの物売り問題は残る。
 この件に関連し、1873 年、あらたなアイデアが提起された。アクー坂 (Ladeira do Acu) [注-12]に常設市場を開設する案である。郊外の野菜栽培農家に、直接販売させるための提案だった。市議会は検討の段階で、キタンデイラを収容する場所をも考慮。そのためには、大きな建物を用意しなければならない。
 帝政初期におけるキタンデイラは主として黒人女だったが、1870 年代後半になると、ヨーロッパ人も参入。そのころ、ヨーロッパ諸国からブラジルへ移住する者が急増。大半はサン・パウロ県のコーヒー農場労働力となり、一部は南部(サンタ・カタリーナ県、リオ・グランデ・ド・スル県)で植民地を建設した。コーヒー農場で就労したなかで、賃金を不満とする者は年季契約を破棄。農場をとびだすと、多くはサン・パウロ市へむかう。とくに、イタリア人が多かったことから、サン・パウロ郊外ブラス区は、イタリア人の集団居住地区となった。
 だが、サン・パウロ市内にさほどの仕事があったわけではない。かんたんにできるのは、路上の物売りくらいなもの。男は雑貨や小間物を売る。サントスから魚をはこんで売る者もあらわれた。そして、一部の女性はキタンデイラとなり、野菜を売り歩いた。1880 年代にはいると、イタリア人、スペイン人のキタンデイラがふえ、野菜だけでなく花売りも登場。セー広場、ロザリオ広場、サン・ベント広場などで、数人が木箱をならべて花を売るようになる。それまで、黒人女の路上販売に手をやいてきたのに、イタリア人物売りが増大したため、市役所もとりしまりきれない。
 1890 年、野菜販売専門の小売市場を建築した。1890 年 6 月 30 日に落成。サン・ジョアン小売市場 (Mercado de São João) [注-13]である。カルモ低地のメルカード・グランデに対し、メルカジーニョ( Mercadinho 、小さい市場)と呼ばれた。メルカジーニョには農家でない者(キタンデイラ)もボックスをかまえたが、野菜はメルカード・グランデで仕入れた。それは、メルカジーニョが開設される前からのことである。したがって、メルカード・グランデの卸売機能は、1880 年代、イタリア人の物売りが増えた時期にそなわってきたと推測される。メルカジーニョの開設により、卸売取引が増大した。
 メルカジーニョができたことにより、郊外の住民が買い物のためあつまってくる。野菜需要が増大した。主たる顧客はイタリア人である。19 世紀末のイタリア人は、中国人とならぶ「野菜ずき民族」として知られていた。さらに、ポルトガルからはあらたな移住者があり、彼らもまた野菜をかなり摂取する。だが、サン・パウロ郊外へ住みついたイタリア人の数は多く、野菜消費の主役となった。その食習慣は、サン・パウロ人の食生活に強く影響した。というよりは、食生活を根本的に変えてしまったというほうがあたっている。
[注-12] アクー坂 (Ladeira do Acu) は、サン・ジョアン街の一部をなす。幅員 10 メートルの街路は、ロザリオ広場からくだり、アニャンガバウの低地にいたると、アクー橋 (Ponte do Acu) をわたる。橋の対岸はパイサンドゥー広場 (Largo Paissandu) まで、短い上り坂。後年、右側に中央郵便局( Correio Central 、現アニャンガバウ郵便局)が建築された。サン・ジョアン街をはさみ左側には、トタン屋根のポリテアマ劇場 (Teatro Politeama) があった。アクーという名は奇妙な感じがする。アスー坂 (Ladeira do Açu) とする文献もあり、いずれがただしいかは不明。正式名称は「サン・ジョアン坂」である。坂の右側は叢(くさむら)であり、低いところにココヤシと竹やぶがあるだけ。すぐ近く、のちにシャー陸橋 (Viaduto do Chá) が架設されたあたりは、19 世紀末ちかくまで郊外とみなされていた。 陸橋の南側、現在のバンデイラ広場があるあたりはピッケス (Piques) とよばれ、荷駄隊の集散地だった。商店もありいつも人やロバがあつまる。だが、アニャンガバウの西側、サン・ジョアン街を中心にサン・ルイス大通りからルス公園までの一帯は、人家が少なく空き地が多い。レプブリカ広場 (Praça da República) も、雨の日は泥濘となる空き地で放置されていた。

