ブラジル文化と経済の(歴史的な)関係について(2)
辻 哲三(人文研 監査役)
segunda-feira, 25 de abril de 2011

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カトリックと経済

ブラジルはまた世界最大のカトリック信者の人口を擁する国であることも一つの特徴であろう。最近はプロテスタントが急速に伸びてきていることは確かであるが、植民地時代以来、1808年のポルトガル王国がブラジルに移転するまでは原則として異教徒であるプロテスタントは入国禁止の国であった。

故にカトリック教的な国民性を有するのは当然である。このこともブラジルの発展に影響を与えたことは間違いなかろう。簡単に説明するならばカトリックは保守的で人文主義的な教育を重点に行い、労働を嫌悪してきた。それどころか奴隷制時代は「怠惰こそ美徳である」としてきた。対して、プロテスタントは改革的で自然科学にも目を向け、労働を神聖視してきた違いは否定できない。国教として君臨したカトリックであったが、残念ながら末端までカトリック思想の統一は出来なかった。それは後に述べる混乱と矛盾を解決できなかったからだ。

ブラジルの文化指数

ブラジルの経済自由度、医療制度の普及率、貧富の格差指数、汚職度、基礎教育指数、経済競争力、国連による(人間開発指数、生活レベル・ランク)、各種犯罪率、民主化指数、幼児死亡率、技術開発力、読書購買量、金利比較、インフラ整備、児童の就労率、等を並べて見るとブラジルの文化レベルが良く分かる。その多くは世界で最低のレベルなのだ。要するに、経済成長に対して文化面では全然追いついていないのである。

ここにブラジルの将来に最大の欠陥があることを知ってほしい。

残念ながら、ブラジルに関する経済や文化の本を見ても、これらの実情を書いた本は見当たらないのも不思議なことだ。
最近は先進国も新興国も国家の面子にかけてGDP拡大を競い合っているが、何も見かけのGDPの拡大だけが国民の幸せを呼び込むものではないように思える。

確かに雇用の確保と豊かな社会を実現するには必要不可欠なものであるが、社会の歪みを放置しておいてGDPの拡大のみを論ずるのは如何なものであろうか。

特にブラジルのように社会のひずみが大きい国では、これらを放置したまま経済が正常に発展し続けることは難しいのだ。
これらの文化指数の示すところは、ブラジル人は何事も目前の目的重視で過去や未来よりも現実を直視して直進する文化があって選挙に直接関係しない物事には投資を避けてきた歴史の結果である。

これらが改善されない限り資源大国にはなれても先進国にはなれないのである。

確かにブラジルには豊富な資源が数多く眠っているようだ。しかし、文化と資源の関係は本来何の関係もないものである。というのは文化とは「人間の英知が作り出した結果」であって天然資源が有る、無いとは全く関係がないからである。

資源はたまたまその地に存在していたものが発掘されて始めて文化と経済に関係してくるものである。要するに棚からボタ餅が落ちてきたようなものである。

このブラジルの歴史は考えようによっては、この棚からボタ餅の連続なのだ。初期開拓時代は砂糖と言う世界商品に恵まれ、18世紀には金を発見、19世紀にはコーヒーと天然ゴムのブームを巻き起こし、20世紀には鉄鉱石、石油、アルミ、パルプと天然資源や農産物の活用で潤ってきた。それらの資源が今度は担保となって外資が直接、間接的に流入するのであるから、棚ボタが二度、三度、いや永続的に続く可能性すらあるのであるから神様に感謝感激せねばならない。

そのお陰で国家は工夫や努力は最小にして大きな利益が転がり込んでくるのである。

にも関わらず歴史的に見ても国家の発展は延々と進まず、大土地所有制は続き、今なお数千万人が貧困と空腹に喘いでいる。都市の住民は毎日治安の悪化におびえているのだ。これは見方によれば人災であり国家の犯罪でもあるのだ。政府は選挙対策として貧困層の人間が減ってきていると大々的に報道しているが、程度の問題であって貧困と文盲が多いことに変わりはないのである。

さて、対極にある無資源国の日本人は農耕民族で連帯意識が強くて勤勉、工夫、努力、技術しか出口がない国とはおのずと国民性が違ってくる。働けば働くほど円が上昇する対極に位置する世界とは根本的に違うのである。

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サンパウロ人文科学研究所 Centro de Estudos Nipo-Brasileiros