[注-13] サン・ジョアン小売市場 (Mercado de São João) は、サン・ジョアン街とアニャンガバウに面する。裏側は、セミナリオ街 (Rua Seminário) 、セミナリオ露地 (Travessa Seminário) 。この区画に、1921 年、中央郵便局(現アニャンガバウ郵便局)が建築され、残った部分はコレイオ広場 (Praça do Correio) と呼ばれる。市場の建物は、一辺が 50 メートルの正方形。内部には東西方向に 2 棟もうける。レンガづくり。ベルギー製トタン屋根 (Telhado em folhas de flandres) の大きな建築物だが、既存のメルカード・グランデ(敷地面積は縦横とも倍以上ある)に対し、メルカジーニョ( Mercadinho 、小さな市場)と呼ばれた。各辺のまんなかに入口がある。果実、穀類、野菜類、腸詰め、生鶏など、近在の零細農家が生産物をもちこみ自分で販売していた。魚のコーナーもあり、生魚はサントス港から運ばれてきた。
 

5 ヨーロッパ人がもたらす食文化
 ここで、19 世紀末から 20 世紀前半にかけて、サン・パウロ市における食生活の変化を考察しておこう。植民地時代の主食はキャッサバ粉とインゲン、副食が狩猟肉( 18 世紀以降は半干しまたは塩漬けの牛肉)だったことはすでに述べた。インゲンは煮豆といっても、鍋に水をたっぷりと張って煮る。この煮汁をキャッサバ粉に吸引させてたべる。粉と汁の量により、どろどろになるか、あるいはパサパサになるかは、食べる人の好みしだい。
 植民地時代からの料理メニューをかえたのは、サン・パウロ市に集中したイタリア人だといってよい。19 世紀末にはじまる料理の変化は、すぐリオへつたわった。やがて、サルヴァドール市、レシフェ市へと波及。ただし、内陸の地方都市へとひろまるのは、20 世紀半ばのことである。料理としてもっとも大きな変化は、牛肉と野菜をいっしょに煮ること。それまでは、インゲンを煮るとき、狩猟肉か干し肉を小さく切って煮こんだ[注-14]。帝政時代になると、インゲンときりはなし、肉だけの煮物料理をつくるようになった。
 肉といっても、帝政時代に生鮮肉は少なかった。ほとんどが塩漬け肉、または大量の塩をふった干し肉[注-15]である。だが、東北ブラジル地方では、ウシの飼育がひろまった 17 世紀以来、半干し肉の形で短期保存する方法が普及。カルネ・デ・ソル (Carne de sol) と呼ばれる。一方、リオ・グランデ・ド・スルでは 18 世紀後半、シャルケ (Charque) と呼ばれる半干し肉が考案され、急速にひろまった。
 植民地時代の調理法は、塩漬けであれ、干し肉、半干し肉であれ、同じこと。インゲンの煮汁に、肉片を数個いれて煮込むだけ。19 世紀になって、リオ・デ・ジャネイロ市とサン・パウロ市では、野菜といっしょに煮込む料理が貴族階級の間に普及。シャルケの用途がひろがった。
 イタリア人は野菜サラダを食べる。これが、20 世紀にはいり、ポルトガル人、スペイン人、ドイツ人、ポーランド人、ウクライナ人へとひろまり、1930 年代には、工場労働者の常食となっていた。この時点で生野菜を食べないのは、東北ブラジルから流入した貧民である。貧民は第二次世界大戦中も続々とサン・パウロ市へながれてきた。だが、戦前からきていた同郷人に感化され、1950 年代にはいると野菜を食べるようになる。サン・パウロ市における野菜消費が全般にひろまるのは、そのころからである。
 野菜摂取をひろめたイタリア人は、並行してコメも普及させた。コメ料理はインドから中東へつたわり、アラビア人が調理法を工夫。中世に地中海沿岸地方を支配したとき、ペニンスラ半島とイベリア半島の民族が、アラブ文化の影響をうけ、コメ料理をつくるようになった。ただし、イタリアのリソット (Rizoto) 、ポルトガルのリゾット (Risoto) 、スペインのパエリャ (Paella) は、いずれも富裕層の「ごちそう」だった。ブラジルへ移住したイタリア人は、庶民であるにもかかわらず、コムギとコメを栽培し自給。キャッサバ粉を忌避し、パンと米料理を主食とした。
 もうひとつ、イタリア人はパスタ類も普及させた。サンタ・カタリーナ州とリオ・グランデ・ド・スル州では、あちこちに植民地を造成したので、コムギを栽培し、水車を利用して製粉した。域内で自給したことから、パンとパスタに不足はない。サン・パウロ市ではそれができず、州内の内陸部(カンピーナス、ピラシカバ、アララクアラ、バウルー地方)で栽培したコムギを購入。ブラス区の食品工場でパンを焼き、あるいはスパゲティを製造した。
 コムギ粉の品質は悪いが、デンプンパンよりは上等のパンを焼くことができる。また、スパゲティをイタリア本国から輸入すると高くつく。国産コムギでがまんしたが、ポルトガル人富裕層もこれを食べたので、徐々に常食へと移行していった。小麦粉をつかった食物として、アラブ料理をアレンジした揚げ物がある。なかでも、19 世紀半ばころに考案されたパステル (Pastel) [注-16]は傑作のひとつ。今日のフェイラには欠かせない食べ物となっている。
[注-14] インゲンと肉をいっしょに煮こむ料理は、先住民の時代からあったが、ポルトガルにもあった。インゲンを煮るとき水を多めにする。とろ火で 3 時間ないし 4 時間煮る(燃料が薪の時代は熾火に灰をかぶせ余熱で一晩煮る)。豆がやわらかくなったころ、塩をふった半干し肉(狩猟肉または牛肉)を小さく切って鍋にいれ、中火でインゲンとともに 30 分ほど煮つづける。脂味と塩味をつけるためである。肉が煮えあがるころ、豆はかんたんに押しつぶせるくらいにやわらかくなっており、それが「食べごろ」である。干し肉の塩も豆に浸透し味がよくなる。この料理をポルトガル人は「フェイジョアーダ」 (Feijoada) と呼んでいた。インゲンの煮物をアレンジしたという意味である。今日、「フェイジョアーダ」と呼ばれ、ブラジルの名物料理とされるものは、19 世紀末、リオ・デ・ジャネイロ市のレストランが考案。当時は、「フェイジョアーダ・カリオカ」( Feijoada carioca 、リオ式フェイジョアーダ)という名だった。すぐにサン・パウロ市へつたわり、20 世紀半ば、具材をアレンジし「フェイジョアーダ・パウリスタ」( Feijoada paulista 、サン・パウロ式フェイジョアーダ)と名づける。これが 1970 年代から 1980 年代にかけて、ブラジル全国へひろまったため、リオ式フェイジョアーダは姿をけした。名称も、たんに「フェイジョアーダ」とする。しかし、原初的フェイジョアーダの発祥地、東北ブラジル地方では、インゲンといっしょに肉片を煮こんだものを、今なお「フェイジョアーダ」と呼んでいるためまぎらわしい。

[注-15] 牛肉の保存法として、植民地時代から塩漬け肉 (Carne salgada) 、半干し肉 (Carne do sol, Charque) 、干し肉 (Carne seca) の 3 とおりあった。塩漬け肉は、屠体から肉だけを 2 kg ないし 3 kg の塊に切りとり、大量の食塩をふって樽にいれ保存するもの。干し肉は「カルネ・セッカ」 (Carne seca) と呼ばれる。屠体の部位ごとに肉塊( 3 kg ないし 5 kg )を切りとる。厚さ 3 cm ~ 5 cm でほぼ平らに開き、大量の食塩をふって風乾する方法。風乾日数が長いほど水分は蒸散し固くなる。半干し肉は上記ふたつの中間に位置する。東北ブラジル地方ではカルネ・デ・ソル (Carne de sol) と呼ばれ、干し肉と同じプロセスだが、食塩の量は少ない。日陰で風乾し、3 日から 7 日が食べごろ。表面は乾いているが内奥は「血がしたたらないていどの生(なま)状態」にある。そのまま風乾をつづければ干し肉になる。半干し肉は主として牛肉をつかうが、ブタ、ヤギ、ヒツジにも適用される。ヤギとヒツジの場合は、肉塊を切りとらず、屠体( 1 頭分)を厚さ 1 cm 前後に薄く切りひろげる(畳 1 枚ほどの大きさで、ところどころに四肢の骨と肋骨が付着)。これを、カルネ・レタリャーダ( Carne retalhada 、薄くひろげた肉)という。一方、リオ・グランデ・ド・スル地方では、1777 年、ポルトガル人ジョゼ・ピント・マルチンス (José Pinto Martins) が、シャルケ (Charque) と呼ばれる半干し肉を考案。セアラにおけるカルネ・デ・ソルの製法をアレンジしたもの。ウシの屠体から、塊になった肉を切りとり平らにひろげるところまでは同じ。表面に大量の食塩をふってしばらくおく。血液のまじった水分が浸出する。ときどき追加の塩をふり、大量の水分を浸出させ、表面が半乾きの状態になったころ、日陰で風乾する。天候により、7 日から 14 日でできあがり。表面は乾いているが、内奥は半生状態である。冷蔵庫が普及された今日、干し肉はほとんど姿を消した。だが、カルネ・デ・ソル(東北ブラジルの内陸地方)とシャルケ(サン・パウロ州以南の地域)は存続。半干し肉の料理が、さまざまなレシピによって普及され、現代人の好みともマッチするからである。どちらかといえば、味の点でカルネ・デ・ソルがまさっている。肉の水分をわずかしか滲出させず、さほど乾燥していないので、味は生鮮肉に近い。

[注-16] パステル (Pastel) は、パステイス (Pastéis) と複数形をつかうことが多い。フランス語の “Pâté” (中世のパスタ類、小麦粉を練ったもの)が変化してパステル(練りもの、小麦粉の衣につつんだ食物)となった。19 世紀のブラジルで考案されたパステルは、小麦粉と水を練ってやや固めの生地(きじ)を用意。これで衣をつくり、挽肉をいれて包む(今日のギョウザとほぼ同じ)。最初のころは熱湯にいれて煮た。1880 年代にオーブンで焼く調理法、あるいは油で揚げる方法が考案された。だれが考案したかは不明。19 世紀後半の揚げ物料理といえば、本家のアラブ諸国をはじめ、ポルトガル、スペイン、フランスで普及されていたことを考えると、イベリア半島または南フランスからブラジルへ移住したひとりであろう。パステルを油で揚げるようになって、今日の形(衣が大きく挽肉量を少なくする方法)が採択される。1890 年代、人の集まるメルカード・グランデ、メルカジーニョ、カジーニャス坂では、パステルの屋台がいつも商売をするようになった。煮もの、焼きものというパステルはいつしか姿を消し、1910 年ころには揚げ物だけになっていた。1914 年以降、市営フェイラが増える過程で、「フェイラにつきもの」の食べ物となって今日にいたる。

第 2 章 サン・パウロ近郊における野菜生産 >>


サンパウロ人文科学研究所 Centro de Estudos Nipo-Brasileiros